「あなたは妃になれません」と言われた令嬢を、隣国王太子が望んで離しません

柴田はつみ

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第3話 セレフィーナのお茶会

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 セレフィーナから茶会の招待状が届いたのは、その二日後のことだった。

 厚みのある淡いクリーム色の紙に、流れるような美しい文字で綴られた短い文。
 差出人は、セレフィーナ・ド・ヴァルティエ。

 王妃付きの女官が直々に届けに来た時点で、断れるものではないとわかった。

 リシェルは窓辺でその招待状を見つめたまま、しばらく動けなかった。

「……ずいぶん、お早いのですね」

 後ろでミラが、抑えた声で言う。

「ええ」
「お断りには」
「できないでしょうね」
「でしょうね」

 ミラの返事は硬かった。

 招待状には、いかにも親しげな文面が並んでいた。

 先日はゆっくりお話もできませんでしたので、ぜひ小さなお茶会へお越しくださいませ。今後のことも含め、仲良くしていただければ嬉しいですわ。

 今後のこと。

 その一言が、薄い紙の上で妙に重たく見える。

 リシェルは指先で封蝋の跡をなぞった。
 丁寧で、綺麗で、非の打ち所のない招待状だ。
 だからこそ、逃げ場がない。

「お嬢様」

 ミラが少しだけ近づいてくる。

「嫌でしたら、体調不良ということにも」
「一度はできるでしょうけれど、二度は無理だわ」
「……はい」
「それに、どのみち顔を合わせることになるもの」

 王妃の隣にいるのがセレフィーナになるのなら、避け続けることはできない。
 今ここで逃げても、もっとみじめになるだけだ。

 リシェルは招待状を閉じ、小さく息を吐いた。

「行きましょう」
「かしこまりました」

 ミラはそう答えたものの、表情は晴れなかった。


 お茶会は、王宮の東棟にある小さな応接間で開かれた。

 春の陽射しがやわらかく差し込む、女たちの集まりに向いた部屋だった。
 淡い薔薇色の壁紙。白いレースのカーテン。小卓の上には繊細な銀のティーセットと、花びらの形をした焼き菓子。窓辺には季節を先取りしたような淡桃色の薔薇が飾られている。

 いかにも、セレフィーナらしい部屋だとリシェルは思った。

 華やかで、甘やかで、隅々まで可愛らしい。
 けれど上品さは失われていない。
 誰が見ても「素敵」と言うような整え方だった。

「まあ、リシェル様」

 部屋に入った途端、セレフィーナが立ち上がった。

 今日の彼女は、春の花そのもののようだった。
 蜂蜜色の髪はゆるやかに結い上げられ、耳元には小さな真珠。淡い薄紅のドレスは肌の白さを引き立て、青緑の瞳はきらきらと楽しげに輝いている。
 何気なく振り向くだけで絵になるのだから、やはりかなわない、とリシェルは思う。

「お招きありがとうございます、セレフィーナ様」
「お越しいただけて嬉しいですわ。どうぞ、こちらへ」

 席に着くよう勧められ、リシェルは静かに腰を下ろした。

 ほかにも数人、若い令嬢たちが招かれていた。
 いずれも家格の高い家の娘ばかりで、その顔ぶれを見ただけで、この茶会がただの親睦会ではないことがわかる。

 王妃に近い家。
 社交界で発言力のある家。
 つまり、これから“誰を王太子妃候補として見るか”を自然に決めていく側の人間たちだ。

 リシェルの胸の奥が、静かにこわばる。

「今日は本当に内輪だけなのです」
 セレフィーナが優雅に笑った。
「皆さま、気楽にお過ごしくださいませね」

 そう言いながら、彼女自身がこの場の中心だった。

 令嬢たちはすぐにセレフィーナの周りへ空気を寄せていく。
 彼女がひとつ話題を出せば笑いが起こり、誰かが言葉に詰まれば自然に助け舟を出す。
 気配りも、会話の軽やかさも、絶妙だった。

 王妃が華と言った意味が、こういうことなのだと改めて思い知らされる。

「リシェル様は、最近お変わりありません?」
 不意に話を振られ、リシェルは顔を上げた。
「はい。変わりなく過ごしております」
「そう、よかったですわ」
 セレフィーナは、ほっとしたように笑う。
「このところ、いろいろとお疲れだったでしょうから」

 周囲の令嬢たちの視線が、いっせいにこちらへ向く。

 いろいろ。
 その曖昧な言葉の中に、何が含まれているのかは明らかだった。

「ありがとうございます」
 リシェルは微笑んだ。
「お気遣い、恐れ入ります」

 それ以上は何も言わない。
 言えば、相手の思うつぼだとわかるから。

 だが、向かいに座っていた子爵令嬢の一人が、小首を傾げるようにして言った。

「でも、リシェル様は本当にお優しいですわね。普通なら、もっとお辛い顔をなさっていてもおかしくありませんのに」
「そうですわね」
 別の令嬢も頷く。
「わたくしでしたら、とても平然とはしていられませんわ」

 悪意の形をしていない言葉ほど、避けにくいものはない。

 リシェルはカップに視線を落とした。
 白磁の縁に金が細く入っている。紅茶の表面がわずかに揺れて、自分の顔が曖昧に映った。

「リシェル様は、心がお強いのですわ」
 セレフィーナが、やわらかくまとめる。
「わたくし、そういうところ、とても素敵だと思っておりますの」

 助けているようで、逃がしていない。

 この人は本当に上手だ、とリシェルは思った。


 茶会が進むにつれ、話題は自然に春の式典へ移っていった。

「今年の春の祝賀会は、例年より規模が大きくなるそうですの」
「まあ、では隣国からの使節も?」
「ええ、そう伺っておりますわ」

 令嬢たちの声が弾む。

 その輪の中心で、セレフィーナは微笑みながら言った。

「わたくしも、王妃殿下から少しだけお手伝いを仰せつかっておりますの」
「さすがですわ!」
「もうすっかり信頼されていらっしゃるのですね」

 そうでしょうとも、と誰もが思っている顔だった。

 リシェルは黙ってカップを置いた。
 指先に熱が移る。けれど胸の内側は、逆に冷えていく気がした。

「リシェル様は、これまでたくさん学ばれてきたのでしょう?」
 セレフィーナが、今度は真正面から尋ねてくる。
「式典の細かな決まりや、王妃殿下のお好みも、よくご存じなのでは?」
「……必要なことは、一通り」
「まあ、心強いですわ」
 セレフィーナは嬉しそうに微笑んだ。
「でしたら、ぜひ今度いろいろ教えてくださいませ。わたくし、まだ不慣れなことも多くて」

 その瞬間、数人の令嬢たちの表情が変わった。

 ああ、そうか。
 これはつまり、

 あなたが積み上げたものを、これからは私が使います

 と、柔らかく言われているのだ。

 リシェルは一瞬だけ息を止めた。
 それでも表情を崩さず、静かに答える。

「わたくしにお役に立てることがあれば」
「ありがとうございます、リシェル様」
 セレフィーナは心底うれしそうに言った。
「本当によかった。わたくし、ずっと仲良くなりたいと思っておりましたの」

 その言葉に、何人かの令嬢がくすりと笑う。
 悪意ではなく、微笑ましさに笑ったような顔で。

 でも、リシェルにはそのやさしい空気がひどく遠かった。


 しばらくして、焼き菓子が運ばれてきた。

 薔薇の形をした砂糖菓子、蜂蜜を使った小さなタルト、淡い桃色のクリームを乗せた焼き菓子。どれも可愛らしく整っている。
 セレフィーナらしい選び方だと思う。

「リシェル様は、甘いものはお好き?」
「はい。いただくのは好きです」
「まあ、よかった」
 セレフィーナが、給仕の女官へ視線を向ける。
「では、その木苺のタルトをリシェル様へ」

 皿が差し出される。
 リシェルは礼を言って受け取ろうとした。

 その時だった。

 女官の手が、ほんのわずかにぶれた。

 皿が傾き、鮮やかな木苺のソースが、リシェルのドレスの袖口に落ちる。

「……っ」

 小さく息を呑む声が、あちこちから上がった。

 青灰色のドレスに、赤い染みが滲む。
 派手ではない色合いだからこそ、その汚れはひどく目立った。

「まあ!」
 セレフィーナが立ち上がる。
「ごめんなさい、リシェル様。大丈夫?」
「……ええ、少し驚いただけです」
「すぐにお着替えを」
「それほどでは」
「いいえ、だめですわ。皆さまの前ですもの」

 心配そうな顔。
 だが、その言葉がかえって皆の前で失態をさらしたことを強くする。

 女官は青ざめて平謝りしていた。
 故意には見えない。
 けれど、リシェルはなぜか、ほんの一瞬だけセレフィーナの青緑の瞳が静かに細められた気がした。

 気のせいだろうか。

「こちらへ」
 セレフィーナが自らハンカチを差し出してくる。
「別室で少し拭きましょう。すぐ落ちるかもしれませんわ」
「ありがとうございます」

 断れなかった。

 リシェルは静かに立ち上がり、セレフィーナに導かれて隣の小部屋へ向かう。
 背中に、令嬢たちの視線を感じた。

 不憫そうな視線。
 けれど同時に、少しだけ面白がる視線でもあった。


 小部屋に入ると、扉が閉まる。

 途端に静かになった。

 セレフィーナはリシェルの袖を見て、ため息まじりに言った。

「災難でしたわね」
「ええ」
「でも、こういうこともございますもの。王宮では小さな失敗がすぐ噂になりますから、気をつけなくては」
「……そうですね」

 わざわざ言う必要のないことを、わざわざ言う。

 やっぱりこの人は、優しいだけの人ではない。

 セレフィーナは給仕の失敗を手伝うふりで、ハンカチをそっと当てた。
 近くで見ると、香水の甘い香りがする。花のようでいて、少し強い香りだった。

「リシェル様は、本当におとなしい方なのね」
 不意に、そんなことを言う。
「……そう見えますか」
「ええ。怒ったり、言い返したり、なさらないでしょう?」
「そのようなことをする理由がありませんもの」
「まあ」

 セレフィーナがくすりと笑った。

「本当に、育ちがよろしいのね」

 その言い方は褒め言葉のようでいて、どこか試すようでもあった。

 リシェルは袖口の染みを見つめたまま言う。

「何をおっしゃりたいのですか」
「べつに?」
 セレフィーナはにっこり笑った。
「ただ、少し不思議なのです。王妃殿下にふさわしくないと言われたのに、まだそんなに静かでいらっしゃるのが」
「……」
「わたくしでしたら、悔しくてたまらないと思いますわ」
「悔しくないわけではありません」
 リシェルは静かに答えた。
「ですが、騒いだところで何かが変わるとも思えません」
「そういうところですのね」
 セレフィーナの笑みが、少しだけ深くなる。
「王妃殿下が物足りないとお思いになるのは」

 ぐさりと刺さる。

 それでもリシェルは顔を上げた。

 蜂蜜色の髪、青緑の瞳、誰が見ても愛される美貌。
 この人は自分の美しさも、好かれやすさも、場を支配する力も、全部わかって使っている。

「……そうかもしれません」
 リシェルは言った。
「でも、それがわたくしです」
 一瞬、セレフィーナの表情が止まる。
 すぐに笑みに戻ったが、その一拍をリシェルは見逃さなかった。

「まあ」
 セレフィーナはやさしく首を傾げた。
「少し安心しましたわ」
「何がですか」
「ただ黙っているだけの方ではなかったのだと、わかりましたもの」

 その言葉の意味を考える前に、外から足音が近づいてきた。

 扉が、ためらいなく開く。

「リシェル」

 低い声が部屋に落ちた。

 振り返ると、そこに立っていたのはアシュレイだった。

 今日も隙のない正装姿で、銀を溶かしたような淡い金髪が窓の光を受けて淡く輝いている。冷たい灰青の瞳が室内を見渡し、セレフィーナの手元にあるリシェルの袖へと落ちた。

 その瞬間、空気が変わった。

「殿下?」
 セレフィーナが驚いたように振り向く。
「どうしてこちらへ」
「ミラから聞いた」
 短い声だった。
「袖を汚したと」

 アシュレイはまっすぐリシェルの前まで来る。

「怪我は」
「ございません」
「そうか」

 それだけの会話なのに、胸がひどく騒ぐ。
 どうしてこの人は、こういう時だけ迷いなく来るのだろう。

 セレフィーナが、少しだけ困ったように微笑んだ。

「わたくしの茶会でご不快な思いをさせてしまって、申し訳ございません、殿下。女官の不注意で……」
「そうか」
 アシュレイは彼女を見ずに答える。
「ならば、今後は不注意が起きぬよう気をつけるといい」
「……はい」

 やわらかい言い方なのに、はっきりと冷たい。

 セレフィーナの笑顔が、わずかに固まった。

 アシュレイはリシェルへ視線を戻す。

「来い」
「え?」
「話がある」

 有無を言わせない声音だった。

 セレフィーナが、ふっと息をつくように笑う。

「まあ、殿下。わたくしたち、まだお話の途中ですの」
「ならば、終わりだ」
「……」
「リシェルは連れていく」

 静かだが、拒ませない声。

 セレフィーナは一瞬だけ沈黙し、それからまた愛らしく微笑んだ。

「そうですのね。残念ですわ」
 その笑みは完璧だった。
「リシェル様、また今度ゆっくりお話しいたしましょう?」
「……はい」

 そう答えながら、リシェルはわかった。

 この茶会は、ここで終わらない。
 この人はまた来る。
 もっとやわらかく、もっと巧妙に、自分の居場所を削りに来る。

 けれど今は、それを考える余裕がなかった。

 アシュレイが、リシェルの袖口に視線を落としたまま、低く言う。

「歩けるな」
「はい」
「なら、行くぞ」

 そのまま部屋を出る。

 廊下へ出た瞬間、張っていた息が少しだけ抜けた。
 けれど安心したのも束の間、アシュレイは立ち止まらず歩き続ける。

「殿下」
「なんだ」
「どちらへ」
「人のいないところだ」

 その声はまだ冷えていた。
 怒っているのだと、すぐにわかる。

 何に対してなのか。
 女官の失敗にか。
 セレフィーナにか。
 それとも、この場に来させた王妃にか。

 リシェルにはわからない。

 ただ一つ、彼の背を見つめながら思う。

 王太子は、やはり諦めていない。

 それが自分にとって救いなのか、それとも新しい苦しみの始まりなのか――まだ、わからなかった。
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