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第3話 セレフィーナのお茶会
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セレフィーナから茶会の招待状が届いたのは、その二日後のことだった。
厚みのある淡いクリーム色の紙に、流れるような美しい文字で綴られた短い文。
差出人は、セレフィーナ・ド・ヴァルティエ。
王妃付きの女官が直々に届けに来た時点で、断れるものではないとわかった。
リシェルは窓辺でその招待状を見つめたまま、しばらく動けなかった。
「……ずいぶん、お早いのですね」
後ろでミラが、抑えた声で言う。
「ええ」
「お断りには」
「できないでしょうね」
「でしょうね」
ミラの返事は硬かった。
招待状には、いかにも親しげな文面が並んでいた。
先日はゆっくりお話もできませんでしたので、ぜひ小さなお茶会へお越しくださいませ。今後のことも含め、仲良くしていただければ嬉しいですわ。
今後のこと。
その一言が、薄い紙の上で妙に重たく見える。
リシェルは指先で封蝋の跡をなぞった。
丁寧で、綺麗で、非の打ち所のない招待状だ。
だからこそ、逃げ場がない。
「お嬢様」
ミラが少しだけ近づいてくる。
「嫌でしたら、体調不良ということにも」
「一度はできるでしょうけれど、二度は無理だわ」
「……はい」
「それに、どのみち顔を合わせることになるもの」
王妃の隣にいるのがセレフィーナになるのなら、避け続けることはできない。
今ここで逃げても、もっとみじめになるだけだ。
リシェルは招待状を閉じ、小さく息を吐いた。
「行きましょう」
「かしこまりました」
ミラはそう答えたものの、表情は晴れなかった。
お茶会は、王宮の東棟にある小さな応接間で開かれた。
春の陽射しがやわらかく差し込む、女たちの集まりに向いた部屋だった。
淡い薔薇色の壁紙。白いレースのカーテン。小卓の上には繊細な銀のティーセットと、花びらの形をした焼き菓子。窓辺には季節を先取りしたような淡桃色の薔薇が飾られている。
いかにも、セレフィーナらしい部屋だとリシェルは思った。
華やかで、甘やかで、隅々まで可愛らしい。
けれど上品さは失われていない。
誰が見ても「素敵」と言うような整え方だった。
「まあ、リシェル様」
部屋に入った途端、セレフィーナが立ち上がった。
今日の彼女は、春の花そのもののようだった。
蜂蜜色の髪はゆるやかに結い上げられ、耳元には小さな真珠。淡い薄紅のドレスは肌の白さを引き立て、青緑の瞳はきらきらと楽しげに輝いている。
何気なく振り向くだけで絵になるのだから、やはりかなわない、とリシェルは思う。
「お招きありがとうございます、セレフィーナ様」
「お越しいただけて嬉しいですわ。どうぞ、こちらへ」
席に着くよう勧められ、リシェルは静かに腰を下ろした。
ほかにも数人、若い令嬢たちが招かれていた。
いずれも家格の高い家の娘ばかりで、その顔ぶれを見ただけで、この茶会がただの親睦会ではないことがわかる。
王妃に近い家。
社交界で発言力のある家。
つまり、これから“誰を王太子妃候補として見るか”を自然に決めていく側の人間たちだ。
リシェルの胸の奥が、静かにこわばる。
「今日は本当に内輪だけなのです」
セレフィーナが優雅に笑った。
「皆さま、気楽にお過ごしくださいませね」
そう言いながら、彼女自身がこの場の中心だった。
令嬢たちはすぐにセレフィーナの周りへ空気を寄せていく。
彼女がひとつ話題を出せば笑いが起こり、誰かが言葉に詰まれば自然に助け舟を出す。
気配りも、会話の軽やかさも、絶妙だった。
王妃が華と言った意味が、こういうことなのだと改めて思い知らされる。
「リシェル様は、最近お変わりありません?」
不意に話を振られ、リシェルは顔を上げた。
「はい。変わりなく過ごしております」
「そう、よかったですわ」
セレフィーナは、ほっとしたように笑う。
「このところ、いろいろとお疲れだったでしょうから」
周囲の令嬢たちの視線が、いっせいにこちらへ向く。
いろいろ。
その曖昧な言葉の中に、何が含まれているのかは明らかだった。
「ありがとうございます」
リシェルは微笑んだ。
「お気遣い、恐れ入ります」
それ以上は何も言わない。
言えば、相手の思うつぼだとわかるから。
だが、向かいに座っていた子爵令嬢の一人が、小首を傾げるようにして言った。
「でも、リシェル様は本当にお優しいですわね。普通なら、もっとお辛い顔をなさっていてもおかしくありませんのに」
「そうですわね」
別の令嬢も頷く。
「わたくしでしたら、とても平然とはしていられませんわ」
悪意の形をしていない言葉ほど、避けにくいものはない。
リシェルはカップに視線を落とした。
白磁の縁に金が細く入っている。紅茶の表面がわずかに揺れて、自分の顔が曖昧に映った。
「リシェル様は、心がお強いのですわ」
セレフィーナが、やわらかくまとめる。
「わたくし、そういうところ、とても素敵だと思っておりますの」
助けているようで、逃がしていない。
この人は本当に上手だ、とリシェルは思った。
茶会が進むにつれ、話題は自然に春の式典へ移っていった。
「今年の春の祝賀会は、例年より規模が大きくなるそうですの」
「まあ、では隣国からの使節も?」
「ええ、そう伺っておりますわ」
令嬢たちの声が弾む。
その輪の中心で、セレフィーナは微笑みながら言った。
「わたくしも、王妃殿下から少しだけお手伝いを仰せつかっておりますの」
「さすがですわ!」
「もうすっかり信頼されていらっしゃるのですね」
そうでしょうとも、と誰もが思っている顔だった。
リシェルは黙ってカップを置いた。
指先に熱が移る。けれど胸の内側は、逆に冷えていく気がした。
「リシェル様は、これまでたくさん学ばれてきたのでしょう?」
セレフィーナが、今度は真正面から尋ねてくる。
「式典の細かな決まりや、王妃殿下のお好みも、よくご存じなのでは?」
「……必要なことは、一通り」
「まあ、心強いですわ」
セレフィーナは嬉しそうに微笑んだ。
「でしたら、ぜひ今度いろいろ教えてくださいませ。わたくし、まだ不慣れなことも多くて」
その瞬間、数人の令嬢たちの表情が変わった。
ああ、そうか。
これはつまり、
あなたが積み上げたものを、これからは私が使います
と、柔らかく言われているのだ。
リシェルは一瞬だけ息を止めた。
それでも表情を崩さず、静かに答える。
「わたくしにお役に立てることがあれば」
「ありがとうございます、リシェル様」
セレフィーナは心底うれしそうに言った。
「本当によかった。わたくし、ずっと仲良くなりたいと思っておりましたの」
その言葉に、何人かの令嬢がくすりと笑う。
悪意ではなく、微笑ましさに笑ったような顔で。
でも、リシェルにはそのやさしい空気がひどく遠かった。
しばらくして、焼き菓子が運ばれてきた。
薔薇の形をした砂糖菓子、蜂蜜を使った小さなタルト、淡い桃色のクリームを乗せた焼き菓子。どれも可愛らしく整っている。
セレフィーナらしい選び方だと思う。
「リシェル様は、甘いものはお好き?」
「はい。いただくのは好きです」
「まあ、よかった」
セレフィーナが、給仕の女官へ視線を向ける。
「では、その木苺のタルトをリシェル様へ」
皿が差し出される。
リシェルは礼を言って受け取ろうとした。
その時だった。
女官の手が、ほんのわずかにぶれた。
皿が傾き、鮮やかな木苺のソースが、リシェルのドレスの袖口に落ちる。
「……っ」
小さく息を呑む声が、あちこちから上がった。
青灰色のドレスに、赤い染みが滲む。
派手ではない色合いだからこそ、その汚れはひどく目立った。
「まあ!」
セレフィーナが立ち上がる。
「ごめんなさい、リシェル様。大丈夫?」
「……ええ、少し驚いただけです」
「すぐにお着替えを」
「それほどでは」
「いいえ、だめですわ。皆さまの前ですもの」
心配そうな顔。
だが、その言葉がかえって皆の前で失態をさらしたことを強くする。
女官は青ざめて平謝りしていた。
故意には見えない。
けれど、リシェルはなぜか、ほんの一瞬だけセレフィーナの青緑の瞳が静かに細められた気がした。
気のせいだろうか。
「こちらへ」
セレフィーナが自らハンカチを差し出してくる。
「別室で少し拭きましょう。すぐ落ちるかもしれませんわ」
「ありがとうございます」
断れなかった。
リシェルは静かに立ち上がり、セレフィーナに導かれて隣の小部屋へ向かう。
背中に、令嬢たちの視線を感じた。
不憫そうな視線。
けれど同時に、少しだけ面白がる視線でもあった。
小部屋に入ると、扉が閉まる。
途端に静かになった。
セレフィーナはリシェルの袖を見て、ため息まじりに言った。
「災難でしたわね」
「ええ」
「でも、こういうこともございますもの。王宮では小さな失敗がすぐ噂になりますから、気をつけなくては」
「……そうですね」
わざわざ言う必要のないことを、わざわざ言う。
やっぱりこの人は、優しいだけの人ではない。
セレフィーナは給仕の失敗を手伝うふりで、ハンカチをそっと当てた。
近くで見ると、香水の甘い香りがする。花のようでいて、少し強い香りだった。
「リシェル様は、本当におとなしい方なのね」
不意に、そんなことを言う。
「……そう見えますか」
「ええ。怒ったり、言い返したり、なさらないでしょう?」
「そのようなことをする理由がありませんもの」
「まあ」
セレフィーナがくすりと笑った。
「本当に、育ちがよろしいのね」
その言い方は褒め言葉のようでいて、どこか試すようでもあった。
リシェルは袖口の染みを見つめたまま言う。
「何をおっしゃりたいのですか」
「べつに?」
セレフィーナはにっこり笑った。
「ただ、少し不思議なのです。王妃殿下にふさわしくないと言われたのに、まだそんなに静かでいらっしゃるのが」
「……」
「わたくしでしたら、悔しくてたまらないと思いますわ」
「悔しくないわけではありません」
リシェルは静かに答えた。
「ですが、騒いだところで何かが変わるとも思えません」
「そういうところですのね」
セレフィーナの笑みが、少しだけ深くなる。
「王妃殿下が物足りないとお思いになるのは」
ぐさりと刺さる。
それでもリシェルは顔を上げた。
蜂蜜色の髪、青緑の瞳、誰が見ても愛される美貌。
この人は自分の美しさも、好かれやすさも、場を支配する力も、全部わかって使っている。
「……そうかもしれません」
リシェルは言った。
「でも、それがわたくしです」
一瞬、セレフィーナの表情が止まる。
すぐに笑みに戻ったが、その一拍をリシェルは見逃さなかった。
「まあ」
セレフィーナはやさしく首を傾げた。
「少し安心しましたわ」
「何がですか」
「ただ黙っているだけの方ではなかったのだと、わかりましたもの」
その言葉の意味を考える前に、外から足音が近づいてきた。
扉が、ためらいなく開く。
「リシェル」
低い声が部屋に落ちた。
振り返ると、そこに立っていたのはアシュレイだった。
今日も隙のない正装姿で、銀を溶かしたような淡い金髪が窓の光を受けて淡く輝いている。冷たい灰青の瞳が室内を見渡し、セレフィーナの手元にあるリシェルの袖へと落ちた。
その瞬間、空気が変わった。
「殿下?」
セレフィーナが驚いたように振り向く。
「どうしてこちらへ」
「ミラから聞いた」
短い声だった。
「袖を汚したと」
アシュレイはまっすぐリシェルの前まで来る。
「怪我は」
「ございません」
「そうか」
それだけの会話なのに、胸がひどく騒ぐ。
どうしてこの人は、こういう時だけ迷いなく来るのだろう。
セレフィーナが、少しだけ困ったように微笑んだ。
「わたくしの茶会でご不快な思いをさせてしまって、申し訳ございません、殿下。女官の不注意で……」
「そうか」
アシュレイは彼女を見ずに答える。
「ならば、今後は不注意が起きぬよう気をつけるといい」
「……はい」
やわらかい言い方なのに、はっきりと冷たい。
セレフィーナの笑顔が、わずかに固まった。
アシュレイはリシェルへ視線を戻す。
「来い」
「え?」
「話がある」
有無を言わせない声音だった。
セレフィーナが、ふっと息をつくように笑う。
「まあ、殿下。わたくしたち、まだお話の途中ですの」
「ならば、終わりだ」
「……」
「リシェルは連れていく」
静かだが、拒ませない声。
セレフィーナは一瞬だけ沈黙し、それからまた愛らしく微笑んだ。
「そうですのね。残念ですわ」
その笑みは完璧だった。
「リシェル様、また今度ゆっくりお話しいたしましょう?」
「……はい」
そう答えながら、リシェルはわかった。
この茶会は、ここで終わらない。
この人はまた来る。
もっとやわらかく、もっと巧妙に、自分の居場所を削りに来る。
けれど今は、それを考える余裕がなかった。
アシュレイが、リシェルの袖口に視線を落としたまま、低く言う。
「歩けるな」
「はい」
「なら、行くぞ」
そのまま部屋を出る。
廊下へ出た瞬間、張っていた息が少しだけ抜けた。
けれど安心したのも束の間、アシュレイは立ち止まらず歩き続ける。
「殿下」
「なんだ」
「どちらへ」
「人のいないところだ」
その声はまだ冷えていた。
怒っているのだと、すぐにわかる。
何に対してなのか。
女官の失敗にか。
セレフィーナにか。
それとも、この場に来させた王妃にか。
リシェルにはわからない。
ただ一つ、彼の背を見つめながら思う。
王太子は、やはり諦めていない。
それが自分にとって救いなのか、それとも新しい苦しみの始まりなのか――まだ、わからなかった。
厚みのある淡いクリーム色の紙に、流れるような美しい文字で綴られた短い文。
差出人は、セレフィーナ・ド・ヴァルティエ。
王妃付きの女官が直々に届けに来た時点で、断れるものではないとわかった。
リシェルは窓辺でその招待状を見つめたまま、しばらく動けなかった。
「……ずいぶん、お早いのですね」
後ろでミラが、抑えた声で言う。
「ええ」
「お断りには」
「できないでしょうね」
「でしょうね」
ミラの返事は硬かった。
招待状には、いかにも親しげな文面が並んでいた。
先日はゆっくりお話もできませんでしたので、ぜひ小さなお茶会へお越しくださいませ。今後のことも含め、仲良くしていただければ嬉しいですわ。
今後のこと。
その一言が、薄い紙の上で妙に重たく見える。
リシェルは指先で封蝋の跡をなぞった。
丁寧で、綺麗で、非の打ち所のない招待状だ。
だからこそ、逃げ場がない。
「お嬢様」
ミラが少しだけ近づいてくる。
「嫌でしたら、体調不良ということにも」
「一度はできるでしょうけれど、二度は無理だわ」
「……はい」
「それに、どのみち顔を合わせることになるもの」
王妃の隣にいるのがセレフィーナになるのなら、避け続けることはできない。
今ここで逃げても、もっとみじめになるだけだ。
リシェルは招待状を閉じ、小さく息を吐いた。
「行きましょう」
「かしこまりました」
ミラはそう答えたものの、表情は晴れなかった。
お茶会は、王宮の東棟にある小さな応接間で開かれた。
春の陽射しがやわらかく差し込む、女たちの集まりに向いた部屋だった。
淡い薔薇色の壁紙。白いレースのカーテン。小卓の上には繊細な銀のティーセットと、花びらの形をした焼き菓子。窓辺には季節を先取りしたような淡桃色の薔薇が飾られている。
いかにも、セレフィーナらしい部屋だとリシェルは思った。
華やかで、甘やかで、隅々まで可愛らしい。
けれど上品さは失われていない。
誰が見ても「素敵」と言うような整え方だった。
「まあ、リシェル様」
部屋に入った途端、セレフィーナが立ち上がった。
今日の彼女は、春の花そのもののようだった。
蜂蜜色の髪はゆるやかに結い上げられ、耳元には小さな真珠。淡い薄紅のドレスは肌の白さを引き立て、青緑の瞳はきらきらと楽しげに輝いている。
何気なく振り向くだけで絵になるのだから、やはりかなわない、とリシェルは思う。
「お招きありがとうございます、セレフィーナ様」
「お越しいただけて嬉しいですわ。どうぞ、こちらへ」
席に着くよう勧められ、リシェルは静かに腰を下ろした。
ほかにも数人、若い令嬢たちが招かれていた。
いずれも家格の高い家の娘ばかりで、その顔ぶれを見ただけで、この茶会がただの親睦会ではないことがわかる。
王妃に近い家。
社交界で発言力のある家。
つまり、これから“誰を王太子妃候補として見るか”を自然に決めていく側の人間たちだ。
リシェルの胸の奥が、静かにこわばる。
「今日は本当に内輪だけなのです」
セレフィーナが優雅に笑った。
「皆さま、気楽にお過ごしくださいませね」
そう言いながら、彼女自身がこの場の中心だった。
令嬢たちはすぐにセレフィーナの周りへ空気を寄せていく。
彼女がひとつ話題を出せば笑いが起こり、誰かが言葉に詰まれば自然に助け舟を出す。
気配りも、会話の軽やかさも、絶妙だった。
王妃が華と言った意味が、こういうことなのだと改めて思い知らされる。
「リシェル様は、最近お変わりありません?」
不意に話を振られ、リシェルは顔を上げた。
「はい。変わりなく過ごしております」
「そう、よかったですわ」
セレフィーナは、ほっとしたように笑う。
「このところ、いろいろとお疲れだったでしょうから」
周囲の令嬢たちの視線が、いっせいにこちらへ向く。
いろいろ。
その曖昧な言葉の中に、何が含まれているのかは明らかだった。
「ありがとうございます」
リシェルは微笑んだ。
「お気遣い、恐れ入ります」
それ以上は何も言わない。
言えば、相手の思うつぼだとわかるから。
だが、向かいに座っていた子爵令嬢の一人が、小首を傾げるようにして言った。
「でも、リシェル様は本当にお優しいですわね。普通なら、もっとお辛い顔をなさっていてもおかしくありませんのに」
「そうですわね」
別の令嬢も頷く。
「わたくしでしたら、とても平然とはしていられませんわ」
悪意の形をしていない言葉ほど、避けにくいものはない。
リシェルはカップに視線を落とした。
白磁の縁に金が細く入っている。紅茶の表面がわずかに揺れて、自分の顔が曖昧に映った。
「リシェル様は、心がお強いのですわ」
セレフィーナが、やわらかくまとめる。
「わたくし、そういうところ、とても素敵だと思っておりますの」
助けているようで、逃がしていない。
この人は本当に上手だ、とリシェルは思った。
茶会が進むにつれ、話題は自然に春の式典へ移っていった。
「今年の春の祝賀会は、例年より規模が大きくなるそうですの」
「まあ、では隣国からの使節も?」
「ええ、そう伺っておりますわ」
令嬢たちの声が弾む。
その輪の中心で、セレフィーナは微笑みながら言った。
「わたくしも、王妃殿下から少しだけお手伝いを仰せつかっておりますの」
「さすがですわ!」
「もうすっかり信頼されていらっしゃるのですね」
そうでしょうとも、と誰もが思っている顔だった。
リシェルは黙ってカップを置いた。
指先に熱が移る。けれど胸の内側は、逆に冷えていく気がした。
「リシェル様は、これまでたくさん学ばれてきたのでしょう?」
セレフィーナが、今度は真正面から尋ねてくる。
「式典の細かな決まりや、王妃殿下のお好みも、よくご存じなのでは?」
「……必要なことは、一通り」
「まあ、心強いですわ」
セレフィーナは嬉しそうに微笑んだ。
「でしたら、ぜひ今度いろいろ教えてくださいませ。わたくし、まだ不慣れなことも多くて」
その瞬間、数人の令嬢たちの表情が変わった。
ああ、そうか。
これはつまり、
あなたが積み上げたものを、これからは私が使います
と、柔らかく言われているのだ。
リシェルは一瞬だけ息を止めた。
それでも表情を崩さず、静かに答える。
「わたくしにお役に立てることがあれば」
「ありがとうございます、リシェル様」
セレフィーナは心底うれしそうに言った。
「本当によかった。わたくし、ずっと仲良くなりたいと思っておりましたの」
その言葉に、何人かの令嬢がくすりと笑う。
悪意ではなく、微笑ましさに笑ったような顔で。
でも、リシェルにはそのやさしい空気がひどく遠かった。
しばらくして、焼き菓子が運ばれてきた。
薔薇の形をした砂糖菓子、蜂蜜を使った小さなタルト、淡い桃色のクリームを乗せた焼き菓子。どれも可愛らしく整っている。
セレフィーナらしい選び方だと思う。
「リシェル様は、甘いものはお好き?」
「はい。いただくのは好きです」
「まあ、よかった」
セレフィーナが、給仕の女官へ視線を向ける。
「では、その木苺のタルトをリシェル様へ」
皿が差し出される。
リシェルは礼を言って受け取ろうとした。
その時だった。
女官の手が、ほんのわずかにぶれた。
皿が傾き、鮮やかな木苺のソースが、リシェルのドレスの袖口に落ちる。
「……っ」
小さく息を呑む声が、あちこちから上がった。
青灰色のドレスに、赤い染みが滲む。
派手ではない色合いだからこそ、その汚れはひどく目立った。
「まあ!」
セレフィーナが立ち上がる。
「ごめんなさい、リシェル様。大丈夫?」
「……ええ、少し驚いただけです」
「すぐにお着替えを」
「それほどでは」
「いいえ、だめですわ。皆さまの前ですもの」
心配そうな顔。
だが、その言葉がかえって皆の前で失態をさらしたことを強くする。
女官は青ざめて平謝りしていた。
故意には見えない。
けれど、リシェルはなぜか、ほんの一瞬だけセレフィーナの青緑の瞳が静かに細められた気がした。
気のせいだろうか。
「こちらへ」
セレフィーナが自らハンカチを差し出してくる。
「別室で少し拭きましょう。すぐ落ちるかもしれませんわ」
「ありがとうございます」
断れなかった。
リシェルは静かに立ち上がり、セレフィーナに導かれて隣の小部屋へ向かう。
背中に、令嬢たちの視線を感じた。
不憫そうな視線。
けれど同時に、少しだけ面白がる視線でもあった。
小部屋に入ると、扉が閉まる。
途端に静かになった。
セレフィーナはリシェルの袖を見て、ため息まじりに言った。
「災難でしたわね」
「ええ」
「でも、こういうこともございますもの。王宮では小さな失敗がすぐ噂になりますから、気をつけなくては」
「……そうですね」
わざわざ言う必要のないことを、わざわざ言う。
やっぱりこの人は、優しいだけの人ではない。
セレフィーナは給仕の失敗を手伝うふりで、ハンカチをそっと当てた。
近くで見ると、香水の甘い香りがする。花のようでいて、少し強い香りだった。
「リシェル様は、本当におとなしい方なのね」
不意に、そんなことを言う。
「……そう見えますか」
「ええ。怒ったり、言い返したり、なさらないでしょう?」
「そのようなことをする理由がありませんもの」
「まあ」
セレフィーナがくすりと笑った。
「本当に、育ちがよろしいのね」
その言い方は褒め言葉のようでいて、どこか試すようでもあった。
リシェルは袖口の染みを見つめたまま言う。
「何をおっしゃりたいのですか」
「べつに?」
セレフィーナはにっこり笑った。
「ただ、少し不思議なのです。王妃殿下にふさわしくないと言われたのに、まだそんなに静かでいらっしゃるのが」
「……」
「わたくしでしたら、悔しくてたまらないと思いますわ」
「悔しくないわけではありません」
リシェルは静かに答えた。
「ですが、騒いだところで何かが変わるとも思えません」
「そういうところですのね」
セレフィーナの笑みが、少しだけ深くなる。
「王妃殿下が物足りないとお思いになるのは」
ぐさりと刺さる。
それでもリシェルは顔を上げた。
蜂蜜色の髪、青緑の瞳、誰が見ても愛される美貌。
この人は自分の美しさも、好かれやすさも、場を支配する力も、全部わかって使っている。
「……そうかもしれません」
リシェルは言った。
「でも、それがわたくしです」
一瞬、セレフィーナの表情が止まる。
すぐに笑みに戻ったが、その一拍をリシェルは見逃さなかった。
「まあ」
セレフィーナはやさしく首を傾げた。
「少し安心しましたわ」
「何がですか」
「ただ黙っているだけの方ではなかったのだと、わかりましたもの」
その言葉の意味を考える前に、外から足音が近づいてきた。
扉が、ためらいなく開く。
「リシェル」
低い声が部屋に落ちた。
振り返ると、そこに立っていたのはアシュレイだった。
今日も隙のない正装姿で、銀を溶かしたような淡い金髪が窓の光を受けて淡く輝いている。冷たい灰青の瞳が室内を見渡し、セレフィーナの手元にあるリシェルの袖へと落ちた。
その瞬間、空気が変わった。
「殿下?」
セレフィーナが驚いたように振り向く。
「どうしてこちらへ」
「ミラから聞いた」
短い声だった。
「袖を汚したと」
アシュレイはまっすぐリシェルの前まで来る。
「怪我は」
「ございません」
「そうか」
それだけの会話なのに、胸がひどく騒ぐ。
どうしてこの人は、こういう時だけ迷いなく来るのだろう。
セレフィーナが、少しだけ困ったように微笑んだ。
「わたくしの茶会でご不快な思いをさせてしまって、申し訳ございません、殿下。女官の不注意で……」
「そうか」
アシュレイは彼女を見ずに答える。
「ならば、今後は不注意が起きぬよう気をつけるといい」
「……はい」
やわらかい言い方なのに、はっきりと冷たい。
セレフィーナの笑顔が、わずかに固まった。
アシュレイはリシェルへ視線を戻す。
「来い」
「え?」
「話がある」
有無を言わせない声音だった。
セレフィーナが、ふっと息をつくように笑う。
「まあ、殿下。わたくしたち、まだお話の途中ですの」
「ならば、終わりだ」
「……」
「リシェルは連れていく」
静かだが、拒ませない声。
セレフィーナは一瞬だけ沈黙し、それからまた愛らしく微笑んだ。
「そうですのね。残念ですわ」
その笑みは完璧だった。
「リシェル様、また今度ゆっくりお話しいたしましょう?」
「……はい」
そう答えながら、リシェルはわかった。
この茶会は、ここで終わらない。
この人はまた来る。
もっとやわらかく、もっと巧妙に、自分の居場所を削りに来る。
けれど今は、それを考える余裕がなかった。
アシュレイが、リシェルの袖口に視線を落としたまま、低く言う。
「歩けるな」
「はい」
「なら、行くぞ」
そのまま部屋を出る。
廊下へ出た瞬間、張っていた息が少しだけ抜けた。
けれど安心したのも束の間、アシュレイは立ち止まらず歩き続ける。
「殿下」
「なんだ」
「どちらへ」
「人のいないところだ」
その声はまだ冷えていた。
怒っているのだと、すぐにわかる。
何に対してなのか。
女官の失敗にか。
セレフィーナにか。
それとも、この場に来させた王妃にか。
リシェルにはわからない。
ただ一つ、彼の背を見つめながら思う。
王太子は、やはり諦めていない。
それが自分にとって救いなのか、それとも新しい苦しみの始まりなのか――まだ、わからなかった。
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