「あなたは妃になれません」と言われた令嬢を、隣国王太子が望んで離しません

柴田はつみ

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第4話 王太子の怒り

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 人のいないところだ、とアシュレイは言った。

 その声は低く抑えられていたが、そこに滲む怒りは隠しようがなかった。
 リシェルは青灰色の袖口についた木苺の染みを気にしながら、その背を追う。

 王宮の回廊は午後の光に満ちていた。高い窓から差し込む春先の陽射しが白い石床に長く伸び、二人の影を細く引いている。
 けれど、歩くほどに空気は冷えていく気がした。

 アシュレイは一度も振り返らない。
 淡い金髪が光を受けてひやりと揺れる。背筋はいつも通りまっすぐで、歩幅にも乱れはない。外から見れば、冷静な王太子そのものだ。

 でも違う、とリシェルはわかっていた。

 あの人は怒っている。
 ひどく、静かに。

 やがてアシュレイは、人気のない小さな中庭に面した控えの間で足を止めた。普段は誰も使わない部屋らしく、最低限の椅子と丸卓があるだけの静かな場所だった。

「入れ」

 短く言われ、リシェルは中へ入る。
 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

 向かい合う形になって、ようやくアシュレイがこちらを見る。

 灰青の瞳が、まずリシェルの袖口へ落ちた。
 木苺の赤い染みは、先ほどより少し広がって見えた。

「それ、痛んではいないな」
「はい。汚れただけです」
「……そうか」

 それきり沈黙が落ちる。

 リシェルは両手を前で重ねた。
 鼓動が少し速い。部屋が静かすぎて、自分の呼吸だけが浮いて聞こえる気がした。

「殿下」
 先に口を開いたのはリシェルだった。
「先ほどは、助けていただきありがとうございました」
「礼はいらない」
「ですが」
「礼を言われることではない」

 きっぱりと言い切られ、リシェルは言葉を飲み込む。

 アシュレイは視線を逸らさずに続けた。

「そもそも、ああいう場へ行かせるべきではなかった」
「お茶会のことですか」
「そうだ」
「でも、招待を断るのは難しかったです」
「わかっている」

 低い声。
 責めているのではない。
 むしろ、自分自身に腹を立てているような響きだった。

「……わかっているのに、止められなかった」
 アシュレイが小さく吐き捨てるように言う。
「また同じだ」
「殿下?」
「お前が傷つく場を、見てからしか止められない」

 その言葉に、リシェルは息を止めた。

 また同じ。
 見てからしか止められない。

 それは王妃の宣告のことを指しているのだろうか。
 それとも、もっと前からずっと、そうだったのだろうか。

「わたくしは……」
 リシェルは慎重に言葉を探す。
「そこまでしていただく立場では」
「ある」
 またしても、間髪入れずに返された。

 胸がどくりと鳴る。

「殿下」
「お前は、自分がどう扱われているのか、わかっているのか」
「……」
「王妃候補から外された令嬢として、値踏みされている。どこまで平気な顔をするのか、どこで折れるのか、皆が見ている」

 それは、リシェルが薄々感じていたことだった。
 けれど、こうしてはっきり言葉にされると、喉の奥が苦くなる。

「今日の茶会もそうだ」
 アシュレイの声は低いままだ。
「セレフィーナは最初から、お前を慰めるために招いたのではない」
「……はい」
「お前がどれほど静かに耐えるかを見るためだ。周囲にも、それを見せるために」

 リシェルは目を伏せた。

 やはりそうだったのだ、と確認されるのは痛い。
 でも、どこかでほっとしている自分もいた。
 気のせいではなかったのだとわかるから。

「殿下は、セレフィーナ様を疑っていらっしゃるのですか」
「疑う?」
 アシュレイの眉がわずかに寄る。
「今日のあれがただの親切に見えたのか」
「……いいえ」
「なら答えは出ている」

 鋭い言い方だった。
 けれどその怒りは、リシェルに向いているわけではない。

 むしろ、リシェルの袖口の染みを見るたび、アシュレイの目の奥の温度が下がっていく。

「木苺の皿も」
 彼が言う。
「本当に女官の不注意だと思うか」
「そこまでは……わかりません」
「わからない、か」
 短く息を吐く。
「お前は昔から、悪意をすぐ悪意と決めつけない」

 それは責める声ではなかった。
 困ったようで、それでいて切なげでもある声。

 リシェルは静かに答える。

「決めつけて間違っていたら、相手に失礼です」
「お前らしいな」
「……でも、今日は」
 少しためらってから、続ける。
「少しだけ、そうかもしれないと思いました」

 アシュレイの目が、かすかに揺れる。

「そう思えたなら十分だ」
「十分、ですか」
「お前は、人の悪意に慣れる必要などない」

 その言葉が胸に落ちる。

 慣れる必要などない。
 まるで、そんなものから遠ざけたいとでも言うように。

 リシェルは唇を結んだ。
 どうしてこんなに優しいのだろう。
 そして、どうしてこんなに遅いのだろう。

「殿下」
「なんだ」
「どうして、今なのですか」

 口に出した途端、しまったと思った。
 でももう遅い。

 アシュレイは黙ったまま、リシェルを見る。
 灰青の瞳がまっすぐすぎて、逃げ場がない。

「今までだって、きっと同じようなことはありました」
 リシェルは自分でも驚くほど静かな声で言った。
「噂も、比較も、陰口も。わたくしが気づかなかっただけで」
「……」
「なのに、殿下はいつも何もおっしゃらなかった」

 胸が苦しい。
 でも、ここで止めたらまた飲み込むだけになる。

「王妃殿下にあなたは妃になれませんと言われた時も、わたくしは終わったのだと思いました。終わったと思ったから、諦めようとしたのです」
「リシェル」
「それなのに今さら、諦めていないとおっしゃるのは……残酷です」

 最後の一言だけ、少し掠れた。

 部屋の中が静まり返る。
 窓の外から、どこか遠くの噴水の音がかすかに聞こえた。

 アシュレイはすぐには答えなかった。
 その沈黙が怖くて、リシェルは視線を落とす。

 言いすぎたかもしれない。
 でも、本当のことだった。

 期待したくない。
 もう傷つきたくない。
 それでも、この人の言葉ひとつで心が揺れてしまう自分がいる。

 やがて、アシュレイが低く言った。

「お前の言う、通りだ」
 リシェルははっと顔を上げる。
「殿下……」
「お前にそう思わせたのは、俺だ」

 その声音には、言い逃れがなかった。

「俺は、母上があそこまで急ぐと思っていなかった」
「……」
「いや、違うな。思っていたのに、止めきれないと決めつけて動かなかった」

 自分を裁くような言い方だった。

 アシュレイは窓辺へ半歩だけ視線を流し、それからまたリシェルを見る。

「お前を守るつもりでいた」
 その言葉に、リシェルの胸が痛む。
「表立って動けば、余計にお前へ風当たりが強くなると思った。母上に逆らえば、周囲は必ずお前を見る。だから時が来るまで黙っていようと」
「……はい」
「だが、その結果がお前を一人で立たせることになった」

 リシェルは何も言えない。

 それは、たぶん本心だ。
 言い訳ではない。
 この人は本当に、不器用なやり方で守ろうとしていたのだろう。

 でも。

「それでも、わたくしには」
 リシェルはそっと言う。
「見えませんでした」
「ああ」
「何も」
「わかっている」

 その「ああ」は、ひどく静かだった。

「見えなかったのは当然だ」
 アシュレイは続ける。
「俺が見せなかったからだ」

 胸の奥がぎゅっと締まる。

 見せなかった。
 それはつまり、この人も遅すぎたと思っているのだ。

「……では、なぜ今」
 問い返す声は、もう弱かった。
「なぜ、今になって」
「奪われると思ったからだ」

 思わず息を呑んだ。

 アシュレイの瞳は揺れていなかった。

「お前が本当にいなくなるかもしれないと、ようやくはっきり見えた」
「……」
「母上だけではない。セレフィーナも、周囲も、皆お前を俺の隣から退かせようとしている」
 低い声が少しだけ熱を帯びる。
「その上で、お前自身まで諦めようとしていた」

 リシェルは指先を強く握りしめた。

「俺は、それを許すつもりはない」
 はっきりとした声音だった。
「もう二度と、お前を勝手に退かせない」

 その言葉に、胸の奥が震える。

 あまりにも強くて、まっすぐで、逃げたくなるほどだった。
 こんなふうに言われたら、本当に期待してしまう。

「……殿下は、ずるいです」
 気づけば、そんな言葉がこぼれていた。

 アシュレイがわずかに目を見開く。

「ずるい?」
「はい」
 リシェルは小さく頷く。
「そんなふうに言われたら、信じたくなってしまいます」
「信じればいい」
「簡単におっしゃらないでください」
 少しだけ、声が揺れた。
「わたくしは、昨日まで信じておりました。殿下のお側に居れると、ずっと」
「……」
「でも違った」
 喉が痛む。
「王妃殿下は違うとおっしゃった。皆もそう思っている。わたくし自身だって、セレフィーナ様を見ればわかります。あの方のほうが、よほど――」

 ふさわしい。
 そう言いかけた瞬間だった。

「言うな」
 アシュレイの声が鋭く落ちる。

 リシェルは目を見開く。
 今までにない強さだった。

「それ以上、自分を下げるな」
「殿下」
「お前は、自分がどれほど軽んじられてきたかを知らないくせに、さらに自分で削ろうとする」

 怒っている。
 けれどその怒りは、リシェルを傷つけるためではない。

 アシュレイは一歩近づいた。
 逃げるほどではない。
 でも、その距離が苦しい。

「セレフィーナが華やかだというなら、それでいい」
 低い声。
「だが、それでお前の価値が消えるわけではない」
「……」
「俺は、お前を見ている」
 まっすぐに言い切る。
「昔から、ずっとだ」

 その一言に、時間が止まったような気がした。

 昔から。
 ずっと。

 心臓が大きく鳴る。
 その意味を、まだ完全に飲み込めない。
 でも、ただの情ではないことだけはわかる。

 アシュレイは自分でも言いすぎたと思ったのか、ほんのわずかに目を伏せた。
 だが、もう取り消さない。

「……今日は戻れ」
 少しだけ声を落として言う。
「袖は新しいものに替えさせろ」
「はい」
「それから、セレフィーナにまた呼ばれても、すぐには行くな」
「ですが」
「俺に知らせろ」

 反射的に顔を上げると、アシュレイはまっすぐこちらを見ていた。

「今度は止める」
「……本当に?」
「ああ」
「殿下がお止めになれば、余計に噂になります」
「構わない」
 その答えに迷いはなかった。
「もう、その程度で引くつもりはない」

 胸が熱くなる。

 構わない。
 その一言が、これまでの彼からは考えられないほど強かった。

 リシェルは何も言えず、ただ小さく頷く。

 するとアシュレイは、張りつめた空気を少しだけ和らげるように、ほんのわずか息をついた。

「……今日は泣かなかったな」
 思いがけない言葉に、リシェルは目を瞬く。
「泣きませんでした」
「そうか」
「泣くほどではありません」
「嘘だな」
 ごく小さく、でもはっきり言われた。

 その言い方が昔と同じで、胸がひどく痛くなる。
 幼い頃、転んで膝を擦りむいた時も、この人は同じように嘘だなと言ったのだ。

 リシェルは視線を逸らした。

「……殿下の前で泣くのは、悔しいです」
「なぜ」
「弱いと思われたくありません」
「今さらだな」
 珍しく、少しだけ口元が緩む。
「お前が弱いと思ったことは一度もない」

 その柔らかな一言に、今度こそ涙が出そうになってしまった。

 だめだ、とリシェルは思う。
 ここで泣いたら、本当に終わる。
 何かが決定的に変わってしまう気がする。

「……戻ります」
 かろうじてそう言うと、アシュレイは頷いた。

「ああ」
「殿下」
「なんだ」
「先ほどの、お茶会のこと」
「うん?」
「助けてくださって、ありがとうございました」

 礼はいらないと言われるかもしれない。
 でも今度は、どうしても言いたかった。

 アシュレイは一瞬だけ沈黙して、それから静かに返した。

「次は、もっと早く行く」

 その答えに、リシェルは胸がいっぱいになる。

 次は。
 もっと早く。

 それが約束のように聞こえてしまうことが、怖くて、嬉しかった。

 リシェルは一礼して部屋を出た。
 扉が閉まる直前、アシュレイがその場から動かず、ずっとこちらを見ている気配がした。


 回廊に出ると、ミラがすぐに駆け寄ってきた。

「お嬢様、大丈夫ですか」
「ええ」
「本当に?」
「……少し、心臓が忙しいけれど」
 思わず本音がこぼれ、ミラが目を丸くする。
「それは、大丈夫ではないのでは」
「そうかもしれないわね」

 でも、さっきまでとは違う苦しさだった。

 痛みの中に、ほんの少しだけ熱が混じっている。
 それが希望なのか、それとももっと深い傷の始まりなのかはまだわからない。

 ただ一つ確かなのは、王太子が本気で怒っていたということだ。

 王妃に。
 セレフィーナに。
 周囲の空気に。
 そして何より、何もできなかった自分自身に。

 リシェルは歩き出した。

 窓の外では、春を待つ木々が揺れている。
 その枝先はまだ細く頼りないのに、確かに季節を変えようとしていた。

 一方その頃。

 東棟の温室近くの回廊で、セレフィーナは扇を閉じたまま立っていた。
 さきほどの可憐な微笑みはもうない。青緑の瞳は静かに細められ、そこには冷たい光が宿っている。

「……本気なのね」

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 王太子があそこまで露骨にリシェルを庇うとは思っていなかった。
 ただの情や幼馴染としての義務ではない。
 あの目は、本気だった。

 ならば、やり方を変えなければならない。

 静かなだけの令嬢なら、社交の場で少し揺さぶれば退くと思っていた。
 けれど王太子が自ら手を伸ばすなら、もっと確実に、もっと誰の目にもふさわしくないと見える形で傷をつけなければ。

 セレフィーナはゆっくりと微笑んだ。

 甘く、やわらかく、誰が見ても愛らしい笑み。
 その奥にだけ、鋭い敵意を隠して。

「それなら――次は、もう少し上手に」

 春のやわらかな光の中で、王宮の空気は静かに軋み始めていた。
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