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第4話 王太子の怒り
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人のいないところだ、とアシュレイは言った。
その声は低く抑えられていたが、そこに滲む怒りは隠しようがなかった。
リシェルは青灰色の袖口についた木苺の染みを気にしながら、その背を追う。
王宮の回廊は午後の光に満ちていた。高い窓から差し込む春先の陽射しが白い石床に長く伸び、二人の影を細く引いている。
けれど、歩くほどに空気は冷えていく気がした。
アシュレイは一度も振り返らない。
淡い金髪が光を受けてひやりと揺れる。背筋はいつも通りまっすぐで、歩幅にも乱れはない。外から見れば、冷静な王太子そのものだ。
でも違う、とリシェルはわかっていた。
あの人は怒っている。
ひどく、静かに。
やがてアシュレイは、人気のない小さな中庭に面した控えの間で足を止めた。普段は誰も使わない部屋らしく、最低限の椅子と丸卓があるだけの静かな場所だった。
「入れ」
短く言われ、リシェルは中へ入る。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
向かい合う形になって、ようやくアシュレイがこちらを見る。
灰青の瞳が、まずリシェルの袖口へ落ちた。
木苺の赤い染みは、先ほどより少し広がって見えた。
「それ、痛んではいないな」
「はい。汚れただけです」
「……そうか」
それきり沈黙が落ちる。
リシェルは両手を前で重ねた。
鼓動が少し速い。部屋が静かすぎて、自分の呼吸だけが浮いて聞こえる気がした。
「殿下」
先に口を開いたのはリシェルだった。
「先ほどは、助けていただきありがとうございました」
「礼はいらない」
「ですが」
「礼を言われることではない」
きっぱりと言い切られ、リシェルは言葉を飲み込む。
アシュレイは視線を逸らさずに続けた。
「そもそも、ああいう場へ行かせるべきではなかった」
「お茶会のことですか」
「そうだ」
「でも、招待を断るのは難しかったです」
「わかっている」
低い声。
責めているのではない。
むしろ、自分自身に腹を立てているような響きだった。
「……わかっているのに、止められなかった」
アシュレイが小さく吐き捨てるように言う。
「また同じだ」
「殿下?」
「お前が傷つく場を、見てからしか止められない」
その言葉に、リシェルは息を止めた。
また同じ。
見てからしか止められない。
それは王妃の宣告のことを指しているのだろうか。
それとも、もっと前からずっと、そうだったのだろうか。
「わたくしは……」
リシェルは慎重に言葉を探す。
「そこまでしていただく立場では」
「ある」
またしても、間髪入れずに返された。
胸がどくりと鳴る。
「殿下」
「お前は、自分がどう扱われているのか、わかっているのか」
「……」
「王妃候補から外された令嬢として、値踏みされている。どこまで平気な顔をするのか、どこで折れるのか、皆が見ている」
それは、リシェルが薄々感じていたことだった。
けれど、こうしてはっきり言葉にされると、喉の奥が苦くなる。
「今日の茶会もそうだ」
アシュレイの声は低いままだ。
「セレフィーナは最初から、お前を慰めるために招いたのではない」
「……はい」
「お前がどれほど静かに耐えるかを見るためだ。周囲にも、それを見せるために」
リシェルは目を伏せた。
やはりそうだったのだ、と確認されるのは痛い。
でも、どこかでほっとしている自分もいた。
気のせいではなかったのだとわかるから。
「殿下は、セレフィーナ様を疑っていらっしゃるのですか」
「疑う?」
アシュレイの眉がわずかに寄る。
「今日のあれがただの親切に見えたのか」
「……いいえ」
「なら答えは出ている」
鋭い言い方だった。
けれどその怒りは、リシェルに向いているわけではない。
むしろ、リシェルの袖口の染みを見るたび、アシュレイの目の奥の温度が下がっていく。
「木苺の皿も」
彼が言う。
「本当に女官の不注意だと思うか」
「そこまでは……わかりません」
「わからない、か」
短く息を吐く。
「お前は昔から、悪意をすぐ悪意と決めつけない」
それは責める声ではなかった。
困ったようで、それでいて切なげでもある声。
リシェルは静かに答える。
「決めつけて間違っていたら、相手に失礼です」
「お前らしいな」
「……でも、今日は」
少しためらってから、続ける。
「少しだけ、そうかもしれないと思いました」
アシュレイの目が、かすかに揺れる。
「そう思えたなら十分だ」
「十分、ですか」
「お前は、人の悪意に慣れる必要などない」
その言葉が胸に落ちる。
慣れる必要などない。
まるで、そんなものから遠ざけたいとでも言うように。
リシェルは唇を結んだ。
どうしてこんなに優しいのだろう。
そして、どうしてこんなに遅いのだろう。
「殿下」
「なんだ」
「どうして、今なのですか」
口に出した途端、しまったと思った。
でももう遅い。
アシュレイは黙ったまま、リシェルを見る。
灰青の瞳がまっすぐすぎて、逃げ場がない。
「今までだって、きっと同じようなことはありました」
リシェルは自分でも驚くほど静かな声で言った。
「噂も、比較も、陰口も。わたくしが気づかなかっただけで」
「……」
「なのに、殿下はいつも何もおっしゃらなかった」
胸が苦しい。
でも、ここで止めたらまた飲み込むだけになる。
「王妃殿下にあなたは妃になれませんと言われた時も、わたくしは終わったのだと思いました。終わったと思ったから、諦めようとしたのです」
「リシェル」
「それなのに今さら、諦めていないとおっしゃるのは……残酷です」
最後の一言だけ、少し掠れた。
部屋の中が静まり返る。
窓の外から、どこか遠くの噴水の音がかすかに聞こえた。
アシュレイはすぐには答えなかった。
その沈黙が怖くて、リシェルは視線を落とす。
言いすぎたかもしれない。
でも、本当のことだった。
期待したくない。
もう傷つきたくない。
それでも、この人の言葉ひとつで心が揺れてしまう自分がいる。
やがて、アシュレイが低く言った。
「お前の言う、通りだ」
リシェルははっと顔を上げる。
「殿下……」
「お前にそう思わせたのは、俺だ」
その声音には、言い逃れがなかった。
「俺は、母上があそこまで急ぐと思っていなかった」
「……」
「いや、違うな。思っていたのに、止めきれないと決めつけて動かなかった」
自分を裁くような言い方だった。
アシュレイは窓辺へ半歩だけ視線を流し、それからまたリシェルを見る。
「お前を守るつもりでいた」
その言葉に、リシェルの胸が痛む。
「表立って動けば、余計にお前へ風当たりが強くなると思った。母上に逆らえば、周囲は必ずお前を見る。だから時が来るまで黙っていようと」
「……はい」
「だが、その結果がお前を一人で立たせることになった」
リシェルは何も言えない。
それは、たぶん本心だ。
言い訳ではない。
この人は本当に、不器用なやり方で守ろうとしていたのだろう。
でも。
「それでも、わたくしには」
リシェルはそっと言う。
「見えませんでした」
「ああ」
「何も」
「わかっている」
その「ああ」は、ひどく静かだった。
「見えなかったのは当然だ」
アシュレイは続ける。
「俺が見せなかったからだ」
胸の奥がぎゅっと締まる。
見せなかった。
それはつまり、この人も遅すぎたと思っているのだ。
「……では、なぜ今」
問い返す声は、もう弱かった。
「なぜ、今になって」
「奪われると思ったからだ」
思わず息を呑んだ。
アシュレイの瞳は揺れていなかった。
「お前が本当にいなくなるかもしれないと、ようやくはっきり見えた」
「……」
「母上だけではない。セレフィーナも、周囲も、皆お前を俺の隣から退かせようとしている」
低い声が少しだけ熱を帯びる。
「その上で、お前自身まで諦めようとしていた」
リシェルは指先を強く握りしめた。
「俺は、それを許すつもりはない」
はっきりとした声音だった。
「もう二度と、お前を勝手に退かせない」
その言葉に、胸の奥が震える。
あまりにも強くて、まっすぐで、逃げたくなるほどだった。
こんなふうに言われたら、本当に期待してしまう。
「……殿下は、ずるいです」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
アシュレイがわずかに目を見開く。
「ずるい?」
「はい」
リシェルは小さく頷く。
「そんなふうに言われたら、信じたくなってしまいます」
「信じればいい」
「簡単におっしゃらないでください」
少しだけ、声が揺れた。
「わたくしは、昨日まで信じておりました。殿下のお側に居れると、ずっと」
「……」
「でも違った」
喉が痛む。
「王妃殿下は違うとおっしゃった。皆もそう思っている。わたくし自身だって、セレフィーナ様を見ればわかります。あの方のほうが、よほど――」
ふさわしい。
そう言いかけた瞬間だった。
「言うな」
アシュレイの声が鋭く落ちる。
リシェルは目を見開く。
今までにない強さだった。
「それ以上、自分を下げるな」
「殿下」
「お前は、自分がどれほど軽んじられてきたかを知らないくせに、さらに自分で削ろうとする」
怒っている。
けれどその怒りは、リシェルを傷つけるためではない。
アシュレイは一歩近づいた。
逃げるほどではない。
でも、その距離が苦しい。
「セレフィーナが華やかだというなら、それでいい」
低い声。
「だが、それでお前の価値が消えるわけではない」
「……」
「俺は、お前を見ている」
まっすぐに言い切る。
「昔から、ずっとだ」
その一言に、時間が止まったような気がした。
昔から。
ずっと。
心臓が大きく鳴る。
その意味を、まだ完全に飲み込めない。
でも、ただの情ではないことだけはわかる。
アシュレイは自分でも言いすぎたと思ったのか、ほんのわずかに目を伏せた。
だが、もう取り消さない。
「……今日は戻れ」
少しだけ声を落として言う。
「袖は新しいものに替えさせろ」
「はい」
「それから、セレフィーナにまた呼ばれても、すぐには行くな」
「ですが」
「俺に知らせろ」
反射的に顔を上げると、アシュレイはまっすぐこちらを見ていた。
「今度は止める」
「……本当に?」
「ああ」
「殿下がお止めになれば、余計に噂になります」
「構わない」
その答えに迷いはなかった。
「もう、その程度で引くつもりはない」
胸が熱くなる。
構わない。
その一言が、これまでの彼からは考えられないほど強かった。
リシェルは何も言えず、ただ小さく頷く。
するとアシュレイは、張りつめた空気を少しだけ和らげるように、ほんのわずか息をついた。
「……今日は泣かなかったな」
思いがけない言葉に、リシェルは目を瞬く。
「泣きませんでした」
「そうか」
「泣くほどではありません」
「嘘だな」
ごく小さく、でもはっきり言われた。
その言い方が昔と同じで、胸がひどく痛くなる。
幼い頃、転んで膝を擦りむいた時も、この人は同じように嘘だなと言ったのだ。
リシェルは視線を逸らした。
「……殿下の前で泣くのは、悔しいです」
「なぜ」
「弱いと思われたくありません」
「今さらだな」
珍しく、少しだけ口元が緩む。
「お前が弱いと思ったことは一度もない」
その柔らかな一言に、今度こそ涙が出そうになってしまった。
だめだ、とリシェルは思う。
ここで泣いたら、本当に終わる。
何かが決定的に変わってしまう気がする。
「……戻ります」
かろうじてそう言うと、アシュレイは頷いた。
「ああ」
「殿下」
「なんだ」
「先ほどの、お茶会のこと」
「うん?」
「助けてくださって、ありがとうございました」
礼はいらないと言われるかもしれない。
でも今度は、どうしても言いたかった。
アシュレイは一瞬だけ沈黙して、それから静かに返した。
「次は、もっと早く行く」
その答えに、リシェルは胸がいっぱいになる。
次は。
もっと早く。
それが約束のように聞こえてしまうことが、怖くて、嬉しかった。
リシェルは一礼して部屋を出た。
扉が閉まる直前、アシュレイがその場から動かず、ずっとこちらを見ている気配がした。
回廊に出ると、ミラがすぐに駆け寄ってきた。
「お嬢様、大丈夫ですか」
「ええ」
「本当に?」
「……少し、心臓が忙しいけれど」
思わず本音がこぼれ、ミラが目を丸くする。
「それは、大丈夫ではないのでは」
「そうかもしれないわね」
でも、さっきまでとは違う苦しさだった。
痛みの中に、ほんの少しだけ熱が混じっている。
それが希望なのか、それとももっと深い傷の始まりなのかはまだわからない。
ただ一つ確かなのは、王太子が本気で怒っていたということだ。
王妃に。
セレフィーナに。
周囲の空気に。
そして何より、何もできなかった自分自身に。
リシェルは歩き出した。
窓の外では、春を待つ木々が揺れている。
その枝先はまだ細く頼りないのに、確かに季節を変えようとしていた。
一方その頃。
東棟の温室近くの回廊で、セレフィーナは扇を閉じたまま立っていた。
さきほどの可憐な微笑みはもうない。青緑の瞳は静かに細められ、そこには冷たい光が宿っている。
「……本気なのね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
王太子があそこまで露骨にリシェルを庇うとは思っていなかった。
ただの情や幼馴染としての義務ではない。
あの目は、本気だった。
ならば、やり方を変えなければならない。
静かなだけの令嬢なら、社交の場で少し揺さぶれば退くと思っていた。
けれど王太子が自ら手を伸ばすなら、もっと確実に、もっと誰の目にもふさわしくないと見える形で傷をつけなければ。
セレフィーナはゆっくりと微笑んだ。
甘く、やわらかく、誰が見ても愛らしい笑み。
その奥にだけ、鋭い敵意を隠して。
「それなら――次は、もう少し上手に」
春のやわらかな光の中で、王宮の空気は静かに軋み始めていた。
その声は低く抑えられていたが、そこに滲む怒りは隠しようがなかった。
リシェルは青灰色の袖口についた木苺の染みを気にしながら、その背を追う。
王宮の回廊は午後の光に満ちていた。高い窓から差し込む春先の陽射しが白い石床に長く伸び、二人の影を細く引いている。
けれど、歩くほどに空気は冷えていく気がした。
アシュレイは一度も振り返らない。
淡い金髪が光を受けてひやりと揺れる。背筋はいつも通りまっすぐで、歩幅にも乱れはない。外から見れば、冷静な王太子そのものだ。
でも違う、とリシェルはわかっていた。
あの人は怒っている。
ひどく、静かに。
やがてアシュレイは、人気のない小さな中庭に面した控えの間で足を止めた。普段は誰も使わない部屋らしく、最低限の椅子と丸卓があるだけの静かな場所だった。
「入れ」
短く言われ、リシェルは中へ入る。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
向かい合う形になって、ようやくアシュレイがこちらを見る。
灰青の瞳が、まずリシェルの袖口へ落ちた。
木苺の赤い染みは、先ほどより少し広がって見えた。
「それ、痛んではいないな」
「はい。汚れただけです」
「……そうか」
それきり沈黙が落ちる。
リシェルは両手を前で重ねた。
鼓動が少し速い。部屋が静かすぎて、自分の呼吸だけが浮いて聞こえる気がした。
「殿下」
先に口を開いたのはリシェルだった。
「先ほどは、助けていただきありがとうございました」
「礼はいらない」
「ですが」
「礼を言われることではない」
きっぱりと言い切られ、リシェルは言葉を飲み込む。
アシュレイは視線を逸らさずに続けた。
「そもそも、ああいう場へ行かせるべきではなかった」
「お茶会のことですか」
「そうだ」
「でも、招待を断るのは難しかったです」
「わかっている」
低い声。
責めているのではない。
むしろ、自分自身に腹を立てているような響きだった。
「……わかっているのに、止められなかった」
アシュレイが小さく吐き捨てるように言う。
「また同じだ」
「殿下?」
「お前が傷つく場を、見てからしか止められない」
その言葉に、リシェルは息を止めた。
また同じ。
見てからしか止められない。
それは王妃の宣告のことを指しているのだろうか。
それとも、もっと前からずっと、そうだったのだろうか。
「わたくしは……」
リシェルは慎重に言葉を探す。
「そこまでしていただく立場では」
「ある」
またしても、間髪入れずに返された。
胸がどくりと鳴る。
「殿下」
「お前は、自分がどう扱われているのか、わかっているのか」
「……」
「王妃候補から外された令嬢として、値踏みされている。どこまで平気な顔をするのか、どこで折れるのか、皆が見ている」
それは、リシェルが薄々感じていたことだった。
けれど、こうしてはっきり言葉にされると、喉の奥が苦くなる。
「今日の茶会もそうだ」
アシュレイの声は低いままだ。
「セレフィーナは最初から、お前を慰めるために招いたのではない」
「……はい」
「お前がどれほど静かに耐えるかを見るためだ。周囲にも、それを見せるために」
リシェルは目を伏せた。
やはりそうだったのだ、と確認されるのは痛い。
でも、どこかでほっとしている自分もいた。
気のせいではなかったのだとわかるから。
「殿下は、セレフィーナ様を疑っていらっしゃるのですか」
「疑う?」
アシュレイの眉がわずかに寄る。
「今日のあれがただの親切に見えたのか」
「……いいえ」
「なら答えは出ている」
鋭い言い方だった。
けれどその怒りは、リシェルに向いているわけではない。
むしろ、リシェルの袖口の染みを見るたび、アシュレイの目の奥の温度が下がっていく。
「木苺の皿も」
彼が言う。
「本当に女官の不注意だと思うか」
「そこまでは……わかりません」
「わからない、か」
短く息を吐く。
「お前は昔から、悪意をすぐ悪意と決めつけない」
それは責める声ではなかった。
困ったようで、それでいて切なげでもある声。
リシェルは静かに答える。
「決めつけて間違っていたら、相手に失礼です」
「お前らしいな」
「……でも、今日は」
少しためらってから、続ける。
「少しだけ、そうかもしれないと思いました」
アシュレイの目が、かすかに揺れる。
「そう思えたなら十分だ」
「十分、ですか」
「お前は、人の悪意に慣れる必要などない」
その言葉が胸に落ちる。
慣れる必要などない。
まるで、そんなものから遠ざけたいとでも言うように。
リシェルは唇を結んだ。
どうしてこんなに優しいのだろう。
そして、どうしてこんなに遅いのだろう。
「殿下」
「なんだ」
「どうして、今なのですか」
口に出した途端、しまったと思った。
でももう遅い。
アシュレイは黙ったまま、リシェルを見る。
灰青の瞳がまっすぐすぎて、逃げ場がない。
「今までだって、きっと同じようなことはありました」
リシェルは自分でも驚くほど静かな声で言った。
「噂も、比較も、陰口も。わたくしが気づかなかっただけで」
「……」
「なのに、殿下はいつも何もおっしゃらなかった」
胸が苦しい。
でも、ここで止めたらまた飲み込むだけになる。
「王妃殿下にあなたは妃になれませんと言われた時も、わたくしは終わったのだと思いました。終わったと思ったから、諦めようとしたのです」
「リシェル」
「それなのに今さら、諦めていないとおっしゃるのは……残酷です」
最後の一言だけ、少し掠れた。
部屋の中が静まり返る。
窓の外から、どこか遠くの噴水の音がかすかに聞こえた。
アシュレイはすぐには答えなかった。
その沈黙が怖くて、リシェルは視線を落とす。
言いすぎたかもしれない。
でも、本当のことだった。
期待したくない。
もう傷つきたくない。
それでも、この人の言葉ひとつで心が揺れてしまう自分がいる。
やがて、アシュレイが低く言った。
「お前の言う、通りだ」
リシェルははっと顔を上げる。
「殿下……」
「お前にそう思わせたのは、俺だ」
その声音には、言い逃れがなかった。
「俺は、母上があそこまで急ぐと思っていなかった」
「……」
「いや、違うな。思っていたのに、止めきれないと決めつけて動かなかった」
自分を裁くような言い方だった。
アシュレイは窓辺へ半歩だけ視線を流し、それからまたリシェルを見る。
「お前を守るつもりでいた」
その言葉に、リシェルの胸が痛む。
「表立って動けば、余計にお前へ風当たりが強くなると思った。母上に逆らえば、周囲は必ずお前を見る。だから時が来るまで黙っていようと」
「……はい」
「だが、その結果がお前を一人で立たせることになった」
リシェルは何も言えない。
それは、たぶん本心だ。
言い訳ではない。
この人は本当に、不器用なやり方で守ろうとしていたのだろう。
でも。
「それでも、わたくしには」
リシェルはそっと言う。
「見えませんでした」
「ああ」
「何も」
「わかっている」
その「ああ」は、ひどく静かだった。
「見えなかったのは当然だ」
アシュレイは続ける。
「俺が見せなかったからだ」
胸の奥がぎゅっと締まる。
見せなかった。
それはつまり、この人も遅すぎたと思っているのだ。
「……では、なぜ今」
問い返す声は、もう弱かった。
「なぜ、今になって」
「奪われると思ったからだ」
思わず息を呑んだ。
アシュレイの瞳は揺れていなかった。
「お前が本当にいなくなるかもしれないと、ようやくはっきり見えた」
「……」
「母上だけではない。セレフィーナも、周囲も、皆お前を俺の隣から退かせようとしている」
低い声が少しだけ熱を帯びる。
「その上で、お前自身まで諦めようとしていた」
リシェルは指先を強く握りしめた。
「俺は、それを許すつもりはない」
はっきりとした声音だった。
「もう二度と、お前を勝手に退かせない」
その言葉に、胸の奥が震える。
あまりにも強くて、まっすぐで、逃げたくなるほどだった。
こんなふうに言われたら、本当に期待してしまう。
「……殿下は、ずるいです」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
アシュレイがわずかに目を見開く。
「ずるい?」
「はい」
リシェルは小さく頷く。
「そんなふうに言われたら、信じたくなってしまいます」
「信じればいい」
「簡単におっしゃらないでください」
少しだけ、声が揺れた。
「わたくしは、昨日まで信じておりました。殿下のお側に居れると、ずっと」
「……」
「でも違った」
喉が痛む。
「王妃殿下は違うとおっしゃった。皆もそう思っている。わたくし自身だって、セレフィーナ様を見ればわかります。あの方のほうが、よほど――」
ふさわしい。
そう言いかけた瞬間だった。
「言うな」
アシュレイの声が鋭く落ちる。
リシェルは目を見開く。
今までにない強さだった。
「それ以上、自分を下げるな」
「殿下」
「お前は、自分がどれほど軽んじられてきたかを知らないくせに、さらに自分で削ろうとする」
怒っている。
けれどその怒りは、リシェルを傷つけるためではない。
アシュレイは一歩近づいた。
逃げるほどではない。
でも、その距離が苦しい。
「セレフィーナが華やかだというなら、それでいい」
低い声。
「だが、それでお前の価値が消えるわけではない」
「……」
「俺は、お前を見ている」
まっすぐに言い切る。
「昔から、ずっとだ」
その一言に、時間が止まったような気がした。
昔から。
ずっと。
心臓が大きく鳴る。
その意味を、まだ完全に飲み込めない。
でも、ただの情ではないことだけはわかる。
アシュレイは自分でも言いすぎたと思ったのか、ほんのわずかに目を伏せた。
だが、もう取り消さない。
「……今日は戻れ」
少しだけ声を落として言う。
「袖は新しいものに替えさせろ」
「はい」
「それから、セレフィーナにまた呼ばれても、すぐには行くな」
「ですが」
「俺に知らせろ」
反射的に顔を上げると、アシュレイはまっすぐこちらを見ていた。
「今度は止める」
「……本当に?」
「ああ」
「殿下がお止めになれば、余計に噂になります」
「構わない」
その答えに迷いはなかった。
「もう、その程度で引くつもりはない」
胸が熱くなる。
構わない。
その一言が、これまでの彼からは考えられないほど強かった。
リシェルは何も言えず、ただ小さく頷く。
するとアシュレイは、張りつめた空気を少しだけ和らげるように、ほんのわずか息をついた。
「……今日は泣かなかったな」
思いがけない言葉に、リシェルは目を瞬く。
「泣きませんでした」
「そうか」
「泣くほどではありません」
「嘘だな」
ごく小さく、でもはっきり言われた。
その言い方が昔と同じで、胸がひどく痛くなる。
幼い頃、転んで膝を擦りむいた時も、この人は同じように嘘だなと言ったのだ。
リシェルは視線を逸らした。
「……殿下の前で泣くのは、悔しいです」
「なぜ」
「弱いと思われたくありません」
「今さらだな」
珍しく、少しだけ口元が緩む。
「お前が弱いと思ったことは一度もない」
その柔らかな一言に、今度こそ涙が出そうになってしまった。
だめだ、とリシェルは思う。
ここで泣いたら、本当に終わる。
何かが決定的に変わってしまう気がする。
「……戻ります」
かろうじてそう言うと、アシュレイは頷いた。
「ああ」
「殿下」
「なんだ」
「先ほどの、お茶会のこと」
「うん?」
「助けてくださって、ありがとうございました」
礼はいらないと言われるかもしれない。
でも今度は、どうしても言いたかった。
アシュレイは一瞬だけ沈黙して、それから静かに返した。
「次は、もっと早く行く」
その答えに、リシェルは胸がいっぱいになる。
次は。
もっと早く。
それが約束のように聞こえてしまうことが、怖くて、嬉しかった。
リシェルは一礼して部屋を出た。
扉が閉まる直前、アシュレイがその場から動かず、ずっとこちらを見ている気配がした。
回廊に出ると、ミラがすぐに駆け寄ってきた。
「お嬢様、大丈夫ですか」
「ええ」
「本当に?」
「……少し、心臓が忙しいけれど」
思わず本音がこぼれ、ミラが目を丸くする。
「それは、大丈夫ではないのでは」
「そうかもしれないわね」
でも、さっきまでとは違う苦しさだった。
痛みの中に、ほんの少しだけ熱が混じっている。
それが希望なのか、それとももっと深い傷の始まりなのかはまだわからない。
ただ一つ確かなのは、王太子が本気で怒っていたということだ。
王妃に。
セレフィーナに。
周囲の空気に。
そして何より、何もできなかった自分自身に。
リシェルは歩き出した。
窓の外では、春を待つ木々が揺れている。
その枝先はまだ細く頼りないのに、確かに季節を変えようとしていた。
一方その頃。
東棟の温室近くの回廊で、セレフィーナは扇を閉じたまま立っていた。
さきほどの可憐な微笑みはもうない。青緑の瞳は静かに細められ、そこには冷たい光が宿っている。
「……本気なのね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
王太子があそこまで露骨にリシェルを庇うとは思っていなかった。
ただの情や幼馴染としての義務ではない。
あの目は、本気だった。
ならば、やり方を変えなければならない。
静かなだけの令嬢なら、社交の場で少し揺さぶれば退くと思っていた。
けれど王太子が自ら手を伸ばすなら、もっと確実に、もっと誰の目にもふさわしくないと見える形で傷をつけなければ。
セレフィーナはゆっくりと微笑んだ。
甘く、やわらかく、誰が見ても愛らしい笑み。
その奥にだけ、鋭い敵意を隠して。
「それなら――次は、もう少し上手に」
春のやわらかな光の中で、王宮の空気は静かに軋み始めていた。
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(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
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