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第7章|侍女ミナ、怒りを飲む
角砂糖がカップの底に落ちる音は、小さかった。
それなのに、ミナの耳には、石を投げ込まれたように響いた。
——触れるな。
——勝手に、妃殿下の場を扱うな。
喉の奥から言葉が飛び出しかけて、ミナはそれを噛み殺した。
侍女が感情のままに声を上げれば、主の品位を傷つける。
この王宮で、妃が守らねばならないのは席だけではない。
妃の名誉。妃の顔。妃の微笑み——そして、妃が崩れないという“威厳”。
ミナは、両手を重ね、背筋を正したまま、ひと呼吸置いた。
目線は落とす。表情は動かさない。
それが“仕える者”の礼だった。
けれど、胸の中は燃えていた。
窓辺の席。
あそこは、妃殿下が唯一、息をできる場所なのに。
リディアは微笑んだまま、カップを持ち上げる。
指先は美しい。震えていない。
——でも、ミナは知っている。震えないように、力を入れているだけだと。
ミナの視線は、ほんの一瞬だけ、リディアの手元へ向かった。
白磁の縁にかかる指。
指先が、いつもより少しだけ白い。
怒りよりも先に、痛みが来る。
——殿下は、どうして黙っていられるの。
——妃殿下が、こんなふうに“耐える”のを見ていて。
アーヴィンは、困ったように眉を寄せている。
だがそれだけ。止めない。守らない。
“穏便に”の顔で、場をやり過ごしている。
ミレーユは、自分のカップに砂糖を入れ終えると、何事もなかったように笑った。
「妃殿下、このお砂糖、可愛らしい形ですのね。王宮のものは、すべてが美しい」
褒め言葉の形。
でも手は、勝手に動いた。
触れたのは、妃の席と、妃の領域。
エステルが、扇の影で囁く。
「妃殿下はお強いから……些細なことは気になさらないのかしら」
“強いから”。
その言葉に、ミナは歯を食いしばった。
強いから守られない、強いから我慢しろ——そんな理屈を、許せなかった。
だが、ミナが声を上げた瞬間に起こることも分かっていた。
侍女が令嬢を咎めた。
妃が侍女をけしかけた。
妃が嫉妬した。
妃が心が狭い——。
噂は、いつだって妃に向かって矢を放つ。
だから、ミナは飲み込む。怒りも、言葉も。
ミナは一歩、前へ出た。
控えめな歩幅。控えめな姿勢。
しかし、“場を整える”という正当な理由で介入できる位置。
「お茶のおかわりはいかがでしょうか、妃殿下」
リディアが、わずかに目を伏せる。
“ありがとう”という合図が、視線だけで伝わる。
「ええ、お願い」
短い返事の中に、疲れが滲む。
ミナは胸が詰まった。
ミナは銀のポットを手に取り、リディアのカップに紅茶を注ぐ。
湯気が立ち上がる。ベルガモットの香りが広がる。
この香りだけが、妃殿下の息を繋いでいる。
次に、ミレーユへ注ぐ番になった。
ミナは、ほんの一瞬だけ迷う。
妃殿下の場を乱す人に、同じように給仕することが、こんなにも悔しい。
だが、侍女は侍女だ。
仕事で刃を振るうことはできない。
できるのは、ルールの中で、最大限に主を守ることだけ。
ミナは礼儀正しくミレーユのカップへ注いだ。
けれど、声だけは必要最小限に落とした。
「……伯爵令嬢。お手元、熱くなりますのでお気をつけくださいませ」
“触れるな”の代わりに。
“勝手に扱うな”の代わりに。
最も無害な言葉で、最も冷たい距離を置く。
ミレーユは気づいたのか気づかないのか、にこりと笑った。
「まあ、ありがとう。あなた、とても気が利くのね」
その言い方が、ミナの胸をさらに刺した。
まるでこの茶会室の使用人が、彼女のために働いているような口ぶり。
エステルが、また囁く。
「妃殿下の侍女は、本当に立派。……だから、妃殿下も立派でいないとね」
立派でいろ。崩れるな。泣くな。怒るな。
——妃殿下を“人間”として扱わない言葉。
ミナは、拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。痛みで、怒りを落ち着かせる。
そのとき、リディアが静かにカップを置いた。
音は小さい。
けれど、ミナには聞こえた。
——主の心が、ひとつ沈む音。
ミナは視線を上げたい衝動を抑え、ただ背筋を伸ばして立った。
侍女は、主の涙の代わりに、姿勢で戦う。
——妃殿下。
——あなたが言えないことは、私が全部、胸の中で言います。
——だから、どうか、折れないで。
言葉にできない誓いを、ミナは静かに飲み込んだ。
そして気づく。
ここで一番怖いのは、ミレーユの無遠慮でも、エステルの煽りでもない。
妃殿下が、笑顔のまま、少しずつ“声”を失っていくことだった。
それなのに、ミナの耳には、石を投げ込まれたように響いた。
——触れるな。
——勝手に、妃殿下の場を扱うな。
喉の奥から言葉が飛び出しかけて、ミナはそれを噛み殺した。
侍女が感情のままに声を上げれば、主の品位を傷つける。
この王宮で、妃が守らねばならないのは席だけではない。
妃の名誉。妃の顔。妃の微笑み——そして、妃が崩れないという“威厳”。
ミナは、両手を重ね、背筋を正したまま、ひと呼吸置いた。
目線は落とす。表情は動かさない。
それが“仕える者”の礼だった。
けれど、胸の中は燃えていた。
窓辺の席。
あそこは、妃殿下が唯一、息をできる場所なのに。
リディアは微笑んだまま、カップを持ち上げる。
指先は美しい。震えていない。
——でも、ミナは知っている。震えないように、力を入れているだけだと。
ミナの視線は、ほんの一瞬だけ、リディアの手元へ向かった。
白磁の縁にかかる指。
指先が、いつもより少しだけ白い。
怒りよりも先に、痛みが来る。
——殿下は、どうして黙っていられるの。
——妃殿下が、こんなふうに“耐える”のを見ていて。
アーヴィンは、困ったように眉を寄せている。
だがそれだけ。止めない。守らない。
“穏便に”の顔で、場をやり過ごしている。
ミレーユは、自分のカップに砂糖を入れ終えると、何事もなかったように笑った。
「妃殿下、このお砂糖、可愛らしい形ですのね。王宮のものは、すべてが美しい」
褒め言葉の形。
でも手は、勝手に動いた。
触れたのは、妃の席と、妃の領域。
エステルが、扇の影で囁く。
「妃殿下はお強いから……些細なことは気になさらないのかしら」
“強いから”。
その言葉に、ミナは歯を食いしばった。
強いから守られない、強いから我慢しろ——そんな理屈を、許せなかった。
だが、ミナが声を上げた瞬間に起こることも分かっていた。
侍女が令嬢を咎めた。
妃が侍女をけしかけた。
妃が嫉妬した。
妃が心が狭い——。
噂は、いつだって妃に向かって矢を放つ。
だから、ミナは飲み込む。怒りも、言葉も。
ミナは一歩、前へ出た。
控えめな歩幅。控えめな姿勢。
しかし、“場を整える”という正当な理由で介入できる位置。
「お茶のおかわりはいかがでしょうか、妃殿下」
リディアが、わずかに目を伏せる。
“ありがとう”という合図が、視線だけで伝わる。
「ええ、お願い」
短い返事の中に、疲れが滲む。
ミナは胸が詰まった。
ミナは銀のポットを手に取り、リディアのカップに紅茶を注ぐ。
湯気が立ち上がる。ベルガモットの香りが広がる。
この香りだけが、妃殿下の息を繋いでいる。
次に、ミレーユへ注ぐ番になった。
ミナは、ほんの一瞬だけ迷う。
妃殿下の場を乱す人に、同じように給仕することが、こんなにも悔しい。
だが、侍女は侍女だ。
仕事で刃を振るうことはできない。
できるのは、ルールの中で、最大限に主を守ることだけ。
ミナは礼儀正しくミレーユのカップへ注いだ。
けれど、声だけは必要最小限に落とした。
「……伯爵令嬢。お手元、熱くなりますのでお気をつけくださいませ」
“触れるな”の代わりに。
“勝手に扱うな”の代わりに。
最も無害な言葉で、最も冷たい距離を置く。
ミレーユは気づいたのか気づかないのか、にこりと笑った。
「まあ、ありがとう。あなた、とても気が利くのね」
その言い方が、ミナの胸をさらに刺した。
まるでこの茶会室の使用人が、彼女のために働いているような口ぶり。
エステルが、また囁く。
「妃殿下の侍女は、本当に立派。……だから、妃殿下も立派でいないとね」
立派でいろ。崩れるな。泣くな。怒るな。
——妃殿下を“人間”として扱わない言葉。
ミナは、拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。痛みで、怒りを落ち着かせる。
そのとき、リディアが静かにカップを置いた。
音は小さい。
けれど、ミナには聞こえた。
——主の心が、ひとつ沈む音。
ミナは視線を上げたい衝動を抑え、ただ背筋を伸ばして立った。
侍女は、主の涙の代わりに、姿勢で戦う。
——妃殿下。
——あなたが言えないことは、私が全部、胸の中で言います。
——だから、どうか、折れないで。
言葉にできない誓いを、ミナは静かに飲み込んだ。
そして気づく。
ここで一番怖いのは、ミレーユの無遠慮でも、エステルの煽りでもない。
妃殿下が、笑顔のまま、少しずつ“声”を失っていくことだった。
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