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第15章|王太子、追わない/追えない(宰相が火消し優先)
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扉が閉まったあとも、アーヴィンはしばらくその場に立ち尽くしていた。
握りしめた拳の中には、何もない。
掴もうとしたのは妻の言葉だったのに、残ったのは——「公務のみ」という冷たい境界線だけだった。
廊下の空気が、ひどく薄い。
追いかけるべきだと分かっている。
“今すぐ”追いかけるべきだと。
だが王太子という肩書きが、足首に絡む鎖になる。
——追えば、噂になる。
——追えば、火が大きくなる。
——追わなければ、傷は深くなる。
逡巡するアーヴィンの耳に、硬い靴音が近づいてきた。
規則正しい、迷いのない歩幅。
それだけで誰かが分かる。
「殿下」
宰相グレゴールが現れた。
白髪混じりの髪をきちんと撫でつけ、皺ひとつない外套を纏い、視線だけで状況を測る男。
彼は王宮の火種を“消す”ことを最優先にする。
「お時間を頂戴いたします。至急の案件です」
至急。
その言葉が、アーヴィンの足を止める。
「今は——」
今は妻を追うべきだ。
喉まで出た言葉は、宰相の次の一言で引っ込んだ。
「本日の茶会の件、すでに女官たちの間で囁かれ始めております」
やはり。
王宮は早い。噂は光より早い。
アーヴィンは眉を寄せた。
「……どこまで」
「“妃殿下が伯爵令嬢を厳しく叱責された”という形で、です。殿下の御発言は、まだ確定しておりません。しかし、放置すれば必ず切り取られます」
切り取られる。
それは政治の言葉であり、社交の言葉でもある。
アーヴィンは歯を噛みしめた。
リディアを守れなかったのに、ここでもまた“場”を守らねばならないのか。
「妃殿下は……どうしている」
声が少しだけ弱くなる。
宰相に、妻を案じる声を聞かせたくない自分がいる。
情が弱みになる世界を知っているから。
だがグレゴールは冷静に答えた。
「今はお休みでしょう。殿下が追えば、噂は二倍になります。王太子が妃の私室へ駆け込む——それだけで、別の物語が立ちます」
正論。
だが、その正論が最も残酷だった。
アーヴィンは拳を握り直す。
「……では、どうする」
「火消しをいたします。殿下は“通常通り”に。公務を優先してください。殿下が動じぬ姿を見せれば、噂は鎮まります」
通常通り。
公務優先。
まるで、妃の心が折れたことなど、王宮の一案件に過ぎないかのように。
アーヴィンは息を吐いた。
ここで宰相を拒めば、王宮全体が揺れる。
揺れれば、今度こそリディアが矢面に立たされる。
——また、彼女を守れない。
「……わかった」
その返事は、王太子として正しい。
夫としては、間違っている。
宰相は一礼し、淡々と続けた。
「まず女官長と侍従長に通達を。伯爵令嬢には作法講師からの正式な指導が入った、と。妃殿下が感情的に叱責したのではなく、あくまで礼節の確認であったと徹底します」
言葉の整理。
物語の修正。
それが火消しの仕事。
アーヴィンは、胸の奥が痛むのを感じながら頷くしかなかった。
宰相は最後に、静かに釘を刺した。
「殿下。伯爵令嬢を過度に庇うようなお言葉はお控えください。妃殿下にとって致命傷となります」
致命傷。
その言葉に、アーヴィンの喉が詰まる。
「……分かっている」
本当は、分かっていなかった。
だからこそ、あの一言を言ってしまった。
宰相が去りかけたとき、アーヴィンは思わず呼び止めた。
「グレゴール」
「はい」
「……私は、どうすればいい」
王太子が宰相に“夫の問い”を投げるなど、本来なら弱さだ。
けれど今は、答えが欲しかった。
遅すぎても、何かを掴みたい。
宰相は一瞬、沈黙した。
そして、政治家ではなく、年長者の目で言う。
「殿下。火消しが終わってからで構いません。妃殿下へは“言葉”ではなく、“行動”で示しなさい。王宮では、言葉は噂にされます。行動だけが真実として残ります」
行動。
その言葉が、胸に落ちる。
だが——今は、追えない。
追ってはならない。
そう言われた。
アーヴィンは、廊下の角を見た。
その先に、リディアの私室へ続く道がある。
行けば、間に合うかもしれない。
行かなければ、さらに遠ざかる。
足が動きかけて、止まる。
——王太子としての正しさが、夫としての選択を奪う。
アーヴィンは踵を返した。
執務室の方へ。
火消しのための公務へ。
その背中を、遠くからルシアンが見ていた。
近衛騎士の目は冷たく、そして痛かった。
アーヴィン自身も分かっている。
今日、自分はまた“追わない”を選んだ。
追えない理由は正しい。
けれど正しさは、いつだって遅れて致命傷になる。
窓の外で、風が鳴った。
あの窓辺の茶会室のカーテンも、同じ風に揺れているだろう。
——もう、二人の茶会はない。
その事実だけが、胸の奥で重く沈んだ。
握りしめた拳の中には、何もない。
掴もうとしたのは妻の言葉だったのに、残ったのは——「公務のみ」という冷たい境界線だけだった。
廊下の空気が、ひどく薄い。
追いかけるべきだと分かっている。
“今すぐ”追いかけるべきだと。
だが王太子という肩書きが、足首に絡む鎖になる。
——追えば、噂になる。
——追えば、火が大きくなる。
——追わなければ、傷は深くなる。
逡巡するアーヴィンの耳に、硬い靴音が近づいてきた。
規則正しい、迷いのない歩幅。
それだけで誰かが分かる。
「殿下」
宰相グレゴールが現れた。
白髪混じりの髪をきちんと撫でつけ、皺ひとつない外套を纏い、視線だけで状況を測る男。
彼は王宮の火種を“消す”ことを最優先にする。
「お時間を頂戴いたします。至急の案件です」
至急。
その言葉が、アーヴィンの足を止める。
「今は——」
今は妻を追うべきだ。
喉まで出た言葉は、宰相の次の一言で引っ込んだ。
「本日の茶会の件、すでに女官たちの間で囁かれ始めております」
やはり。
王宮は早い。噂は光より早い。
アーヴィンは眉を寄せた。
「……どこまで」
「“妃殿下が伯爵令嬢を厳しく叱責された”という形で、です。殿下の御発言は、まだ確定しておりません。しかし、放置すれば必ず切り取られます」
切り取られる。
それは政治の言葉であり、社交の言葉でもある。
アーヴィンは歯を噛みしめた。
リディアを守れなかったのに、ここでもまた“場”を守らねばならないのか。
「妃殿下は……どうしている」
声が少しだけ弱くなる。
宰相に、妻を案じる声を聞かせたくない自分がいる。
情が弱みになる世界を知っているから。
だがグレゴールは冷静に答えた。
「今はお休みでしょう。殿下が追えば、噂は二倍になります。王太子が妃の私室へ駆け込む——それだけで、別の物語が立ちます」
正論。
だが、その正論が最も残酷だった。
アーヴィンは拳を握り直す。
「……では、どうする」
「火消しをいたします。殿下は“通常通り”に。公務を優先してください。殿下が動じぬ姿を見せれば、噂は鎮まります」
通常通り。
公務優先。
まるで、妃の心が折れたことなど、王宮の一案件に過ぎないかのように。
アーヴィンは息を吐いた。
ここで宰相を拒めば、王宮全体が揺れる。
揺れれば、今度こそリディアが矢面に立たされる。
——また、彼女を守れない。
「……わかった」
その返事は、王太子として正しい。
夫としては、間違っている。
宰相は一礼し、淡々と続けた。
「まず女官長と侍従長に通達を。伯爵令嬢には作法講師からの正式な指導が入った、と。妃殿下が感情的に叱責したのではなく、あくまで礼節の確認であったと徹底します」
言葉の整理。
物語の修正。
それが火消しの仕事。
アーヴィンは、胸の奥が痛むのを感じながら頷くしかなかった。
宰相は最後に、静かに釘を刺した。
「殿下。伯爵令嬢を過度に庇うようなお言葉はお控えください。妃殿下にとって致命傷となります」
致命傷。
その言葉に、アーヴィンの喉が詰まる。
「……分かっている」
本当は、分かっていなかった。
だからこそ、あの一言を言ってしまった。
宰相が去りかけたとき、アーヴィンは思わず呼び止めた。
「グレゴール」
「はい」
「……私は、どうすればいい」
王太子が宰相に“夫の問い”を投げるなど、本来なら弱さだ。
けれど今は、答えが欲しかった。
遅すぎても、何かを掴みたい。
宰相は一瞬、沈黙した。
そして、政治家ではなく、年長者の目で言う。
「殿下。火消しが終わってからで構いません。妃殿下へは“言葉”ではなく、“行動”で示しなさい。王宮では、言葉は噂にされます。行動だけが真実として残ります」
行動。
その言葉が、胸に落ちる。
だが——今は、追えない。
追ってはならない。
そう言われた。
アーヴィンは、廊下の角を見た。
その先に、リディアの私室へ続く道がある。
行けば、間に合うかもしれない。
行かなければ、さらに遠ざかる。
足が動きかけて、止まる。
——王太子としての正しさが、夫としての選択を奪う。
アーヴィンは踵を返した。
執務室の方へ。
火消しのための公務へ。
その背中を、遠くからルシアンが見ていた。
近衛騎士の目は冷たく、そして痛かった。
アーヴィン自身も分かっている。
今日、自分はまた“追わない”を選んだ。
追えない理由は正しい。
けれど正しさは、いつだって遅れて致命傷になる。
窓の外で、風が鳴った。
あの窓辺の茶会室のカーテンも、同じ風に揺れているだろう。
——もう、二人の茶会はない。
その事実だけが、胸の奥で重く沈んだ。
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