「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ

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第17章|子爵令嬢ローラが尾ひれをつけて拡散

 噂は、最初は小さな“事実”として生まれる。
 けれど王宮では、事実はそのままでは生き残れない。
 誰かの口を通るたびに、色がつき、角がつき、翼が生える。

 子爵令嬢ローラは、その翼を作るのが得意だった。

 翌朝。女官長の執務室の前に続く回廊は、まだ掃き清められたばかりで、石床に朝日が細い線を落としていた。
 女官たちが行き交う中、ローラは軽い足取りで進む。
 誰かに会うためではない。
 誰かに“会ったことにする”ために歩く。

 ローラの笑顔は明るい。
 声は柔らかい。
 だから、人は警戒を解いてしまう。

「おはよう。昨夜の薔薇の間、いらしたでしょう?」

 彼女は、通りすがりの女官に親しげに声をかけた。
 その女官は一瞬戸惑い、そして小さく頷く。
 頷いた瞬間、ローラの中で“同席した”という証拠になる。

「まあ、やっぱり。ねえ、聞いた? 昨日の茶会——」

 声は抑えている。
 抑えているふりが、いちばんよく届く。

「妃殿下、伯爵令嬢を“震えるほど”叱責されたそうよ」

 震えるほど。
 まだ誰も言っていない言葉。
 それをローラは、最初に言った。

 女官の目が大きくなる。
 その目の大きさが、噂の燃料になる。

「え……妃殿下が?」

「ええ。しかもね、殿下の前で」

 殿下の前で。
 この一言で、噂の舞台が完成する。
 一対一の注意ではなく、“公開の断罪”に変わる。

 ローラはわざと溜め息をついた。

「妃殿下は正しいのよ? ええ、分かってる。礼節も、席次も、呼称も。全部正しい。だけど……」

 だけど。
 その“だけど”の後に、人は好きな物語を乗せられる。

「殿下が、お止めになったそうなの。『そこまで言わなくても』って」

 昨日の一言が、今日には“目撃証言”になる。
 ローラはその場にいなかったのに、まるで見たように言う。
 言い方に確信があるほど、人は信じる。

 女官は息を呑み、口元を押さえた。

「殿下が、妃殿下を……」

「そう。……優しい方だもの。伯爵令嬢が可哀想に見えたのかもしれないわ」

 可哀想。
 その言葉が、伯爵令嬢を守り、妃を加害者にする。

 ローラは扇を開き、わざとらしく小さく笑った。

「それにね、伯爵令嬢は殿下のことを“アーヴィン様”って呼んだそうよ。妃殿下の前で」

 ここで、噂に甘い毒が混ざる。
 恋の匂い。
 王宮の女たちは恋の噂を好む。政治よりも早く広がる。

「……まあ」

 女官が声を漏らす。
 ローラは、その反応を待っていた。

「妃殿下は怒って当然よ。ええ、当然。……でもね、殿下は“正しさ”より“優しさ”の方を選ぶ方でしょう?」

 ローラは“擁護”の形で刃を入れる。
 妃を責めずに、妃を孤立させる。

 女官は困ったように視線を逸らした。
 逸らした視線は、次の相手へ向かう。
 噂は、視線に運ばれる。

 ローラは、同じ調子で別の女官にも声をかけた。
 別の回廊で、別の温度で、同じ筋書きを語る。
 少しずつ言葉を変える。
 変えることで“複数の証言”のように見せる。

「妃殿下、伯爵令嬢の腕を掴んだらしいわ」
 ——掴んでいない。けれど“ありそう”だから生き残る。

「伯爵令嬢は泣いて、殿下の袖に縋ったとか」
 ——縋っていない。けれど“絵になる”から残る。

「殿下は伯爵令嬢に『気にするな』と囁いたそうよ」
 ——囁いていない。けれど“恋”が噂を加速させる。

 尾ひれは、次々生えていく。
 そして尾ひれは、真実より強い。

 昼前には、噂は女官たちだけのものではなくなっていた。
 文官の妻、騎士の妹、礼拝堂の修道女見習い——。
 王宮の“外”へ滲み出ていく。

 ローラは満足そうに扇を閉じ、窓辺で立ち止まった。
 廊下の向こうに見える庭園は、冬の色をしている。
 噂の色は、もっと鮮やかだ。

「……ねえ、あなたも知ってるでしょう?」

 ローラが声をかけたのは、女官長室から出てきた若い女官だった。
 彼女は戸惑い、首を横に振る。

「い、いえ……私は……」

「いいの、いいの。知らなくていいのよ。でも——」

 ローラは微笑んで、最も恐ろしい言葉を落とす。

「“知らない”ってことは、“否定できない”ってことだから」

 その言葉で、女官の顔色が変わる。
 否定できない。
 否定しなければ、事実になる。

 ローラは立ち去りながら、心の中で満足した。
 噂はもう止まらない。
 止めるには、もっと大きな“物語”が必要になる。

 同じ頃。
 リディアは自室で、胃を押さえ、昨夜から一睡もできないまま、窓の外を見ていた。

 自分の知らないところで、自分が“怖い妃”になっていく。
 自分の知らないところで、夫が“優しい男”として語られていく。

 ——正しさは、噂に勝てない。

 その事実が、静かに胸を締めつける。

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