「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ

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第18章|王妃マルグリット来宮、妃の表情を見て察する

 王妃マルグリットが王太子宮を訪れたのは、昼の鐘が鳴る少し前だった。

 予告は、たった一行。
 「妃殿下のご様子を伺う」
 それだけで、女官たちの背筋が伸びた。王妃の来訪は、慰めにもなるが、裁定にもなる。王宮の空気は、王妃の歩幅で変わる。

 廊下の絨毯を踏む音が聞こえた瞬間、ミナは息を整えた。
 主の代わりに緊張するのが、侍女の仕事だ。

「妃殿下、王妃陛下がお越しでございます」

 リディアは鏡台の前で、髪を整えていた。
 プラチナブロンドの髪は乱れなく、首元の飾りも完璧。
 ——完璧すぎて、逆に痛々しい。

「通して」

 声は穏やか。
 だが、その穏やかさの中に“余白”がない。
 微笑みが薄い。呼吸が浅い。
 ミナはそれに気づきながら、何も言えない。

 扉が開く。

 王妃マルグリットは、光のように入ってきた。
 派手ではない。けれど、存在が場を支配する。
 淡い金糸の刺繍が施された濃紺のドレス。真珠の首飾り。背筋の角度。
 “王妃”という肩書きがそのまま形になったような人。

「リディア」

 王妃は、嫁の名を呼んだ。
 そこに感情は少ない。けれど、温度はある。
 冷たい慈悲ではなく、厳しい母の慈悲。

「お越しいただき、光栄でございます、王妃陛下」

 リディアは完璧な礼を取った。
 言葉も姿勢も、教科書通り。
 だからこそ、王妃はすぐに悟った。

 ——これは、疲れている。
 ——泣かないように整えすぎている。

 王妃は椅子に座るよう促し、先に腰を下ろした。
 そして、周囲の女官に視線だけで命じる。

「皆、下がりなさい」

 ミナが一瞬迷う。主を残すことが怖い。
 だが、王妃の目は揺るがない。

「ミナ、あなたも」

 名指しされたことで、ミナは膝を折り、扉の外へ下がった。
 最後に扉が閉まる。鍵は掛けられない。だが会話は遮られる。

 部屋に残ったのは、王妃と王太子妃だけ。

 王妃はすぐに噂を口にしなかった。
 そういう女ではない。噂を楽しむのは他人の役目だ。
 彼女が見ているのは“人”のほう。

「眠れている?」

 問われた瞬間、リディアの背筋がわずかに強張る。
 たった四文字が、隠していた弱さに触れる。

「……問題ございません」

 嘘だ。
 嘘の言い方が、あまりにも丁寧だ。

 王妃はため息をついた。小さく。
 そして、硬い言葉を柔らかい声で言う。

「問題がないなら、その目はしないわ」

 リディアの指先が、膝の上でわずかに握り込まれた。
 王妃の前で、崩れてはいけない。
 崩れれば、王妃はすぐに“裁く”側に回る。

 王妃は視線をリディアの喉元、鎖骨、手首へと滑らせた。
 化粧で隠せない疲れの出る場所。
 そこにある微かな陰りを、見逃さない。

「昨日の午後の茶会——」

 ついに言葉が落ちる。

 リディアは微笑んだ。
 微笑みの形だけ、完璧に。

「礼節の確認がございました。それだけです」

 “それだけ”。
 その言い方が、胸を閉じている。

 王妃は首を傾げる。

「それだけで、あなたは茶会をやめたの?」

 直球。逃げ道のない問い。
 王妃は“場を守る言葉”ではなく、“心を暴く言葉”を選ぶ。

 リディアは一瞬だけ、呼吸を止めた。
 そして、ゆっくり息を吐く。

「……はい」

 肯定した瞬間、負けたような気がした。
 でも、嘘を重ねるのがもう苦しかった。

 王妃は、その返事に頷いた。責めない。驚かない。
 ただ、確信する。

 ——折れたのは礼節ではない。
 ——夫婦の信頼だ。

「アーヴィンは、あなたを止めたのね」

 王妃の声が低くなる。
 “聞いた”ではない。“分かった”の言い方。

 リディアの指先が震えそうになり、すぐに止める。
 震えることは許されない。
 王太子妃は、震えてはいけない。

「……殿下は、お優しい方です」

 リディアは言った。
 自分を守るために。
 王妃の怒りを夫に向けさせないために。

 王妃は静かに言い返す。

「優しさは、盾にならなければ罪よ」

 その一言が、胸に刺さる。
 でも痛いのは、王妃が正しいからだ。

「あなたの表情を見れば分かるわ」

 王妃はテーブルの上の小箱に視線を落とした。
 青い石のブローチの箱。閉じられたまま。

「茶会を終わらせたのは、怒りではない。あなたが“期待”をやめた顔をしている」

 リディアの唇が、わずかに開いた。
 否定が出ない。
 王妃は、もう見抜いている。

 王妃は立ち上がり、リディアの前に回った。
 手を伸ばし、頬には触れない。
 触れれば、崩れるから。
 触れずに、言葉だけで支える。

「リディア。あなたは正しいわ。正しい者ほど、王宮では孤独になる」

 孤独。
 その言葉が、やっと本音の場所に届いた。

 リディアの目が、微かに揺れる。
 涙は落ちない。
 落ちない代わりに、瞳が遠くなる。

 王妃は背を向け、扉の方へ歩きながら言った。

「アーヴィンには、わたくしから話す。……ただし」

 扉の前で振り返る。
 王妃の目は厳しい。

「あなたも、倒れてはいけない。倒れたら、噂はあなたを喰う。——守るのよ、自分の呼吸を」

 リディアは、深く礼を取った。
 礼を取ることでしか、感情を保てない。

「……承知いたしました、王妃陛下」

 扉が開く。外の空気が流れ込む。
 王妃が出て行く直前、ほんの少しだけ声を落とした。

「あなたの顔が、あまりにも静かで……それが一番怖いわ」

 その言葉が最後だった。

 扉が閉まる。
 リディアは椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。

 ——見抜かれた。
 ——でも、責められなかった。

 それが、逆に胸を締めつける。

 そして同じ頃。
 王妃は王太子の執務室へ向かっていた。
 静かな怒りを、足音に隠して。

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