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第27章|王太子が止めるが“遅い守り”で周囲は半信半疑
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――妃は消えない。崩れない。ただ、隣の温度だけが消える。
リディアが妃の席に腰を下ろした瞬間、広間の空気が一段、冷えた。
怒号も、涙も、退室もない。
ただ、完璧な背筋と、完璧な微笑みがある。
それがどれほど怖いものかを知っているのは、王宮で生きる者だけだ。
シャンデリアの灯りが彼女のプラチナブロンドを白く照らし、青いドレスの肩口に光の粒を落とす。
指先は白手袋のまま重ねられ、揺れない。
揺れないのに、そこにはもう“夫婦の温度”がない。
——妃はここにいる。
——けれど、殿下の隣にはいない。
その矛盾が、扇の影で囁きになった。
「……あの微笑みは、終わった顔よ」
「怒ってないのが、いちばん怖いわ」
「殿下が遅すぎたのでは?」
囁きは風より軽い。
軽いのに、広間全体を染める。
ミレーユは、涙を拭いながらも背筋を伸ばしていた。
泣いているのに、美しい。
泣いているのに、“負けていない”顔を作れる。
王宮は、こういう者に弱い。
強くて完璧な妃より、傷ついたふりの令嬢に同情が集まる。
ミレーユは慎ましげに膝を折り、視線を上げた。
上げた先はリディアではない。
王太子だ。
「殿下……わたくし、作法が足りませんでした。妃殿下のお言葉、胸に刻みますわ」
謝罪の形。
しかし、その言葉は“妃殿下は厳しい”の種になる。
王宮の言葉は、形の裏を拾う。
アーヴィンはまだ立っていた。
彼は座るべき場所を知っている。王太子の席。リディアの隣。
なのに、足がすぐ動かない。
自分が動けば、場が動く。
自分が動けば、噂が動く。
そして今、噂はすでに走り始めている。
——止めるなら、もっと早く。
——守るなら、迷う前に。
母の声がよみがえる。
空気を守るな、妻を守れ。
ルシアンの声も重なる。
殿下の言葉は今、刃です。
アーヴィンは息を吸い、ようやく王太子の席へ向かった。
椅子の背に手を置く。
置いた手が、ほんの僅かに震えているのを、自分で感じる。
その一瞬に、また囁きが増えた。
「……殿下、迷ってる」
「妃殿下を守る気があるのかしら」
「さっきまで伯爵令嬢を庇うような……」
疑いは、守りの遅さに寄生する。
アーヴィンは椅子に腰を下ろした。
隣を見る。
空席ではない。
椅子はそこにある。距離もある。規範もある。
——ただ、そこに座るはずの“心”がない。
リディアは視線を合わせない。
合わせないことで、世界に宣言している。
“私は妃としてここにいる。けれど妻としてあなたの隣には戻らない。”
その宣言を、アーヴィンだけが痛いほど理解する。
理解して、今さら息が詰まる。
「……リディア」
名を呼ぶ声が、夫の声に近づこうとして、途中で崩れた。
公務の声でもない。夫の声でもない。
迷いの声。
リディアは、微笑みを崩さずに答えた。
しかし答えは言葉ではなく、動きだった。
彼女はわずかに体の向きを変え、視線を賓客へ向けた。
外交使節の夫人が近づいてくるのを見つけ、妃としての仕事に切り替える。
「……本日はお越しいただき、光栄でございます」
その声は柔らかい。完璧だ。
完璧だからこそ、アーヴィンの喉が痛む。
——自分には向けられない声。
——向けられない温度。
ミレーユは、その空白を見ていた。
隣が冷えたことを、勝利の予感として嗅ぎ取っている。
彼女はすぐに前へ出ない。
前へ出れば露骨だ。露骨は礼節で斬られる。
だから、最も美しく“控える”。
規範の位置へ下がりながら、涙を拭い、息を整え、そして小さく微笑む。
——私は学びました。私は傷つきました。私は健気です。
そう見える形を、完璧に作る。
ローラはもう、次の噂の文を頭の中で組み立てている顔だ。
アデラは扇の影で、ゆっくり笑った。
“面白い空気”が完成したことを確かめるように。
グレイスが淡々と進行を整える。
「殿下、妃殿下。献杯の段取りに入ります」
儀式が始まる。
儀式は、個人の心を無視して進む。
リディアは立ち上がった。
立ち上がる仕草が、美しい。
美しいほどに、冷たい。
アーヴィンも立つ。
隣へ寄ろうとして、ほんの一瞬だけ迷う。
寄れば“夫婦に戻ったふり”ができる。
寄らなければ、距離が露わになる。
彼が迷う、その一拍。
その一拍で、広間はまた“物語”を作る。
リディアは迷わなかった。
迷わないまま一歩前へ出る。
夫の隣ではなく、妃としての位置へ。
アーヴィンの隣を空けるのではない。
“心がそこに戻れない”と示すために、正しい位置へ移るだけ。
献杯の声が響く。
グラスが触れ合う音が、星の欠片のように散る。
リディアは微笑み、グラスを口元へ運ぶ。
その所作は完璧。
完璧だからこそ、王宮は勝手に解釈する。
——妃は平気だ。
——妃は強い。
——殿下が守らなくても崩れない。
だから、守られない。
アーヴィンは、その恐ろしい理屈が王宮にあることを知っていた。
知っていたのに、今まで抗えなかった。
彼はグラスを置き、低い声で再び呼ぶ。
「……リディア」
今度こそ、言い訳を混ぜずに謝罪を言おうとした。
だが、口を開いた瞬間、背後の空気が動く。
「殿下、お声がけの機会を——」
誰かが言った。夫人か、貴族か。
公の場では、王太子の“私事”は許されない。
空気が、また彼の足を絡め取る。
アーヴィンは言葉を飲み込むしかなかった。
飲み込んだ瞬間、また噂が増える。
“殿下は言えない”
“妃殿下は聞かない”
“夫婦は戻らない”
リディアは、その全てを聞こえないふりでやり過ごした。
聞こえないふりをしながら、胃の奥がじわりと痛む。
痛みを悟らせないように、さらに微笑みを整える。
その微笑みの下で、心の扉がまた一枚閉じる。
アーヴィンは初めて理解する。
守りは、止めることで終わらない。
止めた後に、誰の側に立つかを“迷いなく”示さなければ、守りにならない。
そして、迷いなく示せない者の守りは——
遅い。
薄い。
疑われる。
舞踏会の灯りが眩しい。
眩しいほどに、二人の距離が鮮明に浮かび上がる。
妃は消えない。
妃は崩れない。
ただ、隣の温度だけが消えていく。
その事実を、王宮は甘く噛みしめるように眺めていた。
——今夜は、噂が完成する夜だ。
リディアが妃の席に腰を下ろした瞬間、広間の空気が一段、冷えた。
怒号も、涙も、退室もない。
ただ、完璧な背筋と、完璧な微笑みがある。
それがどれほど怖いものかを知っているのは、王宮で生きる者だけだ。
シャンデリアの灯りが彼女のプラチナブロンドを白く照らし、青いドレスの肩口に光の粒を落とす。
指先は白手袋のまま重ねられ、揺れない。
揺れないのに、そこにはもう“夫婦の温度”がない。
——妃はここにいる。
——けれど、殿下の隣にはいない。
その矛盾が、扇の影で囁きになった。
「……あの微笑みは、終わった顔よ」
「怒ってないのが、いちばん怖いわ」
「殿下が遅すぎたのでは?」
囁きは風より軽い。
軽いのに、広間全体を染める。
ミレーユは、涙を拭いながらも背筋を伸ばしていた。
泣いているのに、美しい。
泣いているのに、“負けていない”顔を作れる。
王宮は、こういう者に弱い。
強くて完璧な妃より、傷ついたふりの令嬢に同情が集まる。
ミレーユは慎ましげに膝を折り、視線を上げた。
上げた先はリディアではない。
王太子だ。
「殿下……わたくし、作法が足りませんでした。妃殿下のお言葉、胸に刻みますわ」
謝罪の形。
しかし、その言葉は“妃殿下は厳しい”の種になる。
王宮の言葉は、形の裏を拾う。
アーヴィンはまだ立っていた。
彼は座るべき場所を知っている。王太子の席。リディアの隣。
なのに、足がすぐ動かない。
自分が動けば、場が動く。
自分が動けば、噂が動く。
そして今、噂はすでに走り始めている。
——止めるなら、もっと早く。
——守るなら、迷う前に。
母の声がよみがえる。
空気を守るな、妻を守れ。
ルシアンの声も重なる。
殿下の言葉は今、刃です。
アーヴィンは息を吸い、ようやく王太子の席へ向かった。
椅子の背に手を置く。
置いた手が、ほんの僅かに震えているのを、自分で感じる。
その一瞬に、また囁きが増えた。
「……殿下、迷ってる」
「妃殿下を守る気があるのかしら」
「さっきまで伯爵令嬢を庇うような……」
疑いは、守りの遅さに寄生する。
アーヴィンは椅子に腰を下ろした。
隣を見る。
空席ではない。
椅子はそこにある。距離もある。規範もある。
——ただ、そこに座るはずの“心”がない。
リディアは視線を合わせない。
合わせないことで、世界に宣言している。
“私は妃としてここにいる。けれど妻としてあなたの隣には戻らない。”
その宣言を、アーヴィンだけが痛いほど理解する。
理解して、今さら息が詰まる。
「……リディア」
名を呼ぶ声が、夫の声に近づこうとして、途中で崩れた。
公務の声でもない。夫の声でもない。
迷いの声。
リディアは、微笑みを崩さずに答えた。
しかし答えは言葉ではなく、動きだった。
彼女はわずかに体の向きを変え、視線を賓客へ向けた。
外交使節の夫人が近づいてくるのを見つけ、妃としての仕事に切り替える。
「……本日はお越しいただき、光栄でございます」
その声は柔らかい。完璧だ。
完璧だからこそ、アーヴィンの喉が痛む。
——自分には向けられない声。
——向けられない温度。
ミレーユは、その空白を見ていた。
隣が冷えたことを、勝利の予感として嗅ぎ取っている。
彼女はすぐに前へ出ない。
前へ出れば露骨だ。露骨は礼節で斬られる。
だから、最も美しく“控える”。
規範の位置へ下がりながら、涙を拭い、息を整え、そして小さく微笑む。
——私は学びました。私は傷つきました。私は健気です。
そう見える形を、完璧に作る。
ローラはもう、次の噂の文を頭の中で組み立てている顔だ。
アデラは扇の影で、ゆっくり笑った。
“面白い空気”が完成したことを確かめるように。
グレイスが淡々と進行を整える。
「殿下、妃殿下。献杯の段取りに入ります」
儀式が始まる。
儀式は、個人の心を無視して進む。
リディアは立ち上がった。
立ち上がる仕草が、美しい。
美しいほどに、冷たい。
アーヴィンも立つ。
隣へ寄ろうとして、ほんの一瞬だけ迷う。
寄れば“夫婦に戻ったふり”ができる。
寄らなければ、距離が露わになる。
彼が迷う、その一拍。
その一拍で、広間はまた“物語”を作る。
リディアは迷わなかった。
迷わないまま一歩前へ出る。
夫の隣ではなく、妃としての位置へ。
アーヴィンの隣を空けるのではない。
“心がそこに戻れない”と示すために、正しい位置へ移るだけ。
献杯の声が響く。
グラスが触れ合う音が、星の欠片のように散る。
リディアは微笑み、グラスを口元へ運ぶ。
その所作は完璧。
完璧だからこそ、王宮は勝手に解釈する。
——妃は平気だ。
——妃は強い。
——殿下が守らなくても崩れない。
だから、守られない。
アーヴィンは、その恐ろしい理屈が王宮にあることを知っていた。
知っていたのに、今まで抗えなかった。
彼はグラスを置き、低い声で再び呼ぶ。
「……リディア」
今度こそ、言い訳を混ぜずに謝罪を言おうとした。
だが、口を開いた瞬間、背後の空気が動く。
「殿下、お声がけの機会を——」
誰かが言った。夫人か、貴族か。
公の場では、王太子の“私事”は許されない。
空気が、また彼の足を絡め取る。
アーヴィンは言葉を飲み込むしかなかった。
飲み込んだ瞬間、また噂が増える。
“殿下は言えない”
“妃殿下は聞かない”
“夫婦は戻らない”
リディアは、その全てを聞こえないふりでやり過ごした。
聞こえないふりをしながら、胃の奥がじわりと痛む。
痛みを悟らせないように、さらに微笑みを整える。
その微笑みの下で、心の扉がまた一枚閉じる。
アーヴィンは初めて理解する。
守りは、止めることで終わらない。
止めた後に、誰の側に立つかを“迷いなく”示さなければ、守りにならない。
そして、迷いなく示せない者の守りは——
遅い。
薄い。
疑われる。
舞踏会の灯りが眩しい。
眩しいほどに、二人の距離が鮮明に浮かび上がる。
妃は消えない。
妃は崩れない。
ただ、隣の温度だけが消えていく。
その事実を、王宮は甘く噛みしめるように眺めていた。
——今夜は、噂が完成する夜だ。
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