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第28章|リディアは戻らない(守られても、心は戻らない)
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――守られたのは席。守られなかったのは、心が戻る“順番”。
舞踏会の灯りは、夜を明るくするためにある。
けれどリディアにとってその光は、隠していたものを浮かび上がらせるための光だった。
シャンデリアの火が揺れるたび、床に砕けた星屑が散り、誰かの笑い声が絹のように滑っていく。
楽団の旋律は甘いのに、胸の奥は硬い。
胃のあたりに鈍い痛みが居座り、それを悟らせないために背筋をさらに伸ばす。
——妃は崩れてはいけない。
崩れた瞬間、王宮は噂にして、面白がって、最後は責める。
だからリディアは、崩れない代わりに“戻らない”を選んだ。
王太子アーヴィンが、伯爵令嬢ミレーユを止めた。
たしかに止めた。
「そこは妃の席だ」と言った。
言ったのに、遅い。
遅い守りは、守りではなく償いに見える。
償いは、傷ついた心の前で、温度を持てない。
リディアはそれを、息をするように理解していた。
グレイスが献杯の段取りを整え、女官長が視線だけで会場の流れを制す。
妃はその中心に立ち、微笑み、言葉を選ぶ。
外交使節の夫人に視線を合わせ、ほんの少しだけ声の温度を上げる。
「本日はお越しいただき、光栄でございます。どうぞ、ゆるりとお楽しみくださいませ」
声は柔らかい。
声が柔らかいほど、聞く者は安心する。
妃は大丈夫だ、と思う。
——大丈夫なわけがないのに。
ふと、隣から微かな気配が寄った。
アーヴィンが、ためらいながら身を少し傾けたのが分かる。
名を呼びたいのか、言葉を探しているのか、迷いが空気として伝わってくる。
「……リディア」
呼び方だけは、夫に近い。
けれど声の芯が揺れている。
そこに混ざる“迷い”が、リディアの胸を静かに冷やした。
迷いは、王宮で最も残酷なものだ。
迷えば、その隙に噂が入り込む。
迷えば、誰の味方かが曖昧になる。
リディアは彼を見なかった。
見たら、昔の癖で、答えてしまう。
答えたら、期待が戻る。
期待が戻ると、また折れる。
だから、彼女は公務の言葉で返す。
「殿下。次の献杯の準備がございます」
それだけで会話が閉じる。
閉じる音は小さい。
小さいから、アーヴィンだけが聞く。
彼の喉が動いた。
言い直そうとする。
謝ろうとする。
でもきっと、言い訳が混ざる。
それをリディアは、もう痛いほど知っている。
——謝罪未満の言葉は、二度目の刃だ。
アーヴィンが止めた。
止めたのに、結局“今夜は舞踏会だ、争う必要はない”と逃げた。
礼節を守ることが争いになった瞬間、リディアの中で何かが静かに閉じた。
それは怒りではない。
怒るだけの期待が、もうない。
献杯の声が響き、グラスが触れ合う。
透明な音が星の欠片のように散る。
誰もが笑い、飲み、拍手する。
リディアも微笑み、飲んだ。
ほんの一口。
ワインの甘さが喉を通り、胃に落ちた瞬間、痛みが増す。
痛みがあると、少しだけ現実に戻れる。
期待の夢から離れられる。
リディアは、また仕事へ向かう。
立ち上がる。
立ち上がる動きがあまりに美しく、周囲が勝手に“強い妃”と解釈する。
大公夫人に挨拶を返し、隣国の使節に穏やかな言葉を添える。
笑顔の角度を変え、声の高さを変え、会場の空気を整えていく。
妃の仕事は、どこまでも“場を守る”仕事だ。
皮肉だと思った。
私は場を守り続けて、夫に止められたのに。
視界の端で、ミレーユが動く。
あの令嬢は前へ出ない。
前へ出れば露骨だと知っている。
だから一歩下がり、涙を拭い、健気な微笑みを貼り直す。
“学びますわ”
その言葉は、引くのではなく、王宮に居座る宣言だった。
ローラがそれを見て、また何かを囁く。
アデラが扇を揺らし、空気を面白がる。
夫人たちの視線が、リディアとアーヴィンの間の“温度の差”を測る。
——隣の椅子が冷たい。
——妃が殿下を見ない。
——夫婦は終わったのかしら。
噂は、事実より先に完成する。
完成した噂は、事実を飲み込む。
アーヴィンは、それを止められない。
止められないのは、彼がまだ空気を怖がっているからだ。
怖がっていることを、リディアは背中で分かってしまう。
曲が変わり、踊りの輪が広がる。
若い令嬢が手を伸ばし、騎士たちが姿勢を正す。
アーヴィンが、立ち上がってリディアに手を差し出しそうになった。
差し出せば、夫婦に見える。
差し出せば、噂を押し返せるかもしれない。
けれど彼は、差し出せない。
差し出せば、リディアが受け取らなかった時に、もっと大きな噂になる。
彼はその可能性を恐れる。
——恐れは、守りにならない。
リディアは彼を見ずに、別の令嬢へ微笑みを向けた。
外交使節の夫人へ近づき、言葉を整えた。
「殿下のお疲れが出ませんよう、少しだけ休憩の時間を取らせていただきます。皆さま、どうぞお楽しみくださいませ」
優しい言葉。
優しいのに、その中身は撤退だ。
アーヴィンは立ち尽くした。
彼女が自分のために言葉を選んでいるのに、その言葉が自分に向かっていないことに気づく。
舞踏会の終盤。
席へ戻ったリディアは、また妃の席に座った。
座り方は完璧。
微笑みも完璧。
アーヴィンが隣に座る。
隣に座っているのに、そこに“隣”がない。
彼は小さく息を吸い、今度こそ言い訳のない言葉を探そうとした。
でも、公の場では言葉が持てない。
持てたとしても、彼の口から出る言葉は、きっと遅い。
リディアは、淡々と礼を尽くした。
礼を尽くすことでしか、心を保てない。
——守られたのは席。
——守られなかったのは、心が戻る順番。
順番を間違えた守りは、もう“戻れない”を作る。
そのことを、アーヴィンは今夜、骨の奥で知った。
舞踏会の灯りが揺れる。
揺れる灯りの下で、妃の微笑みは美しく冷えていく。
そして王宮は、その冷えを物語にして、明日へ運ぶ。
舞踏会の灯りは、夜を明るくするためにある。
けれどリディアにとってその光は、隠していたものを浮かび上がらせるための光だった。
シャンデリアの火が揺れるたび、床に砕けた星屑が散り、誰かの笑い声が絹のように滑っていく。
楽団の旋律は甘いのに、胸の奥は硬い。
胃のあたりに鈍い痛みが居座り、それを悟らせないために背筋をさらに伸ばす。
——妃は崩れてはいけない。
崩れた瞬間、王宮は噂にして、面白がって、最後は責める。
だからリディアは、崩れない代わりに“戻らない”を選んだ。
王太子アーヴィンが、伯爵令嬢ミレーユを止めた。
たしかに止めた。
「そこは妃の席だ」と言った。
言ったのに、遅い。
遅い守りは、守りではなく償いに見える。
償いは、傷ついた心の前で、温度を持てない。
リディアはそれを、息をするように理解していた。
グレイスが献杯の段取りを整え、女官長が視線だけで会場の流れを制す。
妃はその中心に立ち、微笑み、言葉を選ぶ。
外交使節の夫人に視線を合わせ、ほんの少しだけ声の温度を上げる。
「本日はお越しいただき、光栄でございます。どうぞ、ゆるりとお楽しみくださいませ」
声は柔らかい。
声が柔らかいほど、聞く者は安心する。
妃は大丈夫だ、と思う。
——大丈夫なわけがないのに。
ふと、隣から微かな気配が寄った。
アーヴィンが、ためらいながら身を少し傾けたのが分かる。
名を呼びたいのか、言葉を探しているのか、迷いが空気として伝わってくる。
「……リディア」
呼び方だけは、夫に近い。
けれど声の芯が揺れている。
そこに混ざる“迷い”が、リディアの胸を静かに冷やした。
迷いは、王宮で最も残酷なものだ。
迷えば、その隙に噂が入り込む。
迷えば、誰の味方かが曖昧になる。
リディアは彼を見なかった。
見たら、昔の癖で、答えてしまう。
答えたら、期待が戻る。
期待が戻ると、また折れる。
だから、彼女は公務の言葉で返す。
「殿下。次の献杯の準備がございます」
それだけで会話が閉じる。
閉じる音は小さい。
小さいから、アーヴィンだけが聞く。
彼の喉が動いた。
言い直そうとする。
謝ろうとする。
でもきっと、言い訳が混ざる。
それをリディアは、もう痛いほど知っている。
——謝罪未満の言葉は、二度目の刃だ。
アーヴィンが止めた。
止めたのに、結局“今夜は舞踏会だ、争う必要はない”と逃げた。
礼節を守ることが争いになった瞬間、リディアの中で何かが静かに閉じた。
それは怒りではない。
怒るだけの期待が、もうない。
献杯の声が響き、グラスが触れ合う。
透明な音が星の欠片のように散る。
誰もが笑い、飲み、拍手する。
リディアも微笑み、飲んだ。
ほんの一口。
ワインの甘さが喉を通り、胃に落ちた瞬間、痛みが増す。
痛みがあると、少しだけ現実に戻れる。
期待の夢から離れられる。
リディアは、また仕事へ向かう。
立ち上がる。
立ち上がる動きがあまりに美しく、周囲が勝手に“強い妃”と解釈する。
大公夫人に挨拶を返し、隣国の使節に穏やかな言葉を添える。
笑顔の角度を変え、声の高さを変え、会場の空気を整えていく。
妃の仕事は、どこまでも“場を守る”仕事だ。
皮肉だと思った。
私は場を守り続けて、夫に止められたのに。
視界の端で、ミレーユが動く。
あの令嬢は前へ出ない。
前へ出れば露骨だと知っている。
だから一歩下がり、涙を拭い、健気な微笑みを貼り直す。
“学びますわ”
その言葉は、引くのではなく、王宮に居座る宣言だった。
ローラがそれを見て、また何かを囁く。
アデラが扇を揺らし、空気を面白がる。
夫人たちの視線が、リディアとアーヴィンの間の“温度の差”を測る。
——隣の椅子が冷たい。
——妃が殿下を見ない。
——夫婦は終わったのかしら。
噂は、事実より先に完成する。
完成した噂は、事実を飲み込む。
アーヴィンは、それを止められない。
止められないのは、彼がまだ空気を怖がっているからだ。
怖がっていることを、リディアは背中で分かってしまう。
曲が変わり、踊りの輪が広がる。
若い令嬢が手を伸ばし、騎士たちが姿勢を正す。
アーヴィンが、立ち上がってリディアに手を差し出しそうになった。
差し出せば、夫婦に見える。
差し出せば、噂を押し返せるかもしれない。
けれど彼は、差し出せない。
差し出せば、リディアが受け取らなかった時に、もっと大きな噂になる。
彼はその可能性を恐れる。
——恐れは、守りにならない。
リディアは彼を見ずに、別の令嬢へ微笑みを向けた。
外交使節の夫人へ近づき、言葉を整えた。
「殿下のお疲れが出ませんよう、少しだけ休憩の時間を取らせていただきます。皆さま、どうぞお楽しみくださいませ」
優しい言葉。
優しいのに、その中身は撤退だ。
アーヴィンは立ち尽くした。
彼女が自分のために言葉を選んでいるのに、その言葉が自分に向かっていないことに気づく。
舞踏会の終盤。
席へ戻ったリディアは、また妃の席に座った。
座り方は完璧。
微笑みも完璧。
アーヴィンが隣に座る。
隣に座っているのに、そこに“隣”がない。
彼は小さく息を吸い、今度こそ言い訳のない言葉を探そうとした。
でも、公の場では言葉が持てない。
持てたとしても、彼の口から出る言葉は、きっと遅い。
リディアは、淡々と礼を尽くした。
礼を尽くすことでしか、心を保てない。
——守られたのは席。
——守られなかったのは、心が戻る順番。
順番を間違えた守りは、もう“戻れない”を作る。
そのことを、アーヴィンは今夜、骨の奥で知った。
舞踏会の灯りが揺れる。
揺れる灯りの下で、妃の微笑みは美しく冷えていく。
そして王宮は、その冷えを物語にして、明日へ運ぶ。
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