「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ

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第35章|公の線引き

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――守ると決めた瞬間、守りは“宣言”になり、宣言は“戦い”になる。

 前室を出ると、廊下の空気がひとつ冷たかった。
 謁見の進行を知らせる鐘の音が遠くで鳴り、王宮全体が一歩、儀礼へ沈んでいく。沈むほど、誰もが表情を整える。

 整えられた顔ほど、残酷だ。

 アーヴィンは歩きながら、自分の指先の感覚を確かめていた。
 外套の縁を掴む手。震えてはいない。
 震えていないことが、怖い。
 自分がどれだけ長い間、感情を“凍らせて”政務に合わせてきたかを思い知らされる。

 リディアの控室の扉が閉まったままでも、彼はそこに残らなかった。
 残れば——また言い訳を言ってしまう。
 “今は謁見がある”
 “空気を乱せない”
 その鎖は、口にした瞬間に戻れなくなる。

 だから彼は、走らずに歩いた。
 王太子としての歩幅で。
 しかし心だけは、走っている。

 ルシアンが半歩後ろにつく。

「殿下。ここで“線”を引けば、必ず反発が出ます」

「分かっている」

 分かっている。
 分かっていて、今まで引かなかった。
 ——引かなかったから、今の妻がある。

 廊下を曲がると、調整前室が見えた。
 そこは謁見前の導線が交差する場所で、貴族も侍従も女官も立ち止まる。
 つまり、噂の耳が最も集まる場所。

 誰かが何かを言えば、数分で王宮中へ広がる。
 アデラが“管理する空気”も、この場所から呼吸を始める。

 だからこそ、ここだ。

 アーヴィンは立ち止まり、ルシアンに目で合図した。
 ルシアンが侍従へ短く命じる。

「殿下の言葉を、ここで通す。集めろ」

 侍従たちは、驚きを隠しながらも従った。
 王太子の突然の“場”の設定は、異例だ。
 異例は、王宮にとって最上の餌になる。

 視線が集まる。

 グレイス侍従長が、静かに前へ出て礼を取った。
 白髪混じりの落ち着いた顔。
 礼節そのものが歩いているような男だ。

「殿下」

 グレイスの声は低く、余計な色がない。
 色がない声は、誰の味方にも聞こえる。
 だからこそ、場を支配する。

 その後ろに、作法講師セレナの姿が見えた。
 鋭い目。薄い笑み。
 彼女は“誰が泣いたか”ではなく、“どちらが礼に沿ったか”だけを見る。

 そして——
 数歩離れた柱の影、噂の管理者アデラが、扇を閉じたまま立っていた。
 目が笑っている。
 面白いものを待つ目だ。

 さらに、前室の入口から、黒髪を結い上げた伯爵令嬢が姿を見せる。
 ミレーユ。

 彼女は今日も、泣いた痕を上手に隠していた。
 隠しているのに、なぜか“守ってあげたい”印象だけが残る。
 王宮は、そういう空気を好む。

 ミレーユの背後には取り巻きのエステル。
 そして少し離れて、子爵令嬢ローラ。
 ローラは視線だけで状況を測り、既に“話の形”を作り始めている。

 ——舞台が整う。

 アーヴィンは一歩前に出た。
 その一歩で、ざわめきが死ぬ。

 王太子の一歩は、王宮の呼吸を止める。

「皆に伝える」

 声は大きくない。
 大きくなくても届く。
 それが王太子の声だ。

「近頃、礼節の線が曖昧になっている。……ここで、改めて明確にする」

 “線”。
 その単語だけで、誰かが息を呑んだ。

 アデラの扇が、ほんの少しだけ揺れる。
 面白くなってきた、と言わんばかりに。

 ミレーユの瞳が潤む。
 先に泣ける者は、場を味方につける。
 彼女はそれを知っているのか、知らずにやっているのか——
 どちらにせよ、結果は同じだ。

 アーヴィンは視線をミレーユへ向けない。
 向ければ、“個人の話”になる。
 これは個人の話ではない。
 ——国の礼の話だ。

「王太子妃リディアの席は、王宮の席だ。妃の名誉は国の名誉である」

 言葉が落ちる。
 床に落ちるのではなく、胸に落ちる。
 皆の胸に。

 “妃の名誉=国の名誉”

 それは正論だ。
 正論は反論を許さない。
 反論しようとする者が、礼を失う。

「よって、妃の席と名誉に触れる行いを、私は許さない。——許可なき接近は禁ず」

 空気が固まった。

 許可。
 接近。
 禁ず。

 強い。
 王太子が“禁止”を口にするのは、政務以外では稀だ。

 グレイスがすぐに追随するように、淡々と補足した。

「殿下への取り次ぎは、規定の手順で。女官長を通し、侍従長が席次と導線を確認いたします。私的呼称や、私的接触は“公の場”では不適切です」

 “手順”。
 その一語は、泣き芸を殺す。
 感情ではなく形式に落とすからだ。

 セレナが軽く頷き、冷ややかに言った。

「動機は関係ありません。形が王宮を守ります」

 動機は関係ない。
 つまり——
 “そんなつもりじゃなかった”は免罪符にならない。

 ミレーユの頬が赤くなった。
 羞恥か、悔しさか。
 そして彼女は、逃げ道としての涙を選ぶ。

「わたくし……そんなつもりでは……」

 声は震え、手袋の指先が胸元を押さえる。
 その仕草だけで、周囲の何人かが同情の息を吐いた。

 ローラが小さく囁く。

「まあ……妃殿下の座を狙っているのかしら……」
 囁きは毒だ。
 毒は甘く広がる。

 アデラの口元が、ほんの少し上がる。
 “妃の座を狙う伯爵令嬢”。
 王宮が好む物語だ。
 真実より、物語。

 アーヴィンはその空気の流れを、見逃さなかった。

 ——ここで甘やかせば、また同じだ。

 彼は声を下げた。
 下げるほど、重くなる。

「伯爵令嬢。ここは泣く場所ではない。——王宮の礼を学ぶ場所だ」

 ミレーユの涙が止まりかけ、また揺れた。
 “泣いても救われない”という事実が、初めて彼女の目に映る。

 周囲の同情が、じわりと引く。
 引く同情ほど、冷たい。

 しかし王宮は残酷で、まだ終わらない。

 その時、前室の奥——控室の方から、扉が静かに開いた。

 リディアが現れた。

 白いドレスはいつもと変わらない。
 背筋も変わらない。
 微笑みも変わらない。

 変わらないからこそ、分かる。
 彼女が“場”へ出ることに、どれほどの力を使っているか。

 ミナが半歩後ろに控え、ヘレナが視線で周囲を制していた。
 侍女たちは妃を支える。
 だが支えは見せない。
 見せれば“弱さ”として物語にされるから。

 リディアは、前室の空気を一度で把握した。
 王太子の宣言。集まる視線。ミレーユの涙。
 そして——夫が“守る言葉”を公にしたこと。

 リディアの胸は、温まらなかった。
 温まらないまま、静かに痛んだ。

 ——遅い。

 遅いからこそ、今この場で夫が勝っても、妻の心は戻らない。

 アーヴィンはリディアへ向き直り、言葉を選ぶ。
 選ぶ時間があるほど、言葉は嘘になる。
 だから短く言った。

「妃殿下。……今後、あなたの席を侵すものは許さない」

 守る宣言。
 正しい。
 正しいのに——それは“今まで守っていなかった”という告白でもある。

 リディアは微笑んだ。
 いつもの完璧な微笑み。
 完璧だからこそ、氷のように冷たい。

「承知いたしました、殿下」

 声は丁寧。
 礼も完璧。
 その完璧が、夫の胸に刺さる。

 ——許されたのではない。
 ——受け取られただけだ。

 リディアはミレーユへ視線を向けない。
 向ければ、争いになる。
 妃は争わない。
 妃は線を引くだけだ。

 グレイスが淡々と続ける。

「伯爵令嬢。規範の位置へ」

 ミレーユは一礼した。
 従う。従わざるを得ない。
 しかし目の奥に、まだ熱が残っている。
 引かない熱。
 それは恋か、虚栄か、憧れか。

「……失礼いたしました、妃殿下。学びますわ」

 学ぶ。
 その言葉は、今日の王宮では最も危うい。
 学ぶという形で、まだ居座れるからだ。

 アーヴィンは、前室の中心に立ったまま、妻の横顔を見る。
 彼女は崩れない。
 崩れないまま、遠い。

 “守った”のに届かない。
 届かないのは、守るのが遅いからだ。

 そして王宮の空気は、もう次の物語を欲しがっている。

 “妃の座を狙う伯爵令嬢”
 “強い妃”
 “やっと守った王太子”

 どの物語も、誰かを傷つける。

 リディアは一歩、妃の動線へ戻った。
 退室しない。
 消えない。
 ただ——殿下の隣へ“心”だけを置かない。

 その背中を見ながら、アーヴィンは初めて理解する。

 宣言は終わりではない。
 宣言は、始まりだ。

 ——この“線”を、毎日守り続けなければならない。
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