「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ

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第50章|謝罪未満

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 王太子妃の執務室は、朝の光が静かに差していた。
 磨かれた床に窓枠の影が落ち、紙の上には整った文字が並ぶ。
 静けさは、ここでは味方ではない。
 静けさは、感情を隠し、感情を逃がさない。

 リディアは机に向かい、羽根ペンを置いた。
 手袋越しに指先が冷たい。
 体調が万全ではない。
 それでも彼女の背筋は一本の線のように真っ直ぐだった。

 ――倒れた妃は“負けた物語”にされる。
 医師クラウスの声が、頭の片隅に残っている。

 負けない。
 負けないために、微笑む。
 微笑むために、心は閉じる。
 それが今のリディアの呼吸だった。

「妃殿下。伯爵令嬢ミレーユが“ご挨拶”を願い出ております」

 女官長リュクレースの声は丁寧で、しかし“許可の形”をしていた。
 妃の決定が先。
 それが今、王妃マルグリットの手で整えられた新しい秩序だ。

 リディアは一拍だけ置いた。
 その一拍で、胸の内側の温度を落とす。
 温度があると、言葉が揺れる。

「……通して」

 それだけ。
 拒まない。追わない。逃げない。
 ただ受ける。
 妃として、受ける。

 扉が開き、ミレーユが入ってきた。

 黒髪は丁寧に結い上げられ、淡い色のドレスは控えめに選ばれている。
 昨夜、涙で光っていた瞳は今日は乾いている。
 乾いているのに、頬は硬い。
 笑おうとして、笑えない顔。

 ミレーユは規範の位置で止まり、深く頭を下げた。

「お時間を頂戴し、ありがとうございます。妃殿下」

 声は震えていない。
 震えないように練習した声だ、とリディアはすぐに分かった。
 練習した声ほど、心を動かさない。

 リディアは椅子に座ったまま、視線だけを向ける。
 立たないのは傲慢ではない。
 妃の立場を守るためだ。
 守ることが、今は礼になる。

「ご用件は」

 言葉は短い。
 余白を作らない。
 余白は、噂が入り込む。

 ミレーユは喉を鳴らし、息を吸った。
 “謝罪”の形を組み立てるための呼吸。

「わたくし……これまでの無礼を、お詫びに参りました」

 ここまでは、正しい。
 正しいほど、無機質だ。

 リディアは頷きもしない。
 頷けば受け入れたように見える。
 受け入れれば、また“妃が悪かった”物語に変換される。

 ミレーユは続けた。

「わたくし、本当に……そんなつもりでは……」

 ――来た。
 リディアの胸の奥が、ほんの僅かに冷える。
 謝罪の中に混ざる“免責”。
 それは謝罪の毒だ。
 言った瞬間に、謝罪は謝罪ではなくなる。

「……殿下にご迷惑をかけてしまって……」

 迷惑。
 彼女の中心は、最後まで“殿下”にある。
 妃の席を踏んだのに、妃の名誉に向き合わない。

 リディアは微笑んだ。
 深い、深い微笑み。
 それは敵意ではない。
 ――“距離”だ。

「殿下に、ですか」

 声は柔らかい。
 柔らかいほど、刺さる。

 ミレーユの肩が僅かに揺れた。
 気づいたのだ。
 自分の言葉が、どこへ向いているか。

「いえ……妃殿下にも……」

 “にも”。
 その二文字が、謝罪を薄くする。
 妃は“ついで”ではない。

 リディアは机の上の書類に視線を落とし、また戻した。
 それだけで、部屋の空気が一段冷える。
 視線の動きが、答えになる。

「あなたは学びましたか」

 リディアは静かに問うた。

 ミレーユは一瞬、口を開けたまま止まった。
 学ぶ。
 昨夜、彼女自身が口にした言葉。
 『学びますわ』――引かないための言葉。

「……はい。学びました」

 そう言いながら、ミレーユの瞳が揺れる。
 揺れは、悔しさの揺れだ。
 自分が“負けた”ことを認めきれない揺れ。

「それなら、順序も学びなさい」

 リディアの声は淡い。
 淡いのに、逃げ道がない。

「謝罪は、相手に向けるものです。
 殿下に向ける言葉を先に置いた時点で――あなたの謝罪は、あなた自身を守る言葉になります」

 ミレーユの頬が赤くなる。
 羞恥か、怒りか。
 そしてその赤さが、彼女をまた“被害者の形”に誘う。

「わたくしだって……怖かったのです。王宮は……」

 出た。
 怖かった。
 それは真実かもしれない。
 けれど真実でも、免罪符にはならない。

 リディアは、微笑みを崩さない。
 崩さないのは残酷だからではない。
 崩せないからだ。
 崩した瞬間、心が戻ってしまう。
 戻ってしまえば、また折れる。

「怖かったのですね」

 同情するように聞こえる。
 だが同情ではない。
 ただ、事実を受け取っただけ。

「なら、なおさら。
 人の席を奪うことが、どれほど怖いことか――想像できたはずです」

 ミレーユは唇を震わせた。
 言い返したい。
 でも言い返せば、謝罪が壊れる。

 壊れかけた謝罪を、彼女は必死に持ち直そうとする。

「……わたくしは、殿下を、慕っていただけで……」

 慕う。
 その言葉の甘さが、妃の部屋では不釣り合いだった。
 甘さは、現実を溶かさない。
 現実は溶けない。

 リディアは一拍置いてから、言った。

「慕うことと、越えることは別です」

 短い。
 短いほど、重い。

「あなたは越えました。
 そして殿下は――止めるのが遅かった」

 ミレーユの瞳が跳ねる。
 “殿下の落ち度”が出てくるとは思わなかったのだろう。

 リディアは続ける。

「だから、あなたは乗りました」
「情けない一言が、あなたを増長させました」

 言葉は穏やか。
 だが内容は、容赦がない。
 誰も口にしない真実を、妃が“礼節の形”で言っている。

 ミレーユは息を呑み、すぐに言い訳を探す。
 言い訳を探すその瞬間が、もう答えだった。

「……わたくし、増長など……そんな……」

 そんな、の後に続く言葉が見える。
 “殿下が優しかったから”。
 “誰も止めなかったから”。
 “妃殿下が厳しかったから”。

 リディアは、それを言わせない。

「ここで終わりにしましょう」

 柔らかい終止符。
 反論も、謝罪も、救いも受け取らない終止符。

「あなたの縁談が決まったと聞きました。
 地方で、必要とされる場所があるのなら――そこへ行ってください」

 必要とされる。
 その言い方は、唯一の慈悲だった。
 妃として、上からの慈悲。
 それ以上でも以下でもない。

 ミレーユは、唇を噛んだ。
 涙が浮かびかける。
 しかし泣けばまた“被害者の形”になる。
 王宮で最後に残せる形は、泣き顔ではない。

 彼女は、深く頭を下げた。

「……妃殿下。
 ご迷惑を……おかけしました」

 最後まで、“迷惑”。
 謝罪が謝罪になりきらない。
 だからこの章の題は、これでいい。

 リディアは微笑んだまま、頷きもしない。

「どうぞ、お気をつけて」

 それは別れの言葉ではない。
 許しの言葉でもない。
 ただの儀礼だ。
 儀礼は人を救わない。
 けれど儀礼は、人を終わらせる。

 ミレーユが去り、扉が閉まる。

 部屋の静けさが戻る。
 戻った静けさは、少しだけ違っていた。
 ひとつの物語が、終わった静けさ。

 リディアは胸に手を当てた。
 苦しい。
 それでも涙は出ない。
 涙を出さないことが、彼女の勝ち方になってしまった。

 窓の外の光が、また白くなる。
 王宮は今日も変わらない顔をしている。
 変わらない顔のまま、変わっていく。

 次に変わるのは――
 ミレーユではない。

 殿下だ。
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