婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

文字の大きさ
37 / 50

第37章|触れた代償

しおりを挟む
 回廊を抜けた瞬間、冷たい空気が肺の奥まで刺さった。

 松明の匂い。石の湿り気。血の鉄臭さ。
 その全部が混ざり、セシリアの胃の奥を揺らす。

 影の男たちが拘束され、近衛が走り、ガイルが指示を飛ばす。
 王宮の“機能”が、瞬時に回り出す音。

 その喧騒の中心で、セシリアだけが取り残されていた。

 足が重い。
 薬の甘い匂いがまだ鼻の奥に残り、頭がぼうっとする。
 怖いのに、泣けない。
 泣いたら、また“弱い人”に戻る気がしたから。

 ――でも、さっき、泣いた。

 知らない背中を見て、涙が落ちた。

 その事実が、恥ずかしくて、怖い。

 レイヴンはセシリアから視線を逸らしたまま、ガイルに命じた。

「安全区域へ。今すぐだ」

 安全区域。
 その言葉は、檻の別名に聞こえる。

 セシリアの胸が、ずきんと痛んだ。

(また閉じ込められる)

 守るため。
 でも守られるほど孤独になる。

 セシリアがふらついた瞬間、アデルが反射で一歩前に出た。
 支えようとした。
 ――けれど、レイヴンの声が鋭く落ちる。

「触れるな」

 空気が凍る。

 アデルの足が止まる。
 ガイルの眉が僅かに動く。
 近衛たちが互いの視線を避ける。

 セシリアの胸がぎゅっと潰れた。

(……また、この言葉)

 守りの言葉の形をした、独占の刃。
 その刃はセシリアの心を切るのに、なぜかセシリアは「嫌いだ」と言い切れない。

 ――さっきの背中が、脳裏から消えないから。

 レイヴンは一歩近づいた。

 近づくほど、セシリアの胸が痛む。
 痛いのに、目を逸らせない。

「歩けるか」

 低い声。
 命令ではない。
 確かめる声。

 セシリアは頷こうとして、視界が揺れた。
 薬と恐怖と、胸の痛みが混ざって、足元が遠い。

「……わ、たし……」

 声が掠れ、言葉にならない。

 その瞬間、レイヴンが舌打ちを飲み込み、――決断した。

 彼はセシリアの身体を抱き上げた。

 背と膝裏を同時に支えられる感覚。
 硬い軍装の布。金糸の刺繍。
 そして、あの匂い。

 鉄と革と香木。

 セシリアの胸が、強く鳴った。

(……触れた)

 触れた瞬間、世界が一段近づく。
 怖い。
 でも、身体が“安心”と判断してしまうのが怖い。

 レイヴンの腕は強い。
 落とさない強さ。
 でも、その強さの奥に、震えがある。

 セシリアはそれに気づいてしまった。

(……殿下、震えてる)

 なぜ。
 敵を斬ったから?
 怒りが残っているから?
 それとも――

 答えを探した瞬間、頭の奥で何かが弾けた。

 ぱちん、と。

 耳鳴りが走り、視界が白くなる。

「……っ」

 声にならない悲鳴が喉を詰まらせた。

 胸の奥が熱い。
 熱いのに、冷たい。
 心臓が掴まれる。肺が潰れる。

 レイヴンの腕の中で、セシリアの身体が強張った。

「……セシリア?」

 初めて、名前が呼ばれた気がした。
 でも声が遠い。
 水の底から聞こえるみたいに。

 セシリアの視界の端に、白い花が散った。

 花びら。
 白い星。
 中庭の匂い。

 次に、幼い手が見える。
 机を叩く指。
 トン、トン。

 返事。
 トン、トン、トン。

 そして、短い旋律。

 あの旋律が、胸の奥で鳴る。
 音が、鍵穴に刺さる。

(……やめて)

 思い出したくない。
 でも思い出したい。

 矛盾が、身体を裂く。

 セシリアの呼吸が乱れ、喉が痙攣した。

「……っ、は……っ」

 息が入らない。
 苦しい。
 胸が焼ける。

 レイヴンが立ち止まる。

 ガイルが近づこうとして、レイヴンが低く命じた。

「近づくな」

 誰にも触れさせない声。
 レイヴンの腕が、さらに強くセシリアを抱き直す。

「……発作だ」

 レイヴンの声が、僅かに揺れた。

 揺れは恐怖の揺れだ。
 王太子が、こんな揺れを持つのは異常だ。

 セシリアの頭が割れるように痛い。
 視界が歪む。
 耳鳴りが止まらない。

 その苦しさの中で、セシリアは思った。

(……この人の腕が、私を知ってる)

 身体が反応する。
 怖いのに、安心する。
 思い出せないのに、懐かしい。

 その矛盾が、発作をさらに加速させた。

 セシリアの背中が反り、喉がひゅっと鳴った。
 涙が勝手に滲む。

 レイヴンの顔色が変わった。

 琥珀の瞳が一瞬で青ざめ、歯を食いしばる。

(……揺れた)

 彼は確信する。

 ――封印が揺れた。

 揺れたのは、敵の手ではない。
 セシリアの“記憶”が、触れたからだ。

 抱き上げた瞬間。
 触れた瞬間。
 彼女の中の鍵が、反応した。

 レイヴンは喉の奥で呻くように言った。

「……くそ……」

 それは怒りではない。
 自分への罵倒だ。

 彼は走り出した。

 抱えたまま、回廊を抜ける。
 近衛が道を開ける。
 ガイルが叫ぶ。

「医官を! 医務室へ!」

 セシリアの視界は途切れ途切れだ。

 石壁。灯り。影。
 揺れる天井。
 誰かの声。
 誰かの靴音。

 でも、その全部の中で、ひとつだけはっきり感じる。

 レイヴンの腕の強さ。
 落とさない強さ。
 壊れないように抱える強さ。

 そして――震え。

 セシリアは、薄れていく意識の中で思った。

(……殿下は、私を怖がってる)

 違う。
 守れないことを怖がってる。
 思い出させてしまうことを怖がってる。

 医務室の扉が開く。

「ベッドへ!」

 医官ユーリの声。

 セシリアは抱えられたままベッドに下ろされた。
 レイヴンの腕が離れる瞬間、胸がひどく痛んだ。

(離れないで)

 言えない。
 言ったら、もっと危険になる。

 ユーリが脈を取り、瞳孔を確認し、薬草の匂いが濃くなる。
 セシリアの呼吸が少しずつ戻ってくる。

 その傍らで、レイヴンは立ち尽くしていた。

 剣は鞘に収まっている。
 でも彼の中は収まっていない。

 琥珀の瞳は、恐怖で暗い。

 医官ユーリが低く言った。

「……やはり。記憶への接触で誘発されます。殿下、彼女に“刺激”を――」

「分かっている」

 レイヴンの声が切れる。

 分かっている。
 分かっているから、婚約破棄をした。
 分かっているから、忘れさせた。
分かっているから、触れないようにしてきた。

 なのに今日は、抱き上げた。

 抱き上げなければ、彼女は連れ去られていた。
 抱き上げたから、封印が揺れた。

 どちらに転んでも、地獄だ。

 レイヴンは、拳を握り潰すように握った。
 指の関節が白い。

 セシリアは薄く目を開けた。

 霞む視界の向こうに、レイヴンが見える。
 冷たい王太子の仮面ではない。
 ひどく疲れた男の顔。

 セシリアは息を吸い、震える声で言った。

「……殿下……」

 レイヴンの瞳が揺れた。
 すぐに逸らす。
 逸らして、命令の声に戻す。

「しゃべるな」

 でも声が、優しい。
 優しいのに、拒む。

 セシリアの目から、涙が一滴落ちた。

 触れた代償。
 それは発作だけではない。

 触れたことで、セシリアの胸の奥の鍵が回り始めた。
 そしてレイヴンの恐怖も、もう誤魔化せないほど濃くなった。

 ――封印が揺れた。


 医務室の扉が閉まった瞬間、アデルはようやく息を吐いた。

 廊下の灯りが薄く揺れ、薬草の匂いが隙間から漏れてくる。中から聞こえるのは、医官の短い指示と、布の擦れる音――生きている音だ。

 安堵より先に、悔しさが喉を焼いた。

 支えたかった。倒れないように、ただ腕を伸ばしたかった。
 けれど「触れるな」で足が止まった。殿下の声が、規律ではなく“恐怖”で震えていたのを、アデルは聞いてしまった。

(……触れた瞬間に発作。やはり“鍵”だ)

 拳を握りしめる。包帯の下の傷がずきりと痛む。だが痛みは今、どうでもよかった。

 扉の前に立ったまま、アデルは祈るように目を閉じた。

 ――守りたい。
 でも守り方を間違えれば、彼女を殺す。

 遠くで近衛が動き、ガイルが低く命令を飛ばす声がした。影の実働は拘束された。だが“命令した者”は、まだ闇の中にいる。

 アデルは扉の前から動かず、ただ決めた。

(次は、火を消すんじゃない。火元を潰す)

 そして、扉の向こうの沈黙に耳を澄ませながら、もう一つの事実も噛みしめた。

 殿下は――彼女を抱き上げるしかなかった。
 あの腕が震えていたのは、嫉妬ではなく、失う恐怖だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

一年だけの夫婦でも私は幸せでした。

クロユキ
恋愛
騎士のブライドと結婚をしたフローズンは夫がまだ婚約者だった姉を今でも想っている事を知っていた。 フローズンとブライドは政略結婚で結婚式当日にブライドの婚約者だった姉が姿を消してしまった。 フローズンは姉が戻るまでの一年の夫婦の生活が始まった。 更新が不定期です。誤字脱字がありますが宜しくお願いします。

記憶喪失の婚約者は私を侍女だと思ってる

きまま
恋愛
王家に仕える名門ラングフォード家の令嬢セレナは王太子サフィルと婚約を結んだばかりだった。 穏やかで優しい彼との未来を疑いもしなかった。 ——あの日までは。 突如として王都を揺るがした 「王太子サフィル、重傷」の報せ。 駆けつけた医務室でセレナを待っていたのは、彼女を“知らない”婚約者の姿だった。

素敵な人が私の婚約者ですか?すみません、他に好きな人がいる婚約者様とは将来を約束出来ませんので婚約破棄をお願いします。

クロユキ
恋愛
「あの…貴方は誰ですか?」 森の中で倒れていた私は婚約者のアレン様を私は覚えていません、記憶喪失だそうです。彼には別に好きな人がいたようなのです。私、マリーナ・クレールは婚約破棄をしました。 彼の事は覚えていませんので私の事は気にしないで下さい。 誤字脱字があります。更新が不定期ですがよろしくお願いします。

『「君は飾りだ」と言われた公爵令嬢、契約通りに王太子を廃嫡へ導きました』

ふわふわ
恋愛
「君は優秀だが、王妃としては冷たい。正直に言えば――飾りとしては十分だった」 そう言って婚約者である王太子に公然と切り捨てられた、公爵令嬢アデルフィーナ。 さらに王太子は宣言する。 「王家は外部信用に頼らない」「王家が条文だ」と。 履行履歴も整えず、契約も軽視し、 新たな婚約者と共に“強い王家”を演出する王太子。 ――ですが。 契約は宣言では動きません。 信用は履歴の上にしか立ちません。 王命が止まり、出荷が止まり、資材が止まり、 やがて止まったのは王太子の未来でした。 自ら押した承認印が、 自らの継承権を奪うことになるとも知らずに。 公然侮辱から始まる、徹底的な強ザマァ。 救済なし。 やり直しなし。 契約通りに処理しただけですのに―― なぜか王太子が廃嫡されました。

百日紅の咲く場所で、あの日私達は死んだ

ミカン♬
恋愛
十八歳を迎えた双子の姉妹が、裏切りによる絶望と復讐への決意を交錯させる物語です。 かつて、婚約者が庶子の妹を選んだことで、誇りを踏みにじられた姉のアナイスは、思い出の詰まった温室を心を閉ざすための美しい牢獄として引きこもる道を選びました。 一方で妹のラリッサは、姉の幸福を奪った者たちを破滅させるための苛烈な報復を誓い、二人の運命は静止と激動という対照的な方向へと動き出します。 誰も幸福にならない復讐劇です。 かるーく、暇つぶしに読んで頂ければ嬉しいです。 誤字報告ありがとうございました! 訂正しました。 なろう様にも投稿。

氷の王妃は跪かない ―褥(しとね)を拒んだ私への、それは復讐ですか?―

柴田はつみ
恋愛
亡国との同盟の証として、大国ターナルの若き王――ギルベルトに嫁いだエルフレイデ。 しかし、結婚初夜に彼女を待っていたのは、氷の刃のように冷たい拒絶だった。 「お前を抱くことはない。この国に、お前の居場所はないと思え」 屈辱に震えながらも、エルフレイデは亡き母の教え―― 「己の誇り(たましい)を決して売ってはならない」――を胸に刻み、静かに、しかし凛として言い返す。 「承知いたしました。ならば私も誓いましょう。生涯、あなたと褥を共にすることはございません」 愛なき結婚、冷遇される王妃。 それでも彼女は、逃げも嘆きもせず、王妃としての務めを完璧に果たすことで、己の価値を証明しようとする。 ――孤独な戦いが、今、始まろうとしていた。

記憶を失くした悪役令嬢~私に婚約者なんておりましたでしょうか~

Blue
恋愛
マッツォレーラ侯爵の娘、エレオノーラ・マッツォレーラは、第一王子の婚約者。しかし、その婚約者を奪った男爵令嬢を助けようとして今正に、階段から二人まとめて落ちようとしていた。 走馬灯のように、第一王子との思い出を思い出す彼女は、強い衝撃と共に意識を失ったのだった。

記憶が戻ったのは婚約が解消された後でした。

しゃーりん
恋愛
王太子殿下と婚約している公爵令嬢ダイアナは目を覚ますと自分がどこにいるのかわからなかった。 眠る前と部屋の雰囲気が違ったからだ。 侍女とも話が噛み合わず、どうやら丸一年間の記憶がダイアナにはなかった。 ダイアナが記憶にないその一年の間に、王太子殿下との婚約は解消されており、別の男性と先日婚約したばかりだった。 彼が好きになったのは記憶のないダイアナであるため、ダイアナは婚約を解消しようとするお話です。

処理中です...