38 / 50
第38章|告白未遂
しおりを挟む医務室の灯りは、夜でも優しかった。
蝋燭の火は揺れているのに、影が鋭くならない。
薬草の匂いが空気を丸くし、布の擦れる音が「ここは安全だ」と囁いているように聞こえる。
けれどセシリアの胸の奥だけは、まだ痛かった。
発作が引いた後の身体は重い。
手足は鉛みたいで、指先は冷たい。
それでも意識は冴えてしまう。
――あの背中を見たからだ。
王太子レイヴンの背中。
剣を抜き、影を斬り、命令の声で場を支配しながら、どこか孤独だった背中。
知らないはずなのに、涙が出た背中。
セシリアはベッドの上で膝を抱え、名札に指を触れた。
金属の冷たさ。
その冷たさが今は、現実の鎖ではなく、現実の証拠に感じられる。
(……私は、狙われている)
それはもう疑いではない。
拉致されかけた。
毒で眠らされかけた。
命令された実働の手が伸びてきた。
そして、王太子が来た。
(……どうして、殿下が)
守るため?
でも守るなら、なぜ「目障りだ」と言うの?
なぜ「触れるな」と言うの?
胸の痛みが、言葉にならないまま溜まっていく。
医官ユーリが薬瓶を置きながら言った。
「今夜は安静に。刺激は避けてください。――特に、強い感情に触れること」
強い感情。
その言葉に、セシリアの喉がひりつく。
強い感情に触れたら発動する。
思い出す=発動。
それが本当なら――
(私は、殿下の前で何かを思い出しそうになっている)
怖い。
でも、知りたい。
扉が開き、空気が一段変わった。
重い気配。
近衛が一歩引く気配。
部屋の中の温度が、ほんの少し下がる気配。
レイヴンが入ってきた。
漆黒の髪。琥珀の瞳。
軍装のまま。外套の裾に、まだ夜の冷気が残っている。
彼は医官ユーリを見て、短く言った。
「下がれ」
ユーリが一瞬だけ迷い、王妃エリシアへ視線を向けた。
王妃は静かに頷く。
「……殿下、彼女はまだ――」
「下がれ」
二度目の命令。
ユーリは深く頭を下げ、静かに退室した。
扉が閉まる。
室内には、セシリアとレイヴン、そして王妃だけが残った。
王妃はレイヴンを見て、声を柔らかくする。
「レイヴン。声を荒げないで。今、彼女は不安定よ」
レイヴンは答えない。
答えられないように見えた。
彼の指先が、右鎖骨のあたりに触れそうになって止まる。
癖を抑え込む。感情を抑え込む。
セシリアはベッドの上で、息を止めていた。
彼が近い。
近いほど胸が痛む。
痛むほど、何かを思い出しそうになる。
(……怖い)
でも、逃げない。
もう逃げないと決めた。
空白から逃げたら、また狙われるだけだ。
そして何より、彼の背中を見た今――知らないふりができない。
王妃が小さく息を吐き、言った。
「セシリアが狙われた。殿下が剣を抜いた。封印が揺れた。
……ここまで起きて、まだ“黙れ”で守れると思うの?」
レイヴンの喉が僅かに動く。
王妃は続ける。
「彼女は知りたがっている。
思い出したいと言っている。
――あなたは、彼女の心を殺してまで守るのね?」
その言葉が、レイヴンの仮面を削った。
琥珀の瞳が、一瞬だけ壊れそうになる。
でも彼は視線を逸らし、冷たい声を作る。
「……生きる方が大事だ」
正しい。
正しいのに、痛い。
セシリアは震える声で言った。
「……殿下。私は、死にたくない」
言った瞬間、レイヴンの瞳が揺れた。
セシリアは続けた。
「でも……生きているだけで、何も知らないまま閉じ込められるのも……怖い」
喉が熱い。
涙が溜まる。
でも、言う。
「どうして私が狙われるのか。
どうして殿下が、私を遠ざけるのか。
どうして……私の胸が、殿下の前で痛むのか」
その最後の言葉で、レイヴンの顔色が変わった。
青ざめる。
恐怖が表に出る。
彼は一歩、後退しそうになって踏みとどまる。
踏みとどまるのは王太子の意地ではない。
彼女から離れられない男の意地だ。
レイヴンは低く言った。
「……痛むなら、俺から離れろ」
セシリアの胸が潰れる。
「……それができないから、苦しいんです」
答えた瞬間、自分でも驚いた。
それは告白に似ている。
思い出せないのに、言ってしまう。
王妃が小さく目を閉じた。
母親の顔で、痛みを噛みしめる顔。
レイヴンは拳を握りしめ、絞り出すように言った。
「……婚約破棄は」
その言葉が出た瞬間、室内の空気が止まった。
セシリアの心臓が跳ねる。
喉が詰まる。
これが真実だ。
ずっと欲しかった答え。
レイヴンは続けようとして――止まった。
言葉が喉の奥で詰まる。
唇が震える。
目が揺れる。
「婚約破棄は――」
もう一度。
今度は、ひどく小さな声。
セシリアは息をするのを忘れた。
目を逸らせない。
レイヴンの視線が、セシリアの胸元の名札へ落ちる。
侍女の名。
彼が奪った未来の代わりの名。
その視線のせいで、セシリアの胸が痛んだ。
痛みが熱になる。
熱が、頭の奥へ走る。
(……思い出しそう)
怖い。
でも、見ていたい。
レイヴンが突然、顔を背けた。
まるで、言えば彼女が壊れると確信したように。
「……だめだ」
たった三音。
でも、今度の「だめだ」は命令ではなく、懇願だった。
セシリアの涙が落ちた。
「……なら、なぜ」
声が震える。
問いが、ようやく形になる。
「なぜ、私を捨てたの。
なぜ、目障りだなんて言ったの。
なぜ、抱き上げたのに触れるなと言うの。
なぜ……扉の外で、あんな声で――」
言いかけて、喉が詰まる。
夜の声を思い出すだけで、胸が痛い。
レイヴンの顔が歪んだ。
痛み。
自分を裂く痛み。
王妃が静かに言う。
「レイヴン。言いなさい。
全部ではなくていい。彼女が“生きるための最低限”を」
レイヴンは歯を食いしばり、声を落とした。
「……お前は」
指先が震える。
右鎖骨に触れそうになって、止める。
感情の癖を抑え込む。
「お前は、思い出したら……狼が来る」
狼。
エマの言葉。
周辺記録の一文。
ロザの暗い目。
セシリアは息を呑んだ。
「狼……?」
レイヴンは頷かない。
頷けば確定してしまう。
確定した瞬間、彼女は怖くなる。
それでも絞り出す。
「婚約破棄は――お前を狼から切り離すためだった」
言った瞬間、レイヴンの顔色がさらに悪くなった。
これ以上言えば、封印が揺れる。
記憶が触れる。
彼女が発動する。
レイヴンは、言いかけた言葉を飲み込んだ。
「……それ以上は、言えない」
セシリアの涙が止まらない。
「じゃあ私は、ずっと何も知らないまま……」
言い終える前に、レイヴンが低く言った。
「生きろ」
命令の形。
でも、泣きそうな声。
王妃がそっと口を挟む。
「生きるために、知ることが必要な時もあるわ。
レイヴン、あなたは“守る”ことで彼女の心を削っている」
レイヴンの瞳が揺れた。
彼はセシリアを見た。
琥珀の瞳が、壊れそうに濁る。
そして、ひどく小さく言った。
「……俺は、お前を守れなかったら死ぬ」
セシリアの呼吸が止まった。
それは告白だ。
でも、告白の形をしていない。
弱音の形をしている。
レイヴンはすぐに顔を背けた。
言ってしまったことを取り消したいように。
でも取り消せない。
セシリアは涙で視界が滲む中、震える声で言った。
「……私は、死にません。
でも……空白のままじゃ、私は私でいられない」
それが、セシリアの答えだった。
告白は未遂に終わった。
真実も途中で途切れた。
けれど――扉はもう、少し開いてしまった。
狼。
封印。
守るための婚約破棄。
その欠片が落ちたことで、セシリアはもう引けない。
レイヴンも、もう戻れない。
次に動くのは、真実を掴もうとしているアデルと密偵。
そして、焦る偽聖女たち。
王宮の火は、消えたふりをやめて――
次の燃え方へ、確実に移っていった。
69
あなたにおすすめの小説
婚約破棄された公爵令嬢ですが、戻らなかっただけです
鷹 綾
恋愛
王太子カイル殿下から、社交界の場で婚約破棄を言い渡された公爵令嬢リュシエンヌ。
理由は――
「王太子妃には華が必要だから」。
新たに選ばれたのは、愛らしく無邪気な義妹セシリア。
誰もが思った。
傷ついた令嬢は泣き、縋り、やがて戻るのだと。
けれどリュシエンヌは、ただ一言だけ告げる。
「戻りません」
彼女は怒らない。
争わない。
復讐もしない。
ただ――王家を支えるのをやめただけ。
流通は滞り、商会は様子を見始め、焦った王太子は失点を重ねる。
さらに義妹の軽率な一言が決定打となり、王太子妃候補の座は静かに消えた。
強いざまあとは、叫ぶことではない。
自らの選択で、自らの立場を削らせること。
そして彼女は最後まで戻らない。
支えない。
奪わない。
――選ばれなかったのではない。
彼女が、選ばなかったのだ。
これは、沈黙で勝つ公爵令嬢の物語。
素敵な人が私の婚約者ですか?すみません、他に好きな人がいる婚約者様とは将来を約束出来ませんので婚約破棄をお願いします。
クロユキ
恋愛
「あの…貴方は誰ですか?」
森の中で倒れていた私は婚約者のアレン様を私は覚えていません、記憶喪失だそうです。彼には別に好きな人がいたようなのです。私、マリーナ・クレールは婚約破棄をしました。
彼の事は覚えていませんので私の事は気にしないで下さい。
誤字脱字があります。更新が不定期ですがよろしくお願いします。
『「君は飾りだ」と言われた公爵令嬢、契約通りに王太子を廃嫡へ導きました』
ふわふわ
恋愛
「君は優秀だが、王妃としては冷たい。正直に言えば――飾りとしては十分だった」
そう言って婚約者である王太子に公然と切り捨てられた、公爵令嬢アデルフィーナ。
さらに王太子は宣言する。
「王家は外部信用に頼らない」「王家が条文だ」と。
履行履歴も整えず、契約も軽視し、
新たな婚約者と共に“強い王家”を演出する王太子。
――ですが。
契約は宣言では動きません。
信用は履歴の上にしか立ちません。
王命が止まり、出荷が止まり、資材が止まり、
やがて止まったのは王太子の未来でした。
自ら押した承認印が、
自らの継承権を奪うことになるとも知らずに。
公然侮辱から始まる、徹底的な強ザマァ。
救済なし。
やり直しなし。
契約通りに処理しただけですのに――
なぜか王太子が廃嫡されました。
〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)
百日紅の咲く場所で、あの日私達は死んだ
ミカン♬
恋愛
十八歳を迎えた双子の姉妹が、裏切りによる絶望と復讐への決意を交錯させる物語です。
かつて、婚約者が庶子の妹を選んだことで、誇りを踏みにじられた姉のアナイスは、思い出の詰まった温室を心を閉ざすための美しい牢獄として引きこもる道を選びました。
一方で妹のラリッサは、姉の幸福を奪った者たちを破滅させるための苛烈な報復を誓い、二人の運命は静止と激動という対照的な方向へと動き出します。
誰も幸福にならない復讐劇です。
かるーく、暇つぶしに読んで頂ければ嬉しいです。
誤字報告ありがとうございました!
訂正しました。
なろう様にも投稿。
身代わりの恋だと思っていました〜記憶を失った私に、元婚約者が泣いて縋る理由〜
恋せよ恋
恋愛
「君を愛している。一目惚れだったんだ」
18歳の伯爵令嬢エリカは、9歳年上のリヒャルト伯爵から
情熱的な求婚を受け、幸せの絶頂にいた。
しかし、親族顔合わせの席で運命が狂い出す。
彼の視線の先にいたのは、エリカの伯母であり、
彼の学生時代の恋人で「初めての女性」だった……ミレイユ。
「あの子は私の身代わりでしょう」「私はあなただけなの」
伯母ミレイユの甘い誘惑と、裏切りの密会。
衝撃の事実を目撃したエリカは、階段から転落し、
彼と過ごした愛しくも残酷な二年間の記憶だけを失ってしまう。
「……あの、どちら様でしょうか?」
無垢な瞳で問いかけるエリカに、絶望し泣き崩れるリヒャルト。
裏切った男と、略奪を企てた伯母。
二人に待ち受けるのは、甘い報復と取り返しのつかない後悔だった。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
六歳下の幼馴染に溺れた夫。白い結婚を理由に離縁を申し立てたら、義弟(溺愛)に全力で求婚されました
恋せよ恋
恋愛
夫が愛でるのは、守ってあげたくなるような「可憐な少女」。
夫が疎むのは、正論で自分を追い詰める「完璧な妻」。
「シンシア、君はしっかりしているから、大丈夫だろう?」
六歳年下の幼馴染ジェニファー子爵令嬢を気遣う貴方。
私たちは、新婚初夜さえ済ませていないのよ?
完璧な家政、完璧な社交。私が支えてきたこの家から、
ニコラス、貴方って私がいなくなったらどうなるか……。
考えたこともないのかしら?
義弟シモンは、学生時代の先輩でもあるシンシアを慕い
兄ニコラスの態度と、幼馴染ジェニファーを嫌悪する。
泣いて縋るあざとい少女と、救世主気取りの愚かな夫。
そして、義姉であるシンシアを慕うシモン。
これは、誇り高き伯爵夫人、シンシアの物語である。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
七年目の裏切り 〜赴任先の夫から届く愛の手紙は、愛人の代筆でした〜
恋せよ恋
恋愛
「君は僕の最愛だ。もう二度と、君を危険に晒したくない」
命懸けの出産後、涙を流して私を抱きしめた夫ジュリアン。
その言葉通り、彼は「私を大切にするため」に夜の営みを断った。
私は、女としての寂しさを「愛されている誇り」に変え、
隣国へ赴任した夫を信じて二人の子供と家を守り続けていた。
毎週届く、情熱的な愛の手紙。タイプライターで綴られた
その愛の言葉を、私は宝物のように抱きしめていた。
……しかし、その手紙は「裏切り」だった。
夫が異国の地で、愛人と肌を重ねながら綴らせていた「偽りの愛」。
身分を隠して夫の赴任先の隣国へと向かった私が見たのは……。
果たして、貞淑な妻・メラニアが選んだ結論は……。
子供たちのため結婚生活の継続か、それとも……。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる