婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第39章|証拠の確保

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 真実は、血より静かに人を救う。

 剣は敵を斬れる。
 盾は身体を守れる。
 けれど王宮で一番人を殺すのは、噂と記録だ。
 ならば救うのも、記録しかない。

 アデルは夜明け前の詰所で外套を羽織り、腰の剣を確かめた。
 肩の包帯はまだ重い。脇腹の切り傷が引きつる。
 だが痛みより、胸の奥の焦りの方が大きい。

 ――狼が来る。

 レイヴンが口にした言葉。
 エマの古文書。
 ロザの合図の旋律。

 そして昨夜、セシリアは実際に狙われた。
 “事故”ではない。
 “実働”が来た。

(次は本気だ)

 だからこそ、今必要なのは“力”ではなく“証拠”だ。
 誰が命じ、誰が金を動かし、誰が祈祷を改竄し、誰が写し絵を作ったのか。

 それを突きつければ、王宮は動かざるを得ない。
 少なくとも、セシリアを“噂の悪役”として燃やすことはできなくなる。

 扉が開き、シュナイダーが入ってきた。

 影のような男。
 眠っていない目。
 紙と蝋の匂いを纏った男。

「準備は」

 アデルは頷いた。

「行く」

 シュナイダーは机の上に小さな袋を置いた。
 中には黒い粉。封蝋。細い針。
 盗賊の道具ではない。王宮の“静かな戦い”の道具。

「今夜は二つ取る」シュナイダーが言う。「慈善金の帳簿と、祈祷改竄の記録」

 アデルは息を吸った。

 慈善金。
 リディアの“光”を作った金。
 祈祷改竄。
 封印に触れる場所を歪めた手。

「どこにある」

「一つは教会側の倉。もう一つは王宮内の祈祷室付属の記録棚」
 シュナイダーの声は淡々としている。
 淡々としているほど、危険が見える。

 そこへ、詰所の扉がノックされた。

「失礼。副隊長セドリックです」

 入ってきたのはセドリックだった。
 現場主義の男。短髪。鋭い目。
 礼儀はあるが、遠回しな言い方はしない。

「訓練場の矢の件、こちらで再現してみた」
 セドリックは机に紙を置く。「風で流れる角度じゃない。狙いを外して“事故”に見せる軌道だ」

 アデルの胸が熱くなる。

「やはり……」

 セドリックはシュナイダーへ目を向けた。

「密偵殿。動くなら俺も噛む。現場の“事故”は嫌いだ。死人が出る前に潰す」

 シュナイダーは小さく頷いた。

「使える」

 短い評価。
 それだけで十分だった。

 セドリックが続ける。

「俺ができるのは、騎士団側の記録を固めることだ。
 訓練記録、弓兵の配置、当番表。
 そして……写し絵の撮影許可の有無」

 写し絵。

 あの紙片。
 “見える嘘”。

 アデルが言う。

「写し絵は宮廷魔術部の“光写し”だと聞いた。刻印がある」

 セドリックの眉がわずかに動く。

「なら魔術部が噛んでる。……魔術師長オスカーか」

 名前が出た瞬間、空気が冷えた。

 シュナイダーが言う。

「今夜の目的は、オスカーに直接触れることではない。
 周辺を固める。金と祈祷。
 王宮と教会の“繋ぎ”を証拠にする」

 アデルは頷く。

 繋ぎ。
 そこが切れれば、狼は牙を剥きにくくなる。



 夜。
 王宮の灯りが落ち、影が増える時間。

 シュナイダーとアデルは、教会の倉へ向かった。
 表の入口ではなく、裏の搬入口。
 木箱が積まれ、蝋燭の煤で壁が黒い。

 シュナイダーが鍵穴に針を差し込み、音もなく回す。

 カチリ。
 扉が開いた。

 中は冷たい。
 紙と布と金属の匂い。
 慈善用の布袋が積まれ、食料の箱が並ぶ。
 ――善意の倉庫に、金の匂いが混ざっている。

「右の棚」シュナイダーが囁く。

 棚の奥に、革装丁の帳簿があった。
 表紙に教会の印。
 だが、角に薄い別の封蝋の跡がある。

 シュナイダーが帳簿を開く。
 ページの数字。金額。受領印。
 そして、余白に小さく書かれた名前。

 リディア・ルミナス。

 さらに、別の欄に――“支出先”。

 《光写し具材/宮廷魔術部》

 アデルの背筋が凍った。

(繋がった)

 慈善金が、写し絵に流れている。
 善意の金で、噂の刃を作った。

 シュナイダーはそのページを剥がさず、薄い紙を当てて写し取る。
 封蝋の形も、筆跡も、数字の癖も残すために。

「一つ目」

 囁きが落ちる。

 次に向かうのは祈祷室の付属記録棚。

 王宮の中でも古い区画。
 石壁が冷え、香が薄い。
 ここに触れたセシリアが発作を起こした場所――その周辺。

 廊下の角で、アデルは一瞬足を止めた。

(彼女が、ここで……)

 祈祷室の紋章。
 封印の印。
 狼。

 立ち止まる暇はない。

 シュナイダーが影のように動き、付属室の鍵を開ける。
 中は狭く、棚に薄い記録簿が並んでいた。
 祈祷の当番表。香の補充記録。聖水の管理。
 どれも退屈な紙の列。

 だが“改竄”は、退屈な紙の中に紛れる。

「これだ」

 シュナイダーが一冊を引き抜く。
 ページの端に、薄い削り跡。
 上書きされたインク。
 署名の癖が、違う。

 アデルが息を呑む。

「祈祷の当番が……入れ替わってる」

「そう。ここ数日、祈祷室の“封印に近い刻”だけ、当番が教会側に寄せられている」

 封印に近い刻。
 そこに近づける者を増やす。
 揺れを観測する。
 もしくは、揺れを起こす。

 アデルの喉がひりついた。

「……セシリアが発作を起こした日と一致してる?」

 シュナイダーは頷く。

「一致してる。
 そして書き換えた筆跡は、枢機卿バルドの配下のものだ」

 アデルの胸が冷える。

 教会と魔術部と聖女候補。
 繋がりが一本の線になる。

 セドリックの声が頭をよぎる。
 “事故は嫌いだ。死人が出る前に潰す”。

 シュナイダーは記録の該当箇所を薄紙で写し取り、封蝋の形まで写す。

「二つ目」

 アデルは拳を握りしめた。

(これで、やっと戦える)

 剣で斬る戦いではない。
 紙で刺す戦い。

 そしてその紙は、セシリアの命を守る盾になる。



 詰所へ戻る途中、セドリックが待っていた。
 彼は受け取った写しを見て、短く言った。

「揃ったな」

 シュナイダーが頷く。

「まだ“王太子に渡せる形”ではない。
 だが、火は起こせる。正しい火を」

 アデルは息を吸い、言った。

「次は、オスカーの実働を縛る証拠だ。
 拉致未遂の命令系統――」

 シュナイダーが遮る。

「焦るな。焦れば死ぬ」

 その言葉の重さが、今夜の紙束に乗っている。

 アデルは頷いた。
 だが、胸の奥の焦りは消えない。

 セシリアはまだ、狙われている。
 レイヴンはまだ、真実を言えない。
 狼はまだ、影の中にいる。

 それでも――

 アデルは紙束を胸に抱え、静かに誓った。

(必ず、彼女を“噂の悪役”から救う。
 そして、殿下の“守りの嘘”を、真実に変える)

 王宮の夜は静かだ。
 だがその静けさの下で、証拠は確かに鳴っていた。

 燃えるべき火の、音を。
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