『紅茶の香りが消えた午後に』

柴田はつみ

文字の大きさ
8 / 11

第8章 消えた香り

しおりを挟む
 夜が明ける前の空は、薄い灰色をしていた。
 遠くで鳥が鳴き、風が草原を渡る音がした。
 リディアの部屋の灯りは、まだ消えていない。
 机の上には、書きかけの手紙が一通。
 そして、その横には小さな紅茶缶が置かれていた。

「……これで、いいのよね」

 リディアは小さく息を吐いた。
 鏡に映る自分の姿は、いつもより少しだけ大人びて見える。
 今日、領地を離れる。
 父の療養先へ行くという名目だが、本当の理由を知っているのは彼女だけ。

 部屋の扉を開けると、マリアが荷をまとめて待っていた。
「お嬢様……本当に、このままお伝えせずに?」
「ええ。お別れの挨拶は、昨日で十分よ」
 リディアは微笑んだ。
 その笑みが、あまりに穏やかで、かえって痛々しかった。

 朝靄の中、馬車が静かに動き出す。
 窓の外には、見慣れた庭。
 テーブルの上には、昨日のままのティーセット。
 風が吹いて、白いクロスがふわりと揺れた。

(さようなら、アーヴィン様)

 声に出さず、心の中でだけ呟く。
 彼のいない朝。
 紅茶の香りが、もう遠い記憶のように薄れていった。



 一方そのころ、グレイフォード公爵邸。
 アーヴィンは珍しく早く目を覚ました。
 昨夜はほとんど眠れなかった。
 リディアの言葉が何度も頭の中で反響する。

 ——「別れの言葉ですわ」
 ——「あなたの笑顔を見られただけで、十分でした」

 何度思い返しても、その微笑みが焼きついて離れない。
 彼女は泣かなかった。
 それが、何より怖かった。

 机の上の茶葉の缶を開ける。
 香りはもうほとんど残っていない。
 それでも、無意識にカップを手に取り、湯を注ぐ。
 香りのない紅茶を口にして、彼は息を止めた。

「……味が、しない」

 当たり前だ。
 あの香りは、彼女が淹れたものだから。

 胸の奥で、何かがざらりと剥がれ落ちるような感覚。
 アーヴィンは立ち上がり、外套を羽織った。
 気づいたら、馬に跨がっていた。
 向かう先は——エルフォード家。



 午前の光が庭を照らしていた。
 いつも通り、花は咲き誇り、風が薫る。
 けれど、人の気配がない。
 門番の老従者が驚いた顔で頭を下げた。

「公爵様、……お嬢様なら、今朝、出立されました」

「……出立?」

「はい。お父上の療養先へ。しばらく戻られないと……」

 その言葉が、まるで刃のように胸に突き刺さる。
 アーヴィンは息を呑み、屋敷の中へ駆け込んだ。
 誰もいない部屋、静まり返った廊下。
 最後に辿り着いたのは——あの庭園だった。

 テーブルの上には、紅茶のカップが二つ。
 ひとつは空で、もうひとつには、淡い琥珀色の紅茶が半分残っている。
 陽の光に照らされて、表面がきらりと光った。

 アーヴィンはそっとそのカップを手に取った。
 唇に近づける。
 かすかに香った。
 けれど、それはもう、ほとんど風の匂いと変わらなかった。

「……リディア」

 名を呼ぶ声が、風に溶ける。
 返事はない。
 ただ花の香りだけが、やさしく残った。

 テーブルの上には、一通の手紙が置かれていた。
 封を開けると、彼女の整った筆跡。

『アーヴィン様へ
この紅茶の香りが、あなたの幸せに変わりますように。
どうか、もう心配なさらないでください。
わたくしは、あなたの優しさに救われた日々を忘れません。
さようなら。——リディア』

 手紙の文字が霞んでいく。
 アーヴィンは拳を握りしめた。
 胸の奥が、痛みで押し潰されそうだった。

「……馬鹿だな。俺は、なんてことを……」

 思い出す。
 彼女が笑うたびに、自分は安心していた。
 けれどその笑顔が、どれほど無理をして作られていたか、気づかなかった。

 紅茶をもう一口飲む。
 ぬるい液体が喉を通り、胸に落ちる。
 それは、涙の味がした。



 夕暮れ。
 リディアを乗せた馬車は、遠くの丘を越えていく。
 空は茜色に染まり、風が冷たくなる。
 リディアはカーテンを少しだけ開けて、外を見た。
 遠くの空に、小さく屋敷の塔が見える。

(あの人、今ごろ……お茶を飲んでいるかしら)

 そう思うと、胸が締めつけられた。
 それでも涙は出なかった。
 涙を流したら、もう戻れなくなる気がしたから。

 指先で小さな紅茶缶を撫でる。
 中には、彼からもらった茶葉が少しだけ残っている。
 香りはほとんど消えてしまったけれど、それでも蓋を開ければ、あの日の記憶が蘇る。

 ——“君の淹れる紅茶は、どうしてこうも香りがいいんだろうな”

 その声が、風のように通り抜けていく。
 リディアは目を閉じ、微笑んだ。

「……さようなら、アーヴィン様」

 馬車が遠ざかる。
 風が吹き、空に花弁が舞う。
 その中に、薄く残る紅茶の香りが溶けていった。



 夜。
 アーヴィンは庭に残されたティーカップを手に、月明かりの下に立っていた。
 空は静かで、星の光が冷たい。
 指先に残る香りは、もう消えかけている。

「リディア……君がいないこの庭は、
 どうして、こんなにも静かなんだろう」

 答えは風の中。
 ただ一枚の薔薇の花弁が、彼の足元に落ちた。
 その瞬間、彼はようやく悟る。

 ——あの日、別れの言葉を笑って言った彼女こそが、
 自分にとって“幸福”そのものだったのだ、と。

 紅茶の香りはもうない。
 けれど、心の奥には確かに残っていた。
 彼女の微笑みと、二人だけの静かな午後の記憶が。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

《完結》愛する人と結婚するだけが愛じゃない

ぜらちん黒糖
恋愛
オリビアはジェームズとこのまま結婚するだろうと思っていた。 ある日、可愛がっていた後輩のマリアから「先輩と別れて下さい」とオリビアは言われた。 ジェームズに確かめようと部屋に行くと、そこにはジェームズとマリアがベッドで抱き合っていた。 ショックのあまり部屋を飛び出したオリビアだったが、気がつくと走る馬車の前を歩いていた。

放蕩な血

イシュタル
恋愛
王の婚約者として、華やかな未来を約束されていたシンシア・エルノワール侯爵令嬢。 だが、婚約破棄、娼館への転落、そして愛妾としての復帰──彼女の人生は、王の陰謀と愛に翻弄され続けた。 冷徹と名高い若き王、クラウド・ヴァルレイン。 その胸に秘められていたのは、ただ1人の女性への執着と、誰にも明かせぬ深い孤独。 「君が僕を“愛してる”と一言くれれば、この世のすべてが手に入る」 過去の罪、失われた記憶、そして命を懸けた選択。 光る蝶が導く真実の先で、ふたりが選んだのは、傷を抱えたまま愛し合う未来だった。 ⚠️この物語はフィクションです。やや強引なシーンがあります。本作はAIの生成した文章を一部使用しています。

婚約者とその幼なじみがいい雰囲気すぎることに不安を覚えていましたが、誤解が解けたあとで、その立ち位置にいたのは私でした

珠宮さくら
恋愛
クレメンティアは、婚約者とその幼なじみの雰囲気が良すぎることに不安を覚えていた。 そんな時に幼なじみから、婚約破棄したがっていると聞かされてしまい……。 ※全4話。

手作りお菓子をゴミ箱に捨てられた私は、自棄を起こしてとんでもない相手と婚約したのですが、私も含めたみんな変になっていたようです

珠宮さくら
恋愛
アンゼリカ・クリットの生まれた国には、不思議な習慣があった。だから、アンゼリカは必死になって頑張って馴染もうとした。 でも、アンゼリカではそれが難しすぎた。それでも、頑張り続けた結果、みんなに喜ばれる才能を開花させたはずなのにどうにもおかしな方向に突き進むことになった。 加えて好きになった人が最低野郎だとわかり、自棄を起こして婚約した子息も最低だったりとアンゼリカの周りは、最悪が溢れていたようだ。

婚約したがっていると両親に聞かされ大事にされること間違いなしのはずが、彼はずっととある令嬢を見続けていて話が違いませんか?

珠宮さくら
恋愛
レイチェルは、婚約したがっていると両親に聞かされて大事にされること間違いなしだと婚約した。 だが、その子息はレイチェルのことより、別の令嬢をずっと見続けていて……。 ※全4話。

伯爵令嬢の婚約解消理由

七宮 ゆえ
恋愛
私には、小さい頃から親に決められていた婚約者がいます。 婚約者は容姿端麗、文武両道、金枝玉葉という世のご令嬢方が黄色い悲鳴をあげること間違い無しなお方です。 そんな彼と私の関係は、婚約者としても友人としても比較的良好でありました。 しかしある日、彼から婚約を解消しようという提案を受けました。勿論私達の仲が不仲になったとか、そういう話ではありません。それにはやむを得ない事情があったのです。主に、国とか国とか国とか。 一体何があったのかというと、それは…… これは、そんな私たちの少しだけ複雑な婚約についてのお話。 *本編は8話+番外編を載せる予定です。 *小説家になろうに同時掲載しております。 *なろうの方でも、アルファポリスの方でも色んな方に続編を読みたいとのお言葉を貰ったので、続きを只今執筆しております。

「お姉様の味方なんて誰もいないのよ」とよく言われますが、どうやらそうでもなさそうです

越智屋ノマ
恋愛
王太子ダンテに盛大な誕生日の席で婚約破棄を宣言された侯爵令嬢イヴ。 彼の隣には、妹ラーラの姿――。 幼い頃から家族に疎まれながらも、王太子妃となるべく努力してきたイヴにとって、それは想定外の屈辱だった。 だがその瞬間、国王クラディウスが立ち上がる。 「ならば仕方あるまい。婚約破棄を認めよう。そして――」 その一声が、ダンテのすべてをひっくり返す。 ※ふんわり設定。ハッピーエンドです。

【完結】完璧令嬢の『誰にでも優しい婚約者様』

恋せよ恋
恋愛
名門で富豪のレーヴェン伯爵家の跡取り リリアーナ・レーヴェン(17) 容姿端麗、頭脳明晰、誰もが憧れる 完璧な令嬢と評される“白薔薇の令嬢” エルンスト侯爵家三男で騎士課三年生 ユリウス・エルンスト(17) 誰にでも優しいが故に令嬢たちに囲まれる”白薔薇の婚約者“ 祖父たちが、親しい学友であった縁から エルンスト侯爵家への経済支援をきっかけに 5歳の頃、家族に祝福され結ばれた婚約。 果たして、この婚約は”政略“なのか? 幼かった二人は悩み、すれ違っていくーー 今日もリリアーナの胸はざわつく… 🔶登場人物・設定は作者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 いいね❤️励みになります!ありがとうございます✨

処理中です...