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第9章 雨の帰還
しおりを挟む空は重たく曇り、低い雲が丘を覆っていた。
遠くで雷が鳴り、雨の気配が近づいている。
その朝、アーヴィンは使いを出した。
リディアが向かった先を、どうしても確かめたかった。
「馬車は南街道を抜け、王都へ向かったとのことです」
報告を聞いた瞬間、アーヴィンは立ち上がった。
「馬を用意しろ。すぐに出る」
「ですが、公爵様——」
「今すぐだ!」
怒号のような声が廊下に響いた。
使用人たちは慌てて動く。
その姿を自分でも驚くほど冷静に見ていた。
——彼女が去った日、すべてが色を失った。
何をしても、紅茶の香りがしない。
食事も、書類の文字も、どれも薄い。
このまま黙っているくらいなら、雨に打たれてでも追いかけたい。
街道に出ると、雨が降り出した。
地面に泥がはね、風が顔を打つ。
だが構わなかった。
アーヴィンはひたすら馬を走らせた。
(どうして、止めなかった?
どうしてあの時、引き止めなかった?)
頭の中で、リディアの声が響く。
——「わたくし、あなたの笑顔を見られただけで、十分でした」
そんなはずがない。
十分なはずがない。
彼女がいない日々の意味を、ようやく理解した今になって。
雨脚が強まる。
街道を進むと、丘の向こうに馬車の影が見えた。
御者が雨を避けようと、林の中に入ろうとしている。
アーヴィンは叫んだ。
「——リディア!」
声は雨にかき消され、それでも彼は叫び続けた。
やがて、馬車の窓が開き、淡い影が揺れる。
リディアが顔を出した。
雨に濡れた金の髪、驚きに見開かれた瞳。
その姿を見ただけで、胸の奥が熱くなった。
「アーヴィン様……!?」
馬を止める間もなく、彼は泥に足を取られながら馬車へ駆け寄った。
御者が慌てて降りるのを振り切り、扉を開け放つ。
「どうして、行くと言ってくれなかった」
「お別れの言葉を、もう言いましたわ」
「そんな言葉を聞くために呼んだわけじゃない!」
雨音が二人の間を叩く。
リディアの肩が震える。
その顔には、驚きと……そして、痛み。
「わたくしは……あなたの邪魔をしたくなかったのです」
「邪魔? 君が?」
アーヴィンは信じられないというように首を振った。
「君がいたから、俺は毎日を生きていられたんだ!
君がいなければ、俺はただの形だけの公爵だ!」
その声に、リディアの目が大きく見開かれた。
けれど彼女は首を振る。
「そんなこと……嘘です。
あなたには、ミレーユ様が——」
「違う!」
アーヴィンの声が割れた。
雨の中でもはっきりと響く。
「確かに彼女は、俺にとって社交上の関係だ。
だが……俺が見ていたのは、ずっと君だけだった」
「……アーヴィン様……」
リディアの瞳に涙が滲む。
それでも彼女は首を横に振った。
「わたくしは……もう戻れません。
あなたを好きでいることが、苦しかったから」
「苦しくしていたのは、俺だ。
言葉にできないまま、君の優しさに甘えていた」
アーヴィンは一歩踏み出した。
雨で濡れた彼の髪から滴が落ちる。
彼は手を伸ばし、そっとリディアの頬に触れた。
指先に触れた肌は冷たく、それでも柔らかかった。
「俺は、君を手放したくない」
「……遅いですわ」
「遅くても、言わなければ後悔する」
リディアは唇を噛んだ。
涙が溢れ、頬を伝う。
その涙を、アーヴィンは指で拭った。
「俺の幸せは、君といることだ」
「……嘘……」
「本当だ。君が笑うとき、俺は生きている気がした。
紅茶の香りが消えてから気づいたんだ。
俺が恋していたのは、香りじゃない——君そのものだ」
リディアの視界が滲む。
胸の奥に、言葉にならない熱がこみ上げる。
「アーヴィン様……本当に……?」
「ああ。信じてくれ。もう、二度と君を離さない」
次の瞬間、彼は彼女を強く抱き寄せた。
雨の冷たさの中で、二人の体温だけが確かだった。
彼女の頬に、彼の呼吸が触れる。
「……信じてほしい。
もう“おめでとう”なんて言わせない」
リディアは震える声で笑った。
「ずるい方……そんな風に言われたら、また好きになってしまいます」
「なら、何度でも好きになれ。
そのたびに、俺が抱きしめる」
雨が一層強く降り出す。
空が鳴り、地面が濡れ、世界がぼやけていく。
けれど、その中で二人の影だけは、確かに重なっていた。
やがて雨がやむころ、雲の隙間から光が差した。
丘の上には馬車と二つの影。
リディアは彼の胸に寄りかかり、静かに目を閉じていた。
「‥‥アーヴィン様」
「……ああ。今度こそ、二人で」
彼は彼女の手を取り、指を絡めた。
その手の温もりが、すべての誤解と沈黙を溶かしていく。
風が吹き、紅茶の缶が少しだけ開いた。
中から香りがふわりと広がる。
それは、もう涙ではなく——新しい始まりの香りだった。
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