『紅茶の香りが消えた午後に』

柴田はつみ

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第10章 紅茶の香り、再び

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 翌朝、雨は嘘のように止んでいた。
 空には淡い雲が流れ、濡れた草が朝陽に光っている。
 夜の嵐がすべてを洗い流したようだった。

 グレイフォード邸の庭園。
 その中央に置かれた白いテーブルの上には、
 久しく見なかったティーセットが並んでいた。

 カップを拭く手が止まる。
 風が頬を撫で、薔薇の花弁がひとつ、彼女の髪に触れた。
 リディアはゆっくりと顔を上げた。
 その先には、アーヴィンの姿があった。

「待たせたな」
「いいえ。わたくしも今、ちょうど紅茶を淹れたところですわ」

 アーヴィンが微笑む。
 昨日の雨が嘘のように、その笑顔は穏やかで、どこか少年のようだった。
 彼が席につくと、リディアはポットを手に取り、静かに紅茶を注いだ。
 湯気が立ちのぼり、風と共に香りが広がっていく。

「……やっぱり、この香りだ」
「ええ。あなたがいつも“君の香りみたいだ”と仰ったものです」
「そう言ったっけ?」
「ええ。照れてすぐに否定されましたけれど」

 二人は同時に笑った。
 その笑い声が、庭の隅までやわらかく響く。

 アーヴィンはカップを手に取り、深く息を吸った。
 琥珀色の液体に光が揺れる。
 何度も味わったはずなのに、今日ほど温かく感じたことはない。

「紅茶って不思議だな。
 同じ茶葉なのに、君が淹れると、全然違う味になる」
「それはきっと……気持ちのせいですわ」
「気持ち?」
「ええ。心が穏やかな人の手からは、優しい香りが生まれるのです」
 そう言って微笑むリディアの瞳には、昨日までの悲しみがもうなかった。

「穏やかな人、か……」
「ええ。わたしは、そんなあなたが好きです」
「俺もだ。
 君が笑うと、俺の世界に色が戻る。
 紅茶の香りよりも、ずっと深く、温かく」

 リディアは顔を赤らめ、そっと視線を落とした。
 アーヴィンがその手を取り、指を絡める。
 彼女の指は少し冷たかったが、握り返す力は確かだった。

「……これからも、こうして一緒に紅茶を飲んでくれるか?」
「はい。何度でも」
「では、約束だ」

 アーヴィンは彼女の指先に口づけた。
 その仕草に、リディアの胸が震える。
 けれど次の瞬間、彼女はそっと微笑んだ。

「今度は、わたくしがあなたに教えて差し上げますね」
「教える?」
「紅茶の淹れ方です。
 いつか、あなたがひとりでもこの香りを再現できるように」
「……いや、それは困るな」
「どうして?」
「理由は簡単だ。——君がいないと、この香りは完成しない」

 その言葉に、リディアは息を呑み、目を潤ませた。
 アーヴィンは微笑みながら、ゆっくりとカップを持ち上げた。

「これが、俺たちのはじまりの香りだな」
「はい……終わりではなく、はじまりですわ」

 その瞬間、風がふわりと吹き抜けた。
 薔薇の花びらが舞い上がり、二人の間をやさしく包み込む。
 紅茶の香りが、陽の光の中で淡く広がった。

 かつて涙を混ぜたこの庭で、
 今はただ、穏やかな幸福が香っている。

 アーヴィンがそっとリディアの肩を抱き寄せた。
 彼女はその胸に顔を寄せ、囁くように言った。

「この香り、ずっと覚えていてくださいね」
「忘れられるわけがないさ」
「どうしてですか?」
「だって、俺の幸せはこの香りと共にある」

 リディアは小さく笑い、目を閉じた。
 遠くで鐘が鳴る。
 新しい朝を告げる音だった。

 紅茶の湯気が淡く揺れ、
 その中に、永遠のような静けさが宿る。

——そして、紅茶の香りは再び、二人を結んだ。

 あの日の雨が過ぎて、季節はゆっくりと流れた。
 エルフォード家の庭園には、新しい花が咲き、
 その中央では、今日も二人の笑い声が絶えない。

 紅茶の香りは、もう悲しみを連れてこない。
 それは、過去を赦し、未来を約束する香り。

 静かな午後。
 アーヴィンが穏やかに言う。

「リディア、今日はどんな茶葉だ?」
「秘密ですわ。でも、香りで当ててみてください」

 ふたりは目を合わせ、微笑み合う。
 ——幸福の香りが、また風に溶けていく。
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