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第7章 別れの茶会
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薄曇りの午後だった。
庭の薔薇は満開を少し過ぎ、花弁がひとつ、またひとつと風に散っていく。
リディアはその花弁を拾い上げ、指先でそっと撫でた。
ひんやりとした感触。
その冷たさが、不思議と心を落ち着かせた。
「今日が……最後の、お茶会」
誰に告げるでもなく、呟く。
今朝、アーヴィンに手紙を送った。
——「お話ししたいことがあります。どうか、午後にお時間を」
それは、彼にとっては何気ない誘いかもしれない。
けれどリディアにとっては、すべてを終えるための言葉だった。
マリアが心配そうに紅茶を運んできた。
「お嬢様、本当に……よろしいのですか?」
「ええ。大丈夫。泣いたりしないわ。今日だけは、綺麗に笑いたいの」
言いながら、リディアは鏡を見た。
淡いベージュのドレスに、白いリボン。
かつてアーヴィンに褒められた服だった。
——「君には、穏やかな色が似合う」
あのときの彼の笑みが蘇り、胸の奥が少しだけ痛む。
門の向こうから、馬の蹄の音が聞こえてきた。
心臓が一度、大きく跳ねる。
アーヴィンが来た。
彼の姿は、いつもより少し疲れて見えた。
けれどその眼差しは真っ直ぐで、優しかった。
——だからこそ、残酷だった。
「呼んでくれてありがとう、リディア」
「いいえ。来てくださって嬉しいですわ」
テーブルには、いつものティーセット。
だが、今日は香りが違う。
王都で人気の新しいブレンド——ミレーユが好きだと言っていたもの。
「……この香り、どこかで嗅いだような」
「ええ。ローラン家の舞踏会で出されたものですわ」
「そうか。君も王都に出ていたのか?」
「いいえ。……ただ、気になって取り寄せただけです」
リディアは微笑んだ。
アーヴィンは何も気づかない。
その無邪気さに、涙が込み上げる。
けれど、泣かない。今日だけは。
「最近はお忙しいのでしょう?」
「ああ。父上の体調もあり、政務が増えている。……だが、君に会う時間くらいは作れるさ」
「優しいのですね」
「当たり前だろう。君は幼いころから、ずっと俺の……」
言葉が途切れた。
アーヴィンは一瞬、迷うように視線を落とす。
“俺の大切な人”と言いかけたのだと、リディアはわかった。
けれど彼はその言葉を飲み込んだ。
その沈黙を破るように、風が吹き抜ける。
テーブルの上の花弁がひとつ、紅茶のカップに落ちた。
赤い色が湯面に滲む。
それが、まるで血のように見えた。
「……アーヴィン様」
「どうした?」
「今日、お話ししたかったのは……このお茶会のことなのです」
「お茶会?」
「はい。……次回からは、どうか気になさらず。きっとお忙しいでしょうし、無理をなさらないで」
アーヴィンが眉を寄せた。
「どういう意味だ?」
「わたくしはもう、しばらく領地を離れようと思います。
父の療養先へ参りますので。……少し長くなるかもしれません」
「そんな……突然だな。何かあったのか?」
「いいえ。ただの決意です」
アーヴィンの表情がわずかに陰る。
言いたいことがあるのに、言えない顔。
リディアは、それ以上彼を見られなかった。
「君は……俺を避けているのか?」
「避けてなどおりません。
ただ、あなたの未来には、わたくしがいなくても大丈夫だと思っただけです」
「何を言っている」
彼の声が少し強くなった。
「君がいなくて、どうして落ち着けると思う?
俺は、君がいるから——」
その先の言葉は、風にかき消された。
遠くで雷のような音が響いた。
リディアは小さく首を振った。
「もう……いいのです。
わたくし、あなたの笑顔を見られただけで、十分でしたから」
「リディア……」
その名を呼ぶ声が震えていた。
けれど彼が手を伸ばす前に、リディアは一歩下がった。
カップを手に取り、微笑む。
「どうか、これからも幸せでいてくださいね」
「……それは、まるで別れの言葉みたいだ」
「ええ。別れの言葉ですわ」
アーヴィンの瞳が見開かれる。
その奥に、ようやく焦りの色が灯った。
けれど、もう遅い。
リディアは微笑んだまま、紅茶を静かに口に含んだ。
苦かった。
——でも、これでいい。
「この香り、きっともう二度と忘れません」
アーヴィンが何かを言いかけた瞬間、
庭の門の外から、ミレーユの明るい声が響いた。
「アーヴィン様! お探ししましたわ!」
彼の体が、ほんの一瞬だけその声に反応した。
リディアはその小さな動きを見逃さなかった。
胸の奥で、音もなく何かが崩れた。
「どうぞ。お待ちの方がいらっしゃいます」
「……リディア」
「行ってください。大丈夫ですから」
彼は逡巡したが、結局頷いた。
それが、彼の優しさであり、弱さだった。
アーヴィンの背中が門の向こうへ消えていく。
リディアは椅子に座り直し、空になったカップを見つめた。
紅茶の底に映る自分の顔が滲んで見える。
「ありがとう、アーヴィン様。
あなたを好きでいられた日々は、幸せでした」
風が吹き、薔薇の花弁が一斉に舞った。
彼女の髪に触れ、ドレスの裾を揺らす。
それは、まるで“さようなら”と囁くようだった。
その日の夜、リディアは日記に短く記した。
「紅茶の香りが、もう痛い」
そして筆を置き、灯りを消す。
静まり返った部屋に、かすかな風の音だけが残った。
庭の薔薇は満開を少し過ぎ、花弁がひとつ、またひとつと風に散っていく。
リディアはその花弁を拾い上げ、指先でそっと撫でた。
ひんやりとした感触。
その冷たさが、不思議と心を落ち着かせた。
「今日が……最後の、お茶会」
誰に告げるでもなく、呟く。
今朝、アーヴィンに手紙を送った。
——「お話ししたいことがあります。どうか、午後にお時間を」
それは、彼にとっては何気ない誘いかもしれない。
けれどリディアにとっては、すべてを終えるための言葉だった。
マリアが心配そうに紅茶を運んできた。
「お嬢様、本当に……よろしいのですか?」
「ええ。大丈夫。泣いたりしないわ。今日だけは、綺麗に笑いたいの」
言いながら、リディアは鏡を見た。
淡いベージュのドレスに、白いリボン。
かつてアーヴィンに褒められた服だった。
——「君には、穏やかな色が似合う」
あのときの彼の笑みが蘇り、胸の奥が少しだけ痛む。
門の向こうから、馬の蹄の音が聞こえてきた。
心臓が一度、大きく跳ねる。
アーヴィンが来た。
彼の姿は、いつもより少し疲れて見えた。
けれどその眼差しは真っ直ぐで、優しかった。
——だからこそ、残酷だった。
「呼んでくれてありがとう、リディア」
「いいえ。来てくださって嬉しいですわ」
テーブルには、いつものティーセット。
だが、今日は香りが違う。
王都で人気の新しいブレンド——ミレーユが好きだと言っていたもの。
「……この香り、どこかで嗅いだような」
「ええ。ローラン家の舞踏会で出されたものですわ」
「そうか。君も王都に出ていたのか?」
「いいえ。……ただ、気になって取り寄せただけです」
リディアは微笑んだ。
アーヴィンは何も気づかない。
その無邪気さに、涙が込み上げる。
けれど、泣かない。今日だけは。
「最近はお忙しいのでしょう?」
「ああ。父上の体調もあり、政務が増えている。……だが、君に会う時間くらいは作れるさ」
「優しいのですね」
「当たり前だろう。君は幼いころから、ずっと俺の……」
言葉が途切れた。
アーヴィンは一瞬、迷うように視線を落とす。
“俺の大切な人”と言いかけたのだと、リディアはわかった。
けれど彼はその言葉を飲み込んだ。
その沈黙を破るように、風が吹き抜ける。
テーブルの上の花弁がひとつ、紅茶のカップに落ちた。
赤い色が湯面に滲む。
それが、まるで血のように見えた。
「……アーヴィン様」
「どうした?」
「今日、お話ししたかったのは……このお茶会のことなのです」
「お茶会?」
「はい。……次回からは、どうか気になさらず。きっとお忙しいでしょうし、無理をなさらないで」
アーヴィンが眉を寄せた。
「どういう意味だ?」
「わたくしはもう、しばらく領地を離れようと思います。
父の療養先へ参りますので。……少し長くなるかもしれません」
「そんな……突然だな。何かあったのか?」
「いいえ。ただの決意です」
アーヴィンの表情がわずかに陰る。
言いたいことがあるのに、言えない顔。
リディアは、それ以上彼を見られなかった。
「君は……俺を避けているのか?」
「避けてなどおりません。
ただ、あなたの未来には、わたくしがいなくても大丈夫だと思っただけです」
「何を言っている」
彼の声が少し強くなった。
「君がいなくて、どうして落ち着けると思う?
俺は、君がいるから——」
その先の言葉は、風にかき消された。
遠くで雷のような音が響いた。
リディアは小さく首を振った。
「もう……いいのです。
わたくし、あなたの笑顔を見られただけで、十分でしたから」
「リディア……」
その名を呼ぶ声が震えていた。
けれど彼が手を伸ばす前に、リディアは一歩下がった。
カップを手に取り、微笑む。
「どうか、これからも幸せでいてくださいね」
「……それは、まるで別れの言葉みたいだ」
「ええ。別れの言葉ですわ」
アーヴィンの瞳が見開かれる。
その奥に、ようやく焦りの色が灯った。
けれど、もう遅い。
リディアは微笑んだまま、紅茶を静かに口に含んだ。
苦かった。
——でも、これでいい。
「この香り、きっともう二度と忘れません」
アーヴィンが何かを言いかけた瞬間、
庭の門の外から、ミレーユの明るい声が響いた。
「アーヴィン様! お探ししましたわ!」
彼の体が、ほんの一瞬だけその声に反応した。
リディアはその小さな動きを見逃さなかった。
胸の奥で、音もなく何かが崩れた。
「どうぞ。お待ちの方がいらっしゃいます」
「……リディア」
「行ってください。大丈夫ですから」
彼は逡巡したが、結局頷いた。
それが、彼の優しさであり、弱さだった。
アーヴィンの背中が門の向こうへ消えていく。
リディアは椅子に座り直し、空になったカップを見つめた。
紅茶の底に映る自分の顔が滲んで見える。
「ありがとう、アーヴィン様。
あなたを好きでいられた日々は、幸せでした」
風が吹き、薔薇の花弁が一斉に舞った。
彼女の髪に触れ、ドレスの裾を揺らす。
それは、まるで“さようなら”と囁くようだった。
その日の夜、リディアは日記に短く記した。
「紅茶の香りが、もう痛い」
そして筆を置き、灯りを消す。
静まり返った部屋に、かすかな風の音だけが残った。
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