『紅茶の香りが消えた午後に』

柴田はつみ

文字の大きさ
6 / 11

第6章 噂と誤解

しおりを挟む
 その知らせは、あまりに唐突だった。

 リディアが花壇の手入れをしていたある午後、屋敷の門を通りかかった侍女たちが、楽しげな声で噂を交わしていた。

「ねえ、聞いた? グレイフォード公爵様、ついに婚約なさるんですって!」
「お相手はローラン伯爵令嬢でしょう? まあ、なんてお似合い!」

 風が止まる。
 手にしていた剪定ばさみが、土の上に落ちた。
 乾いた音が響いたあと、世界が少し歪む。

「……婚約?」

 思わず口の中で繰り返す。
 信じたくない。
 けれど、胸の奥では、どこかで「やっぱり」とささやく声がした。

 侍女たちは彼女の姿に気づかず、楽しげに会話を続けている。
 その声が、刃物のように心を裂いた。

「お嬢様……」
 後ろからマリアの声がした。
 けれどリディアは顔を上げられなかった。

「……確かなことなの?」

 マリアは迷いながらも頷いた。
「噂ですが……今朝、王都の報せを運んできた使者がそう申しておりました。まだ正式な発表ではないようですが……」

「そう……」
 言葉はそれきりだった。
 口の中が乾いて、何も味がしない。
 指先は震え、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。



 その日の午後。
 リディアは机の上に並ぶティーセットを見つめていた。
 アーヴィンと過ごした時間の名残。
 彼が笑いながら「もう一杯」と言ったときの、あの温度。
 それが今は、ただの空っぽな器にしか見えない。

「……本当に、これでよかったのよね」

 誰に言うでもなく、呟く。
 けれど、返事はこない。
 窓の外では、花が揺れていた。
 彼が植えた薔薇。
 その赤が、やけに眩しい。

(あの方が幸せなら、それでいい。そう言ったはずなのに……)

 胸が苦しい。
 涙が頬を伝って落ち、紅茶のカップの中にぽつりと落ちた。
 波紋が広がり、静かに消えていく。



 その夜。
 風が強く、カーテンが揺れている。
 寝台の上で目を閉じても、眠れなかった。
 目を閉じるたびに、彼とミレーユの笑顔が浮かぶ。

 花壇で肩を並べる姿。
 舞踏会で彼女に手を差し伸べる瞬間。
 あの優しい声が、自分の名を呼ばずに他の誰かを呼ぶ光景。

(……あの人は、誰にでも優しいのよ)
 何度もそう言い聞かせても、涙は止まらなかった。

 ふと、机の上の白い封筒に気づく。
 アーヴィンからの手紙。
 数日前に届いていたものの、怖くて開けられなかった。
 震える指で封を切る。

『近頃、会えていないことを気にしている。
君の紅茶が恋しい。
今度、改めて話をしたい。』

 それだけ。
 たった数行。
 婚約のことは何も書かれていなかった。

「……どうして、そんな優しい言葉をくれるの?」

 声が掠れる。
 泣いてはいけないのに、涙が止まらない。
 彼の筆跡がにじむほど、涙で紙が濡れていく。

 もし、この手紙を受け取る前に噂を聞いていなければ——。
 自分はきっと、またあの庭で微笑んでいた。
 信じて、待って、傷つく未来を知らずに。



 翌日。
 リディアは花園を歩いた。
 風が強く、空には灰色の雲がかかっている。
 季節が変わろうとしていた。

 庭の奥には、あの白い石のテーブル。
 いつも二人で座っていた場所。
 今は、ただの空席だけが並んでいた。

 リディアはポットを置き、カップに紅茶を注いだ。
 湯気が立ち上り、風に消えていく。
 まるで、過去が目の前で溶けていくようだった。

「ねえ、アーヴィン様」
 声に出してみる。
 誰もいない空に向かって。
 それでも、言わずにはいられなかった。

「わたし、あなたに“おめでとう”って言えるようになりたい。
 笑って、祝えるようになりたいの。
 だから……少しだけ、泣かせてください」

 カップの中に、涙がひとしずく落ちた。
 その瞬間、遠くで雷鳴が響いた。
 雨の匂いが近づいてくる。

 リディアは立ち上がり、屋敷の方へ歩き出した。
 振り返れば、テーブルの上の紅茶が静かに冷めていく。
 その香りはもう、彼女の心には届かない。



 その夜。
 夢の中で、彼が微笑んだ。
 “誤解だ”と、あの声が言った。
 けれど、夢の中でも彼の隣には、金色の髪の女性がいた。

 リディアはそっと手を伸ばした。
 でも、届かない。
 指先に触れるのは、冷たい風だけだった。

 目が覚めると、枕元には一輪の花弁が落ちていた。
 昨日、机の上の花瓶に挿した薔薇——
 その最後のひとひら。

 彼女はその花弁を指先でつまみ、微笑んだ。
「……さようなら、紅茶の香りの日々」

 そして小さく息を吐くと、窓を開け放った。
 雨上がりの風が部屋を満たし、遠くで鳥が鳴いた。
 新しい季節が始まろうとしていた。

 けれど、リディアの心はまだ——
 昨日の夕暮れに取り残されたままだった
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

もう演じなくて結構です

梨丸
恋愛
侯爵令嬢セリーヌは最愛の婚約者が自分のことを愛していないことに気づく。 愛しの婚約者様、もう婚約者を演じなくて結構です。 11/5HOTランキング入りしました。ありがとうございます。   感想などいただけると、嬉しいです。 11/14 完結いたしました。 11/16 完結小説ランキング総合8位、恋愛部門4位ありがとうございます。

我慢しないことにした結果

宝月 蓮
恋愛
メアリー、ワイアット、クレアは幼馴染。いつも三人で過ごすことが多い。しかしクレアがわがままを言うせいで、いつもメアリーは我慢を強いられていた。更に、メアリーはワイアットに好意を寄せていたが色々なことが重なりワイアットはわがままなクレアと婚約することになってしまう。失意の中、欲望に忠実なクレアの更なるわがままで追い詰められていくメアリー。そんなメアリーを救ったのは、兄達の友人であるアレクサンダー。アレクサンダーはメアリーに、もう我慢しなくて良い、思いの全てを吐き出してごらんと優しく包み込んでくれた。メアリーはそんなアレクサンダーに惹かれていく。 小説家になろう、カクヨムにも掲載しています。

伯爵令嬢の婚約解消理由

七宮 ゆえ
恋愛
私には、小さい頃から親に決められていた婚約者がいます。 婚約者は容姿端麗、文武両道、金枝玉葉という世のご令嬢方が黄色い悲鳴をあげること間違い無しなお方です。 そんな彼と私の関係は、婚約者としても友人としても比較的良好でありました。 しかしある日、彼から婚約を解消しようという提案を受けました。勿論私達の仲が不仲になったとか、そういう話ではありません。それにはやむを得ない事情があったのです。主に、国とか国とか国とか。 一体何があったのかというと、それは…… これは、そんな私たちの少しだけ複雑な婚約についてのお話。 *本編は8話+番外編を載せる予定です。 *小説家になろうに同時掲載しております。 *なろうの方でも、アルファポリスの方でも色んな方に続編を読みたいとのお言葉を貰ったので、続きを只今執筆しております。

さよなら 大好きな人

小夏 礼
恋愛
女神の娘かもしれない紫の瞳を持つアーリアは、第2王子の婚約者だった。 政略結婚だが、それでもアーリアは第2王子のことが好きだった。 彼にふさわしい女性になるために努力するほど。 しかし、アーリアのそんな気持ちは、 ある日、第2王子によって踏み躙られることになる…… ※本編は悲恋です。 ※裏話や番外編を読むと本編のイメージが変わりますので、悲恋のままが良い方はご注意ください。 ※本編2(+0.5)、裏話1、番外編2の計5(+0.5)話です。

顔がタイプじゃないからと、結婚を引き延ばされた本当の理由

翠月 瑠々奈
恋愛
「顔が……好みじゃないんだ!!」  婚約して早一年が経とうとしている。いい加減、周りからの期待もあって結婚式はいつにするのかと聞いたら、この回答。  セシリアは唖然としてしまう。  トドメのように彼は続けた。 「結婚はもう少し考えさせてくれないかな? ほら、まだ他の選択肢が出てくるかもしれないし」  この上なく失礼なその言葉に彼女はその場から身を翻し、駆け出した。  そのまま婚約解消になるものと覚悟し、新しい相手を探すために舞踏会に行くことに。  しかし、そこでの出会いから思いもよらない方向へ進み────。  顔が気に入らないのに、無為に結婚を引き延ばした本当の理由を知ることになる。

【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する

ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。 夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。 社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。 ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。 「私たち、離婚しましょう」 アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。 どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。 彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。 アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。 こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。

婚約者とその幼なじみがいい雰囲気すぎることに不安を覚えていましたが、誤解が解けたあとで、その立ち位置にいたのは私でした

珠宮さくら
恋愛
クレメンティアは、婚約者とその幼なじみの雰囲気が良すぎることに不安を覚えていた。 そんな時に幼なじみから、婚約破棄したがっていると聞かされてしまい……。 ※全4話。

愛する人と結婚するだけが愛じゃない

ぜらちん黒糖
恋愛
オリビアはジェームズとこのまま結婚するだろうと思っていた。 ある日、可愛がっていた後輩のマリアから「先輩と別れて下さい」とオリビアは言われた。 ジェームズに確かめようと部屋に行くと、そこにはジェームズとマリアがベッドで抱き合っていた。 ショックのあまり部屋を飛び出したオリビアだったが、気がつくと走る馬車の前を歩いていた。

処理中です...