『紅茶の香りが消えた午後に』

柴田はつみ

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第6章 噂と誤解

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 その知らせは、あまりに唐突だった。

 リディアが花壇の手入れをしていたある午後、屋敷の門を通りかかった侍女たちが、楽しげな声で噂を交わしていた。

「ねえ、聞いた? グレイフォード公爵様、ついに婚約なさるんですって!」
「お相手はローラン伯爵令嬢でしょう? まあ、なんてお似合い!」

 風が止まる。
 手にしていた剪定ばさみが、土の上に落ちた。
 乾いた音が響いたあと、世界が少し歪む。

「……婚約?」

 思わず口の中で繰り返す。
 信じたくない。
 けれど、胸の奥では、どこかで「やっぱり」とささやく声がした。

 侍女たちは彼女の姿に気づかず、楽しげに会話を続けている。
 その声が、刃物のように心を裂いた。

「お嬢様……」
 後ろからマリアの声がした。
 けれどリディアは顔を上げられなかった。

「……確かなことなの?」

 マリアは迷いながらも頷いた。
「噂ですが……今朝、王都の報せを運んできた使者がそう申しておりました。まだ正式な発表ではないようですが……」

「そう……」
 言葉はそれきりだった。
 口の中が乾いて、何も味がしない。
 指先は震え、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。



 その日の午後。
 リディアは机の上に並ぶティーセットを見つめていた。
 アーヴィンと過ごした時間の名残。
 彼が笑いながら「もう一杯」と言ったときの、あの温度。
 それが今は、ただの空っぽな器にしか見えない。

「……本当に、これでよかったのよね」

 誰に言うでもなく、呟く。
 けれど、返事はこない。
 窓の外では、花が揺れていた。
 彼が植えた薔薇。
 その赤が、やけに眩しい。

(あの方が幸せなら、それでいい。そう言ったはずなのに……)

 胸が苦しい。
 涙が頬を伝って落ち、紅茶のカップの中にぽつりと落ちた。
 波紋が広がり、静かに消えていく。



 その夜。
 風が強く、カーテンが揺れている。
 寝台の上で目を閉じても、眠れなかった。
 目を閉じるたびに、彼とミレーユの笑顔が浮かぶ。

 花壇で肩を並べる姿。
 舞踏会で彼女に手を差し伸べる瞬間。
 あの優しい声が、自分の名を呼ばずに他の誰かを呼ぶ光景。

(……あの人は、誰にでも優しいのよ)
 何度もそう言い聞かせても、涙は止まらなかった。

 ふと、机の上の白い封筒に気づく。
 アーヴィンからの手紙。
 数日前に届いていたものの、怖くて開けられなかった。
 震える指で封を切る。

『近頃、会えていないことを気にしている。
君の紅茶が恋しい。
今度、改めて話をしたい。』

 それだけ。
 たった数行。
 婚約のことは何も書かれていなかった。

「……どうして、そんな優しい言葉をくれるの?」

 声が掠れる。
 泣いてはいけないのに、涙が止まらない。
 彼の筆跡がにじむほど、涙で紙が濡れていく。

 もし、この手紙を受け取る前に噂を聞いていなければ——。
 自分はきっと、またあの庭で微笑んでいた。
 信じて、待って、傷つく未来を知らずに。



 翌日。
 リディアは花園を歩いた。
 風が強く、空には灰色の雲がかかっている。
 季節が変わろうとしていた。

 庭の奥には、あの白い石のテーブル。
 いつも二人で座っていた場所。
 今は、ただの空席だけが並んでいた。

 リディアはポットを置き、カップに紅茶を注いだ。
 湯気が立ち上り、風に消えていく。
 まるで、過去が目の前で溶けていくようだった。

「ねえ、アーヴィン様」
 声に出してみる。
 誰もいない空に向かって。
 それでも、言わずにはいられなかった。

「わたし、あなたに“おめでとう”って言えるようになりたい。
 笑って、祝えるようになりたいの。
 だから……少しだけ、泣かせてください」

 カップの中に、涙がひとしずく落ちた。
 その瞬間、遠くで雷鳴が響いた。
 雨の匂いが近づいてくる。

 リディアは立ち上がり、屋敷の方へ歩き出した。
 振り返れば、テーブルの上の紅茶が静かに冷めていく。
 その香りはもう、彼女の心には届かない。



 その夜。
 夢の中で、彼が微笑んだ。
 “誤解だ”と、あの声が言った。
 けれど、夢の中でも彼の隣には、金色の髪の女性がいた。

 リディアはそっと手を伸ばした。
 でも、届かない。
 指先に触れるのは、冷たい風だけだった。

 目が覚めると、枕元には一輪の花弁が落ちていた。
 昨日、机の上の花瓶に挿した薔薇——
 その最後のひとひら。

 彼女はその花弁を指先でつまみ、微笑んだ。
「……さようなら、紅茶の香りの日々」

 そして小さく息を吐くと、窓を開け放った。
 雨上がりの風が部屋を満たし、遠くで鳥が鳴いた。
 新しい季節が始まろうとしていた。

 けれど、リディアの心はまだ——
 昨日の夕暮れに取り残されたままだった
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