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第1章 月葬のダークベル
4・嘘をつく時に髪を弄る癖は直ってないよね
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レースのカーテンから差し込む朝日が、ベッドの上を泳ぐ胡桃色の髪を柔らかく照らしている。
肌に触れる光は優しいのに、意識を引き寄せる手は強引で。ルシェラは小さく唸りながら、容赦なく瞼を刺激する朝日から逃れようと体を半回転させた。と同時に重心がぐらりと傾き、理解の追いつかないルシェラの体に鈍い痛みが走る。
「……ったぁ」
呻きながら体を起こすと、ルシェラはベッドから物の見事にずり落ちていた。打ち付けた頭を押さえながら窓へ目を向けると、昨夜の雨が嘘のように空は青く晴れ渡っている。
と、そこで記憶が一気によみがえった。
はっとして顔を向けた先、ドレッサーの鏡に映った自分の姿を見てルシェラは慌ててブラウスの前をかき抱いた。
「夢じゃ、ない」
乱れたブラウスの隙間から、胸元の赤い痣が垣間見える。胸に触れた唇の感触がまざまざとよみがえり、忘れていた熱までもが再び体の奥で燻り始めた。
『ルシェラ』
記憶に残る声が、耳元で甘く囁く。
『君に私の印を付けさせてもらいました』
熱い吐息すら耳朶を掠めていくようで、ルシェラの意識がレヴィリウスの妖しい魅力に塗り潰される。
「……っ」
このままでは危険な熱に捕らわれてしまう。訳もなく焦燥し立ち上がったルシェラは、強引にでも体を冷やしてしまおうとバルスームへ駆け込んで行った。
低めに設定したシャワーを頭から浴びると余計な熱が剥がれ落ち、気持ちも随分と落ち着いてきた。胸の痣が視界に入るとまだドキリとするが、さっきに比べると頭も冷えて冷静に思考が働く。
リトベルとは対を成すように存在する闇の街ダークベル。
いにしえに封じられた悪魔を狩り続けて来た銀髪の男レヴィリウス。
人の負の感情で実体化する悪魔の残留思念をシャドウと呼び、それは今後もルシェラを狙うかのように語っていた。
『君は傷を負ってはいけない』
レヴィリウスの話によれば、ルシェラの血肉はシャドウにとって特別なご馳走のようだ。だから血の匂いを嗅がせてはいけない。執拗に狙われてしまうから。
「でも、それじゃあ……」
ルシェラの血を舐めて陶酔したように笑ったレヴィリウスは何者なのか。
左胸に付けられた赤い薔薇。鬱血痕を思わせる痣は、まるでレヴィリウスのあからさまな独占欲の表れにも思える。
「選択、間違えちゃったかしら」
けれど再度シャドウに襲われれば、今度こそルシェラは命を落とすだろう。そう考えると、未だ謎の多いレヴィリウスだが、彼と契約を結べたことは不幸中の幸いとでも言うのだろうか。
姿見に映る胸の痣を見つめていたルシェラが、ふと上体をくるりと捻って鏡に自身の背中を映した。滑らかに曲線を描く背中、その肩甲骨の辺りに二本の古傷が縦に入っているのが見える。
生まれた時からあるのだと教えられた傷は、白い背中をそこだけくすんだ黒に染めていた。
「前も後ろも傷だらけじゃない」
自嘲じみた言葉だが、浮かべる微笑に自分を卑下する色はない。
シャワーを止めて濡れた髪を纏めると、ルシェラはその傷だらけの体にタオルを巻いてバスルームを後にした。
***
花の都リトベル。
一年中様々な花が色鮮やかに咲く美しい都は、大まかに分けて五つの区域に分かれている。
時計塔のある街の中央区は憩いの場であるリナス広場を囲むように、カフェや洋菓子店など比較的若者に人気の店が集まっている。
中央区から東に伸びる通りは商業区。ルシェラのメイヴェン古書店をはじめ、食料品を扱う市場や警備隊がよく利用する武具などを取り扱う店もあり、その種類は様々だ。
南の通りは居住区で、西は行政区。そして北には荘厳な雰囲気を醸し出す歴史地区が広がっている。
そしてルシェラは今、その歴史地区にある資料館に来ていた。リトベルの歴史に関わる文献等を多く集めた資料館で、丘の上のフォルセリア神殿に仕える神官たちもよく訪れる場所だ。
仕事柄何度か訪れたことのあるルシェラは、記憶を頼りに一階の右奥――貸し出し専用の本棚へと向かう。新旧様々な本や資料が並べられている中、何気に取った本の表紙には「聖女フォルセリアと神々の戦い」の文字と共に、二枚の翼を持つ女性の絵が描かれていた。
***
いにしえの時代。
天の神々と、混沌の闇から生まれる悪魔との戦いがあった。光の勢力である神々の軍勢が優勢ではあったが、光が強ければそれに比例して闇もまた濃く濁る。加えて人間の負の感情を糧に力を増す闇の軍勢に、神々は有利に立ちながらも度々苦戦を強いられていた。
戦いが拮抗する中、神々は一つの計画を実行した。
悪魔の力を増幅させる、人間の負の感情。その弱体化を図り、人間の中に神の力を紛れ込ませたのだ。
選ばれたのは生まれる直前の赤子。ひとしずくの力を受け取った赤子は、背に純白の翼を持って生まれ、神々の使いとして人の世にその名を広く知られていった。
「聖女フォルセリア」
戦いにより疲弊した世界に生まれた、神々の愛し子。
人間を善に導き、負の感情を浄化した聖女フォルセリアの活躍によって悪魔は力を大いに削がれ、神々は見事悪魔の軍勢を討ち滅ぼすことに成功した。
役目を終えた聖女フォルセリアが安住の地として生涯を終えた村は、後に花の都リトベルとして発展を遂げ、今でも根強い聖女信仰が続いている。
***
「あれ? ルシェラ、どうしたの?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、神官服に身を包んだ金髪の青年が本棚の角から顔を覗かせていた。
「うん、ちょっとね。セイルは?」
「神官見習いの教育係になってね、その資料集め。ルシェラは……何? 聖女の歴史に興味が出てきたの?」
ルシェラの手にある本を見て、セイルが柔らかく笑う。
威圧感などとは無縁の柔和な顔立ちの青年は、その温厚な性格から神殿内は勿論のこと一般市民……特に女性からの人気が高い。ルシェラとは幼馴染みで、大人になった今でもたまに食事に行くくらいには仲の良い関係が続いている。
「聖女って言うか、神々の戦いの方かな。でも悪魔に関する資料はあんまり置いてないのね」
「ここは一般市民も立ち入れる場所だからね。暗い部分の資料は必要最低限に留められてるよ」
「フォルセリア神殿には、そういう資料が置いてある?」
意外に食いついてきたルシェラの反応に、セイルが幾分面食らったように瞠目した。
「闇の眷属について知りたいの? 今まで全く興味を示さなかった分野なのに、本当に珍しいね。……熱でもある?」
「もう! からかわないで。……ちょっとお客さんに頼まれたから、どう言う内容か気になっただけよ」
「ふぅん。……でもルシェラ、嘘つく時に髪を弄る癖は直ってないよね」
指摘されて初めて、右の指先に胡桃色の髪が巻き付いていることに気付く。気まずげに揺れた瞳に映るセイルが、してやったりと言わんばかりに首を傾げて意味深に笑った。
「こっ、これは違うの! 違……わないけど、気になるのは本当だもの!」
「別に駄目とは言ってないよ。ただどうしたのかなって不思議には思うけど……何かあった?」
昨夜のことを話していいものかどうか、ルシェラには判断出来なかった。
シャドウもダークベルも疑いようのない現実で、このリトベルのどこかにはシャドウを生む悪魔の残留思念が渦巻いているのだろう。悪魔やシャドウの闇に対抗できるのは、おそらくフォルセリア神殿の聖なる力だけだ。
けれど、闇に近い匂いのするレヴィリウス。シャドウを狩る彼が付けた薔薇の痣は、光と闇のどちら側だろうか。
「ねぇ、セイル。セイルはシャドウって知ってる?」
「シャドウ? 悪魔の使い魔のこと? いにしえの戦争時には、思念を実体化させて前線で戦っていたとも言われているけど」
さすがは神官の教育係に抜擢されるはずだ。たった一言だけでシャドウ関連の本を棚から数冊選び出したセイルが、その中でもルシェラが理解しやすそうな、挿絵の沢山入った一冊を手渡した。
「それは神官見習いになった時、最初に学ぶシャドウのことが書かれている本だよ。もっと上位の悪魔を記した本もあるけど、ルシェラが気になるなら貸してあげようか?」
「本当?」
「私物で幾つか持っているからね。仕事が終わってからで良ければだけど」
「勿論よ! あ、だったら夕方リナス広場で待ってるわ。久しぶりに夕飯どこかで一緒に食べない?」
「いいね。それじゃあ夕方に、また」
軽く手を振って、セイルが本棚の向こうへ消えていく。ルシェラも本を借りる手続きを終えると、時間までに読んでしまおうと急いで古書店へと戻っていった。
肌に触れる光は優しいのに、意識を引き寄せる手は強引で。ルシェラは小さく唸りながら、容赦なく瞼を刺激する朝日から逃れようと体を半回転させた。と同時に重心がぐらりと傾き、理解の追いつかないルシェラの体に鈍い痛みが走る。
「……ったぁ」
呻きながら体を起こすと、ルシェラはベッドから物の見事にずり落ちていた。打ち付けた頭を押さえながら窓へ目を向けると、昨夜の雨が嘘のように空は青く晴れ渡っている。
と、そこで記憶が一気によみがえった。
はっとして顔を向けた先、ドレッサーの鏡に映った自分の姿を見てルシェラは慌ててブラウスの前をかき抱いた。
「夢じゃ、ない」
乱れたブラウスの隙間から、胸元の赤い痣が垣間見える。胸に触れた唇の感触がまざまざとよみがえり、忘れていた熱までもが再び体の奥で燻り始めた。
『ルシェラ』
記憶に残る声が、耳元で甘く囁く。
『君に私の印を付けさせてもらいました』
熱い吐息すら耳朶を掠めていくようで、ルシェラの意識がレヴィリウスの妖しい魅力に塗り潰される。
「……っ」
このままでは危険な熱に捕らわれてしまう。訳もなく焦燥し立ち上がったルシェラは、強引にでも体を冷やしてしまおうとバルスームへ駆け込んで行った。
低めに設定したシャワーを頭から浴びると余計な熱が剥がれ落ち、気持ちも随分と落ち着いてきた。胸の痣が視界に入るとまだドキリとするが、さっきに比べると頭も冷えて冷静に思考が働く。
リトベルとは対を成すように存在する闇の街ダークベル。
いにしえに封じられた悪魔を狩り続けて来た銀髪の男レヴィリウス。
人の負の感情で実体化する悪魔の残留思念をシャドウと呼び、それは今後もルシェラを狙うかのように語っていた。
『君は傷を負ってはいけない』
レヴィリウスの話によれば、ルシェラの血肉はシャドウにとって特別なご馳走のようだ。だから血の匂いを嗅がせてはいけない。執拗に狙われてしまうから。
「でも、それじゃあ……」
ルシェラの血を舐めて陶酔したように笑ったレヴィリウスは何者なのか。
左胸に付けられた赤い薔薇。鬱血痕を思わせる痣は、まるでレヴィリウスのあからさまな独占欲の表れにも思える。
「選択、間違えちゃったかしら」
けれど再度シャドウに襲われれば、今度こそルシェラは命を落とすだろう。そう考えると、未だ謎の多いレヴィリウスだが、彼と契約を結べたことは不幸中の幸いとでも言うのだろうか。
姿見に映る胸の痣を見つめていたルシェラが、ふと上体をくるりと捻って鏡に自身の背中を映した。滑らかに曲線を描く背中、その肩甲骨の辺りに二本の古傷が縦に入っているのが見える。
生まれた時からあるのだと教えられた傷は、白い背中をそこだけくすんだ黒に染めていた。
「前も後ろも傷だらけじゃない」
自嘲じみた言葉だが、浮かべる微笑に自分を卑下する色はない。
シャワーを止めて濡れた髪を纏めると、ルシェラはその傷だらけの体にタオルを巻いてバスルームを後にした。
***
花の都リトベル。
一年中様々な花が色鮮やかに咲く美しい都は、大まかに分けて五つの区域に分かれている。
時計塔のある街の中央区は憩いの場であるリナス広場を囲むように、カフェや洋菓子店など比較的若者に人気の店が集まっている。
中央区から東に伸びる通りは商業区。ルシェラのメイヴェン古書店をはじめ、食料品を扱う市場や警備隊がよく利用する武具などを取り扱う店もあり、その種類は様々だ。
南の通りは居住区で、西は行政区。そして北には荘厳な雰囲気を醸し出す歴史地区が広がっている。
そしてルシェラは今、その歴史地区にある資料館に来ていた。リトベルの歴史に関わる文献等を多く集めた資料館で、丘の上のフォルセリア神殿に仕える神官たちもよく訪れる場所だ。
仕事柄何度か訪れたことのあるルシェラは、記憶を頼りに一階の右奥――貸し出し専用の本棚へと向かう。新旧様々な本や資料が並べられている中、何気に取った本の表紙には「聖女フォルセリアと神々の戦い」の文字と共に、二枚の翼を持つ女性の絵が描かれていた。
***
いにしえの時代。
天の神々と、混沌の闇から生まれる悪魔との戦いがあった。光の勢力である神々の軍勢が優勢ではあったが、光が強ければそれに比例して闇もまた濃く濁る。加えて人間の負の感情を糧に力を増す闇の軍勢に、神々は有利に立ちながらも度々苦戦を強いられていた。
戦いが拮抗する中、神々は一つの計画を実行した。
悪魔の力を増幅させる、人間の負の感情。その弱体化を図り、人間の中に神の力を紛れ込ませたのだ。
選ばれたのは生まれる直前の赤子。ひとしずくの力を受け取った赤子は、背に純白の翼を持って生まれ、神々の使いとして人の世にその名を広く知られていった。
「聖女フォルセリア」
戦いにより疲弊した世界に生まれた、神々の愛し子。
人間を善に導き、負の感情を浄化した聖女フォルセリアの活躍によって悪魔は力を大いに削がれ、神々は見事悪魔の軍勢を討ち滅ぼすことに成功した。
役目を終えた聖女フォルセリアが安住の地として生涯を終えた村は、後に花の都リトベルとして発展を遂げ、今でも根強い聖女信仰が続いている。
***
「あれ? ルシェラ、どうしたの?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、神官服に身を包んだ金髪の青年が本棚の角から顔を覗かせていた。
「うん、ちょっとね。セイルは?」
「神官見習いの教育係になってね、その資料集め。ルシェラは……何? 聖女の歴史に興味が出てきたの?」
ルシェラの手にある本を見て、セイルが柔らかく笑う。
威圧感などとは無縁の柔和な顔立ちの青年は、その温厚な性格から神殿内は勿論のこと一般市民……特に女性からの人気が高い。ルシェラとは幼馴染みで、大人になった今でもたまに食事に行くくらいには仲の良い関係が続いている。
「聖女って言うか、神々の戦いの方かな。でも悪魔に関する資料はあんまり置いてないのね」
「ここは一般市民も立ち入れる場所だからね。暗い部分の資料は必要最低限に留められてるよ」
「フォルセリア神殿には、そういう資料が置いてある?」
意外に食いついてきたルシェラの反応に、セイルが幾分面食らったように瞠目した。
「闇の眷属について知りたいの? 今まで全く興味を示さなかった分野なのに、本当に珍しいね。……熱でもある?」
「もう! からかわないで。……ちょっとお客さんに頼まれたから、どう言う内容か気になっただけよ」
「ふぅん。……でもルシェラ、嘘つく時に髪を弄る癖は直ってないよね」
指摘されて初めて、右の指先に胡桃色の髪が巻き付いていることに気付く。気まずげに揺れた瞳に映るセイルが、してやったりと言わんばかりに首を傾げて意味深に笑った。
「こっ、これは違うの! 違……わないけど、気になるのは本当だもの!」
「別に駄目とは言ってないよ。ただどうしたのかなって不思議には思うけど……何かあった?」
昨夜のことを話していいものかどうか、ルシェラには判断出来なかった。
シャドウもダークベルも疑いようのない現実で、このリトベルのどこかにはシャドウを生む悪魔の残留思念が渦巻いているのだろう。悪魔やシャドウの闇に対抗できるのは、おそらくフォルセリア神殿の聖なる力だけだ。
けれど、闇に近い匂いのするレヴィリウス。シャドウを狩る彼が付けた薔薇の痣は、光と闇のどちら側だろうか。
「ねぇ、セイル。セイルはシャドウって知ってる?」
「シャドウ? 悪魔の使い魔のこと? いにしえの戦争時には、思念を実体化させて前線で戦っていたとも言われているけど」
さすがは神官の教育係に抜擢されるはずだ。たった一言だけでシャドウ関連の本を棚から数冊選び出したセイルが、その中でもルシェラが理解しやすそうな、挿絵の沢山入った一冊を手渡した。
「それは神官見習いになった時、最初に学ぶシャドウのことが書かれている本だよ。もっと上位の悪魔を記した本もあるけど、ルシェラが気になるなら貸してあげようか?」
「本当?」
「私物で幾つか持っているからね。仕事が終わってからで良ければだけど」
「勿論よ! あ、だったら夕方リナス広場で待ってるわ。久しぶりに夕飯どこかで一緒に食べない?」
「いいね。それじゃあ夕方に、また」
軽く手を振って、セイルが本棚の向こうへ消えていく。ルシェラも本を借りる手続きを終えると、時間までに読んでしまおうと急いで古書店へと戻っていった。
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