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第1章 月葬のダークベル

6・君が飽くまでたっぷりとね

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 食事を終えて店を出ると、空には煌々と輝く満月が夜の空を照らしていた。
 ほとんどの店が閉まった商業区の通りには、ルシェラたち以外に人の姿はどこにもなかった。乾いた石畳を歩く靴音が、やけに遠くまで響いていく。

「送ってくれてありがとう。さすがにこの時間をひとりで歩くのは怖かったかも」

 外灯がないわけでもないし、今夜に限っては満月の光だけでも十分に明るい。それでも人の気配がないというのは、それだけで心細いものだ。

「僕だって一応男だからね。ルシェラをひとりで帰すと思った?」
「えっ!?」
「どうしてそこで驚くの。僕が夜道に女性を置き去りにするような男だとでも言いたいのかい? ヒドいな」
「ちがっ、違うの。ごめん。ちょっと勘違いしちゃっただけ」
「勘違いって……あぁ」

 全てを悟ったエメラルドグリーンの瞳が、ルシェラを見つめて意味深に細められる。心の内側まで見透かされたようで、不意打ちに胸が鳴った。

「ルシェラはそういうことに興味ないと思ってたけど」
「セイルが微妙な言い方するからでしょ!」
「そんな風に捉えたのは、僕を異性として見てくれてるってことでいいのかな?」

 一瞬何を言われているのか分からなかった。遅れた思考がセイルの言葉を反芻するうちにメイヴェン古書店の前に着いてしまい、会話の流れは微妙なままで途切れてしまった。

「着いたよ、ルシェラ」
「あ……うん。ありがとう」
「戸締まりはちゃんとしなよ。それから本はいつでもいいからね」

 何事もなかったかのように、セイルが手を振って背を向ける。あまりにも自然すぎる流れにルシェラの方が戸惑ってしまい、帰って行くセイルの背中を追うように声をかけてしまった。

「セイル!」

 振り返ったセイルに、けれどルシェラは続く言葉が見つからない。結局唇をついて零れ落ちた言葉は、ありきたりの別れの挨拶だけだった。

「その……おやすみなさい」
「おやすみ、ルシェラ」

 変わらない笑顔を浮かべたセイルが、軽く手を振って再び歩き出す。その背中が角を曲がって見えなくなるまで、ルシェラはすっきりしない気持ちを抱えたままその場に佇んでいた。

「……エミリアが変なこと言うから」
「彼を意識したとでも? 妬けますね」

 言葉の続きを拾った声が聞こえたかと思うと、両脇から伸びた二本の腕がルシェラの体を背後から柔らかく抱きしめた。突然のことにびくりと震えたルシェラの視界に、星の輝きにも似た銀髪が滑り込む。何のものか分からない、少し甘ったるい香りが鼻腔を突いた。

「……っ、レヴィン!?」
「やっとその愛らしい声で名を呼んでくれましたね。ご褒美にその唇を塞いであげたいところですが……」

 冷たい声音の混じる言葉に顔を上げると、通りの影からひとりの女が現れた。具合が悪いのか、項垂れたまま小刻みに震えているようにも見える。覚束ない足取りで近付く女の様子に異変を感じて駆け寄ろうとしたルシェラを、背中から抱きしめるレヴィリウスの腕が柔らかな拘束となって引き止めた。

「これは珍しい。ひとりの人間に残留思念が引き寄せられるとは……よほどの妬みを買ったようですね、君は」
「えっ? わ、私!?」
「女性の嫉妬はシャドウにも強い力を与えます。あれは明らかに君を狙って実体化したもの。……けれど、君は運がいい」

 項垂れた女の背中から、黒い靄のようなものが溢れ出す。次第に形を成していくシャドウを前にしても、レヴィリウスからは少しの焦りも感じられない。それどころか薄く笑う気配すらして、逆に焦ったルシェラが体を抱くレヴィリウスの腕にしがみ付いた。

「君を守るのはこの私だ。安心して身を委ねているといい」

 翼の生えた女のシャドウが顕現すると同時に、レヴィリウスの右手にいつの間にか握られていた細い鎌が石畳を滑るように弧を描いた。ルシェラを中心にして地面に描かれた円はそのままダークベルへ繋がる門となり、襲いかかったシャドウもろとも一瞬で黒く光る石畳へと吸い込まれていく。後にはさざめく水面のように、とぷんと石畳が一度揺れただけだった。


 ***


 二度目のダークベルも、変わらない闇と静寂と細い三日月でルシェラを妖しげに出迎えた。リトベルでは眩しいほどの満月だったというのに、ダークベルでは三日月の弱い月光が闇に紛れて鋭く光っている。それはまるでレヴィリウスの細い鎌のような輝きだった。

『……ワタシ、ノ……モ、ノ…………カ、レ……ワタ、シ……ノ』

 翼の生えた女のシャドウが、うわごとのように同じ言葉を繰り返している。項垂れたまま、けれど右腕を伸ばしてルシェラを真っ直ぐに指差したまま。

「おやおや。君の幼馴染みの神官は、人の欲を掻き立てるのが上手いようだ。たかだか思念体のシャドウが喋るまでに力を得るとはね」
「セイルがそんなことするはずないわ!」
「えぇ、そうでしょう。無意識ですからね。彼に向かう恋慕の情は、そのほとんどが憎しみや嫉妬へ形を変えて君へと向けられる」

 左腕でルシェラを抱いたまま、大きく振りかぶった鎌の先端をシャドウへ向ける。

「けれど人の嫉妬など取るに足らない。はっきりと示してやれば良いのです。――君は私のものであると」

 人間離れした美しい顔で微笑んだまま、レヴィリウスの黒い鎌が女のシャドウを頭から真っ二つに切り裂いた。悲鳴を上げる間もなく崩れ落ちたシャドウの残骸は見る間に原形を崩し、灰のように細かな粒となってレヴィリウスの鎌へ引き寄せられていく。細い刃に絡みついたシャドウの灰は、やがてその鋭い先端から一粒の黒い雫を落として完全に消失した。

「ネフィ、そこにいますね?」
「バレてる?」

 建物の影から、ひょこりと金目の黒猫が姿を現した。

「君にこれをあげましょう」

 レヴィリウスが自身の指先をくるりと擦ると、そこにさっき鎌から零れ落ちた黒い珠が現れる。指先で摘まめるほどの小さな珠を見て、ネフィの金目が更に爛々と輝いた。

「全部いいのか?!」
「勿論です。その代わり、私が呼ぶまで戻ることを禁じます」

 そう言うや否や、レヴィリウスは小さな珠を遠くの方へ勢いよく放り投げてしまった。

「ふぁっ!? おまっ……投げるなぁぁぁぁ!!」

 本能に従って素早く反応したネフィが、黒い珠を追いかけて闇の街へと消えていく。
 あっという間にネフィの黒い体が闇に溶けて見えなくなる。代わりに路地裏の向こう側から悪態をつく声が響いてきたが、やがてそれも完全に消えてしまうと、夜の街ダークベルには再び不気味な静寂が舞い戻ってきた。

「さて、邪魔者は追い払いましたから、しばらく二人でゆっくりしましょうか」

 そう囁く声は、ルシェラの額にかすかな吐息を落としてくる。
 さっきからずっと、ルシェラはレヴィリウスの左腕に拘束されたままだ。細い腕のどこにそんな力があるのか、抜け出そうともがくルシェラを難なく片腕だけで押さえ込んでいる。
 距離が近いから、囁く声も直接肌を撫でていくように感じてしまう。不本意ながらも高鳴り始めた鼓動を聞かれまいと、ルシェラが精一杯の抵抗を試みてレヴィリウスの胸を両手でぐいっと押し返した。

「助けてくれてありがとう。でももう大丈夫だから、いい加減離してちょうだい」
「そんなに怯えなくても何もしませんよ。あぁ、それとも幼馴染みの神官と同じく、私をも意識していると?」
「怯えてもいないし、意識なんてこれっぽっちもしてないわよ! 勘違いしないで」
「そんなに赤い顔で言われても説得力がありませんよ、ルシェラ」

 するり、と頬と撫でられる。驚いて顔を上げると、全てを見透かすような菫色の瞳が意地の悪い光を浮かべてルシェラを見下ろしていた。

「今後のためにも、お互いの理解を深め合いたいのですが?」
「い・り・ま・せ・ん!」
「嘘はよくありませんね。君は私のことが知りたいのでしょう?」
「そんなこと……」

 反論しようとしたルシェラを含みのある微笑で押さえ込み、レヴィリウスが彼女の持つ紙袋の中から一冊の本を抜き取った。濃紺の表紙には「悪魔の指揮官たち」と書かれている。

「本を読むまでもないでしょう」

 抜き取った本を手渡しで返したその一瞬の隙を突いて、レヴィリウスがルシェラの体を軽々と抱き上げた。

「ちょ……っ!」

 暴れるルシェラを難なく横抱きにしたまま、レヴィリウスが石畳に靴音を響かせて歩いて行く。向かう先はダークベルのメイヴェン古書店。またもひとりでに開いた扉の向こうは本の並ぶ店内ではなく、最初に訪れたレヴィリウスの部屋の中に変わっていた。

「私のことが知りたいのなら、教えてあげましょう」

 ぼふんと落とされたベッドの上。見上げた先に、雄の目をしたレヴィリウスが魅惑的に笑う。

「君が飽くまでたっぷりとね」


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