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第3章 すれ違う思い

16・あの男に君が心を砕く必要はない

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「何をしている」

 初めて聞く声音だった。
 耳にした途端、体の内側から凍っていくような、ぬくもりのかけらもない冷酷なだけの音。見慣れたはずの銀髪も黒衣も、菫色の瞳でさえ一切の熱をなくし、ルシェラの知らないレヴィリウスがそこにいた。
 見つめられるだけで冷たい重圧を感じ、ルシェラに覆い被さったままのセイルヴィノクからぽたりと冷や汗がこぼれ落ちる。それでもルシェラから退く気配のないセイルヴィノクが、視線だけを背後に流して嘲るように笑った。

「よくダークベルから抜け出せたな。さすがは月葬の死神――とでも言うべきか」
「お前に発言は求めていない。さっさとルシェラから離れろ」
「長年の檻も、お前には無用だったか。ダークベルへ堕ちれば聖女への情など偽りだと……」

 言葉の途中にもかかわらず、レヴィリウスがルシェラに跨がったままのセイルヴィノクを思い切り蹴り飛ばした。石ころのように吹き飛んだ体が床を一直線に滑り、激しい音を上げて壁に激突する。
 その隙にルシェラを抱いて引き寄せ、自身のマントを外すと、乱れた着衣を隠すように巻き付けた。
 言葉はなく、目も合わせない。ただ一度だけ壊れ物を扱うように柔らかく抱きしめて壁際へ避難させると、右手に黒い大鎌を持ちセイルヴィノクに向かってゆっくりと歩き始めた。

「久しぶりの再会だと言うのに、あんまりじゃないか。レヴィリウス」

 平然と立ち上がり衣服の乱れを直すセイルヴィノクの額から、赤い血が一筋伝い落ちていく。
 レヴィリウスの蹴りも壁に激突した衝撃も、生身ではきっと耐えられないほどの激痛だろう。だと言うのにセイルヴィノクは何事もなかったように両手を広げ、軽く肩を竦めておどける真似さえする。胃から逆流した血の塊を床に吐き出し、大鎌を手に近付くレヴィリウスを目視してもなお、その顔から笑みが消えることはなかった。

「今の一撃で肋骨が何本かやられたぞ。人間の体は脆いな」

 はっとして顔を向けたルシェラに、セイルヴィノクが意味ありげな視線を送る。その二人の間を断つように、レヴィリウスがルシェラを背後に隠して立ちはだかった。

「その男に配慮する道理はない。ルシェラに触れたその男も同罪だ」

 大鎌を器用に回転させ、背に構えたレヴィリウスが、片足を僅かに後ろへずらして重心を低く構える。上を向いた切っ先が光源もないのに鋭く光り、その細い刃が無慈悲に振り下ろされる光景を想像したルシェラが喘ぐようにセイルの名前を呟いた。

「待っ……て、レヴィン。セイルは……セイルは、操られてただけなの。お願い。彼に何もしないで」

 声は震えて響かない。
 聞こえたのかどうかも分からなかったが、レヴィリウスの纏う空気が一層刺々しい冷気を帯びて爆発した。
 激しく渦を巻く衝撃波に部屋全体が大きく軋み、鈍い音を立てて壁に鋭い亀裂が走る。天井まで達した亀裂から拳ほどの石塊が剥がれ落ち、床に落ちたその音を合図に睨み合っていた二つの影が互いに向かって勢いよく飛びかかった。

 不気味な影の尾を引くレヴィリウスの大鎌と、セイルヴィノクの恐ろしく長く伸びた黒い爪。セイルヴィノクの首を切り落とそうとした大鎌の刃がわずかに早く、容赦のない凍えた一撃が白い喉元へ到達しようとしたその瞬間。

「やめて、レヴィン! 彼を殺さないで!」

 悲痛に訴えるルシェラの懇願と、それを見越してセイルから抜け出したヴィノクが不敵な笑みを浮かべたまま素早く背後に身を退いた。
 勢いの止まらない刃の先に、ヴィノクから解放されたセイルの体が投げ出される。間一髪で大鎌の軌道を強引に逆回転させたレヴィリウスが、止められなかった勢いを柄へ乗せて、そのままセイルの首の後ろを叩き落とした。

「俺を殺すつもりでも、聖女が願えば手心を加えるのだな」

 部屋の隅。澱む闇に紛れて、ヴィノクの黒髪が妖しく揺れる。

「堕ちたものだな、レヴィリウス。どれだけ時間を重ねようと、お前はもう昔には戻れない……いや、戻らないのか」
「ヴィノク。お前とはあの日に決別したはずだ。今更私に何を望む」
「俺が望むのはただひとつ――月葬の死神レヴィリウスの復活だ」

 熱を孕み細められた真紅の双眸に、狂気に満ちた心酔の念が込められる。その視線はまるで愛しい者を見つめているようで、けれど瞳の奥に仄暗い憎悪が渦巻いているようにも思えた。

「必ずお前を元に戻してみせよう。誰もが恐れる月葬の死神に、な」

 言葉が終わると同時に、気配が徐々に消えていく。逃がすものかと投げられた大鎌の刃が届く前にヴィノクの姿は完全に消失し、部屋にはやり場のない怒りが鬱々と溜まっていくだけだった。

 割れた窓ガラスから吹き込んだ風が、カーテンを激しく揺らしている。床に落ちたヴィーンログ歴史書は風に煽られ、乱暴にページを捲る音だけが室内に乾いた音を響かせていた。

「……うっ……」

 レヴィリウスの足元で、床に突っ伏していたセイルが呻いた。荒い呼吸を繰り返しながらやっとの思いで体を動かすと、片肘を床についてゆっくりと顔を上げる。揺らぐ視界にルシェラの姿を確認したかと思うと、レヴィリウスの足がその視線を故意に遮った。

「ル……シェ……」

 微かに漏れ聞こえたセイルの声に反応して、壁際に座り込んでいたルシェラが顔を上げた。間に立つレヴィリウスによってセイルの姿を見る事は叶わなかったが、苦しげに呻く声が身を案じて何度もルシェラの名を呼んでいる。

「セイル……」

 襲われた恐怖で体には未だ力が入らず、足取りも覚束ない。それでも何とかセイルの無事を確かめようと近付いたところで、不意に振り返ったレヴィリウスの腕にルシェラの体が攫われた。
 腰に巻き付いた左腕が、有無を言わさぬ力でルシェラの行く手を阻んでいる。

「レヴィン。セイルは無事なの? さっき肋骨が折れたって……」
「こんな所に長居は無用です」

 口調は戻ったものの、響く声音はまだ熱を取り戻していない。それどころか溢れ出す怒気を必死に押し殺しているようで、ルシェラの腰を抱く腕の力も痛いくらいに強くなる。

「レヴィン……っ!?」

 困惑するルシェラに目を合わせることなく、レヴィリウスがくるりと体の向きを反転させた。バランスを崩したルシェラの体を強引に抱き上げて、無言のままガラスの割れた窓の方へと歩いていく。

「レヴィン、ちょっと……待って! セイルが怪我を……レヴィン!」
「あの男に君が心を砕く必要はない」

 ふわりと窓枠に飛び乗ったレヴィリウスの銀髪が、闇に覆われた夜の世界に妖しく靡く。レヴィリウスの肩越し、その流れる銀髪の隙間から見えたセイルは、傷付いた体で床に這いつくばりながらも必死にルシェラへ手を伸ばしていた。


 ***


 神殿の二階から飛び降りたレヴィリウスは、夜空を駆け、建物の屋根から屋根へ飛び移りながら、リナス広場の時計塔のてっぺんに着地した。
 冷たい風が髪を揺らし、肌から体温を奪っていく。レヴィリウスの胸元にしがみ付く指がかすかに震えていたが、それは風のせいだけではないとルシェラは理解していた。
 無言の怒りが、レヴィリウスから溢れ出していた。
 冷たい声音に、体を支える力の強さに。ゆっくりと吐き出される呼吸にまで静かな怒気が滲んでいる。

「……レヴィ」
「あっ、いた! おぉーい、レヴィン。ルシェラは無事かー!?」

 ルシェラの声を遮って、ネフィが居住区の向こうから空を飛んで近付いてきた。後ろにはケイヴィスの姿も見える。

「お前喚ぶために手当たり次第シャドウを起こしたけどよ、ルシェラの血の匂いに興奮して手が付けられねぇんだよ。幸い聖女の血に引かれて、今んトコは人間には見向きもせずルシェラを目指してるけど……って、おい、聞いてる? レヴィン?」

 見下ろす時計塔の下。リトベルの街の端から、時計塔に向かって黒い影が集まっていた。一部は時計塔を登り始め、波長の合った者の悲鳴が街のあちこちで聞こえてくる。

「シャドウはすべてダークベルへ連れていきます」

 そう言うなり、レヴィリウスが軽やかに時計塔から飛び降りた。シャドウの群がるリナス広場へ爪先が触れると同時に、石畳が水面のようにとぷんと揺れる。揺れてさざめき、レヴィリウスとルシェラを石畳の中へ引きずり込んでいく。
 二人に引き寄せられるようにしてシャドウもずるずると石畳の奥へ消えていき、遅れまいと後に続いたネフィとケイヴィスがリナス広場へ急降下した。けれどもその体は吸い込まれることなく、硬い石畳に跳ね返されて強かに顔を打つ。

「ぶっ!」
「ってぇぇっ!」

 二人揃って顔面を打ち付け、何事かと痛みに堪えながら石畳を睨み付けた。視界の端では最後のシャドウがダークベルへ引きずり込まれていると言うのに、ネフィたちだけが弾かれている。
 闇の領域であるダークベルへ行くことに、悪魔たちは何の制限もないはずだ。そもそもネフィは元よりそこへ封じられていたし、ケイヴィスも一度は自力でダークベルへと赴いている。なのに、何度やってもダークベルへの入り口は開かない。

「レヴィンが入り口を塞いだ……? 何でだ?」

 考え込むネフィの横では、既にケイヴィスがだらけきった様子で座り込んでいる。

「惚れた女が他のヤツに襲われたんだろ? 奪われる前に奪うんじゃねぇの? 惚れた女の濡れ場なんて見せたくねぇだろ」
「はぁ!?」
「まぁ、俺ならさっさと自分のもんにしとくけどな」
「お前と一緒にするな! アイツは……レヴィンは、そんなことしない」

 石畳を掻く手を止めて、ネフィが尻尾を垂らして項垂れた。消えたレヴィリウスを思って再度爪を立ててみるも、その小さな手が石畳をすり抜けることはない。

「レヴィンは……本当にルシェラを愛している。何よりも大切にしてるんだ」
「……大事にしすぎて、こじれまくってんだろうが」

 出会って間もないケイヴィスでさえ、レヴィリウスの絡まりすぎた愛情に気付いている。ネフィもそんなことはとっくに分かっていた。分かっていても、レヴィリウスを諫めることができなかった。
 レヴィリウスの深い愛情の裏に隠れた強い無念を知るのは、ネフィしかいないのだから。

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