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第3章 すれ違う思い

15・僕は悪魔になんか屈しない(*)

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 落日の名残すら消えた空に、じわりと夜の闇が漂い始めていた。
 飛び立つカラスの姿さえ隠す闇に紛れ、空を駆ける焦燥した影がふたつ。目指す神殿に薄く張られた結界を睥睨へいげいし、そこに残る闇の力を確認して顔を顰めた。

「油断した。まさか神殿に同族がいるなんてな」
「レヴィリウスの使い魔が結界に弾かれてちゃ、ざまぁねぇな」
「一緒に弾かれたお前がデカい口叩くんじゃねぇよ! そもそもルシェラに何かあったら、一番ヤバいのはお前だからな! ケイヴィス!」

 再び神殿の前に降り立った一人と一匹の目には、聖なる神殿を覆う闇の結界が今度ははっきりと見て取れる。隠す必要のなくなった結界は薄く微弱で、それでも今のケイヴィスと使い魔程度の力では破壊することは難しい。

「神殿に身を潜めるとは物好きなヤツもいるもんだな。それほど強ぇ悪魔なら、レヴィリウスといい勝負になるんじゃねぇか?」

 自分の力ではどうすることも出来ないと、ケイヴィスは力量の差をあっけなく認めて傍観を決め込んでいる。その足下ではネフィが金色の目を大きく見開いて、全身の毛を逆立てたまま動かない。

「……嘘だろ。何でアイツが」

 神殿の結界に滲む闇の魔力。忘れようにも忘れられない力の残滓に混ざって、甘く濃い血の匂いがした。

「……この匂い……まさかっ!」

 驚愕のままネフィが振り返ると、案の定ケイヴィスが恍惚とした表情を浮かべて神殿を凝視している。
 悪魔を魅了する甘美な匂い。聖なるその血は闇の者を引き寄せる。

「ケイヴィス! おいっ、しっかりしろ!」
「痛ぇ! 引っ掻くんじゃねぇっ」
「一大事だ! さっさと動け、この馬鹿!」

 ネフィの爪が容赦なくケイヴィスの腕を引っ掻いた。堪らず首根っこを掴んで引き剥がすも、袖に爪を食い込ませたネフィが必死の形相でケイヴィスを見上げてくる。

「ルシェラが傷を負った。神殿で何かあったんだ!」
「そりゃ分かるが、どうやって中に入るんだよ。あの結界、俺らにはどうすることも出来ねぇぞ」
「だからだ! 一刻も早くレヴィンをこっちに喚ぶんだよ!」
「あぁ? どうやって……」
「シャドウを無理矢理にでも実体化させろ。人間の欲を煽るんだ! 負の感情で顕現したシャドウは、今ならルシェラの血の匂いに引き寄せられる。ルシェラを狙うシャドウなら、レヴィンの狩りの対象だ!」


 ***


 何の役にも立たなかった聖水の小瓶が、視界の隅で虚しく光を反射している。
 打ち付けた背中の痛みに目を開くまで、ルシェラは自分の身に何が起こったのかを理解できなかった。
 振り返ったセイルに手首を引かれ、視界が反転したかと思うと次の瞬間にはもう仰向けに倒れ込んでいた。強かに打った後頭部が意識を混濁させ、痛みに呻くよりも早く両腕を床に拘束される。
 痛みにより自然と滲み出た涙に揺れて、薄桃色の瞳に映るセイルの顔が卑しく歪んでいた。

「セ……イル……?」
「……ルシェ……っ、逃げ……」

 口元に卑しい笑みを浮かべたまま、けれどこぼれる言葉は苦悶の響きを纏っている。痛みに耐えるように細められたエメラルドグリーンの瞳がくるりを色を変え、仄暗い真紅に微かな色情を絡めてルシェラを見下ろした。

「ほう? 俺を取り込んでなお、意識を保てるか。そこに倒れている男よりは、よっぽどお前の方が神官らしいな」

 ベルトールを一瞥し、セイルの声で侮蔑した『悪魔ヴィノク』が、再び組み敷いたままのルシェラへ視線を戻してにやりと笑う。

「セイ……ル。セイルは、どこ? あなた、セイルに何をしたの」
「あの男なら、今お前を押し倒しているではないか」
「セイルはこんなことしない! 放してっ……セイルを返して!」
「意識あるまま犯される方が好みか? 良かろう。せめてもの慰めに、あの男の意識は残したままお前を穢してやろう」

 ヴィノクの言葉に重なって、セイルの悲痛な叫びがルシェラの鼓膜を震わせる。
 欲に艶めく舌先で自身の唇をひと舐めしたセイルヴィノクが、次の瞬間押さえつけていたルシェラの左手――その中指の先に躊躇いなく歯を立てた。

「……っ!!」

 鋭い痛みに呼吸が止まる。指を噛み切られたのかと驚愕したのも束の間、鮮血の滴り落ちる中指にセイルヴィノクの舌が絡みついた。
 中指の根元まで口に咥え込み、ゆっくりと味わうように舐め上げた舌先が、傷口をいたずらに刺激して指先の痛みを助長する。ルシェラから目を逸らさず、最後にセイルヴィノクがわざとらしく音を立てて、傷付いた中指をきつく吸い上げた。
 血に濡れた唇を親指で拭い、名残惜しげにその指をべろりと舐める。

「聖女の血肉とは、まるで甘美な毒のようなものだな。血の一滴でも口にすれば、それでは足りぬと次から次に欲しくなる。悪魔を虜にするお前は――毒だ、フォルセリア」

 再び両手首を床に押さえつけ、セイルヴィノクが息すらかかる距離まで顔を近付ける。湿った吐息が頬を撫で、セイルの金髪がルシェラの瞼に影を落とした。

「僕から……離れろっ、悪魔ヴィノク!!」
「お前もこの女を抱きたいのだろう? ちょうどいいではないか。二人で思う存分、穢してやろう」
「やめろ! 僕は悪魔になんか屈しない!」

 セイルの顔が苦悶に歪み、愉悦に踊る。せめぎ合う意識を表すように、ルシェラを見下ろす瞳がエメラルドグリーンに戻ったかと思うと真紅がそれを塗り潰していく。

「セイル……。セイル! お願い、戻ってきて!!」
「ル、シェ……ラ……っ」
「セイル!」

 強く名を呼ぶと、はっと目を見開いたセイルが弾かれたように身を退いた。ルシェラを押し倒したままだったが、その顔には困惑と後悔の色が濃く滲み出ている。瞠目する瞳が本来のエメラルドグリーンを取り戻し、憐れみに満ちた眼差しでルシェラを見下ろした刹那――セイルの顔が下卑た笑みを作り上げた。

「セイ……んぅっ!」

 ぶつかり合う唇の奥に、声が押し戻された。強引に押し広げられた唇からぬるりと侵入した舌が、優しさのかけらもなく咥内を所狭しと蹂躙する。
 唾液すら飲み干す勢いで舐め回し、強く舌を吸い上げては絡みつく。甘噛みされ、鈍い痛みに溢れ出す唾液を器用に舌先で掬い上げ、口付けと言う名の終わらない捕食を繰り返される。
 呼吸が追いつかない。息苦しさに意識が酩酊する。一切の気遣いすら感じないその行為に感情などあるはずもなく、痛みさえ伴う口付けにルシェラはこのまま文字通り食べられてしまうのではないかと恐怖した。

 ようやく離れた唇に、呼吸を求めてルシェラの肺が膨らんだ。大きく上下する胸を服の上から鷲掴みにされ、痛みと恐怖に引き攣った喉元に喰らい付かれる。
 ヴィノクの荒々しい吐息に混ざって聞こえるセイルの嗚咽が、ルシェラの恐怖に羞恥心を上乗せした。

「セイ……っ、やめて。……やめ、て……お願い……っ」

 懇願する涙声を嘲笑うように、シャツを引き裂く鋭い音が響き渡った。
 外気に晒された胸元に、湿った吐息が纏わり付く。スカートを押し上げて滑り込んだ冷たい指が太腿を撫で、有無を言わさぬ力で膝を立てられる。

「いやっ……。いやぁぁぁっ!!」

 ルシェラの悲鳴に共鳴し、右目だけ色を戻したエメラルドグリーンの瞳から涙が一粒こぼれ落ちた。

 漆黒に塗り潰された窓の向こう。暗澹あんたんの闇を切り裂いた細い三日月が、に浮かび上がった。

 吹き抜ける一陣の風。
 激しく揺れた窓が、音を立てて砕け散る。
 凍て付くほどの冷気を纏って降り立った黒衣の影から、いつもの笑みが消えていた。

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