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第3章 すれ違う思い

17・君は私のものだと言ったはずだ(*)

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 月葬の街ダークベル。
 リトベルと同じ街の様相に生き物の気配はなく、青白い外灯の続く石畳の向こうまで濃い闇が充満していた。

 闇に紛れて蠢くシャドウの群れ。残留思念が実体化したそれは悪魔や使い魔の姿を模したものや、魔物と呼ばれる類いの獰猛な怪物の姿をしており、皆一様にメイヴェン古書店を目指して押し寄せている。
 けれども古びた古書店を覆う結界に弾かれ、ドアに触れるどころか近付くこともできない。薄暗い明かりの灯る窓の向こうは結界によって歪んで見えず、群がり続けるシャドウの気配に圧されて薄いガラスがカタカタと乾いた音を響かせるだけだった。


 ――ギシッと軋むベッドの音を、耳のすぐそばで聞く。
 薄明かりに照らされ、逆光になったレヴィリウスの顔からはいつもの笑みが剥がれ落ちていた。無表情のまま、押し倒したルシェラを見下ろしている。そのあまりの熱のなさに、ルシェラの胸が恐怖の音を鳴らした。
 体に巻き付けたレヴィリウスのマントをきゅっと胸の前で握りしめ、逃げ場のないベッドの上で怯えた小動物のように身を縮める。無言の冷淡な視線に耐えきれず顔を逸らせば、それすら許さぬとレヴィリウスの長い指が顎を捕らえて正面を向かされた。

「レ、レヴィン……? どうし――」
「何をされた」
「……っ」

 言葉に詰まったルシェラの体が無意識にびくんと震えた。その様子にレヴィリウスの眉間に深い皺が刻まれ、凍えた輝きを宿す菫色の瞳が深い後悔と怒りの波に激しく揺れた。
 顎を捕らえた指先が、震えている。それが怒りなのか悲しみなのか、ルシェラには分からない。

「レヴィンが……レヴィンが心配するような、ことは……何も」

 最悪の事態は免れた。そう伝えたくて口を開けば、レヴィリウスの瞳が更に不快に歪められる。

「あの男を庇っているのですか?」
「そんなつもりじゃ……」

 言葉を塞ぐ目的で、顎を掴んでいた指がルシェラの咥内へ侵入した。強引に唇を割って歯をこじ開けた親指が、嘘は許さぬと言わんばかりに舌を強く押さえ込む。息苦しさに、薄桃色の瞳が涙に揺れた。

「指をまれ」

 ヴィノクに噛み付かれたルシェラの左手。未だ血の滲む中指をきつく吸い上げ。

「肌を晒し、舐められ」

 ルシェラの手を掴み、握りしめていたマントを引き裂くように剥ぎ取り。

「この唇を奥まで犯されておきながら、何もなかったと?」

 咥内から引き抜いた親指。絡みつく唾液を滑らせて、ルシェラの唇を強く擦る。
 潤んだ瞳から涙がこぼれ落ち、苦しげに喘ぐ姿ですら煽情的で。こんな姿を自分以外の男に晒したのかと、レヴィリウスの中に仄暗い怒りと嫉妬が渦を巻いた。

 悪魔ヴィノクが神殿に潜んでいたことを察知できなかった自分への怒り。
 操られていたセイルを咎めず、逆に慈悲さえ求めたルシェラへの困惑。
 陵辱した本人だというのにルシェラに許され、その身を案じられたセイルへの嫉妬は、それまで必死に抑えていた理性をいとも簡単に崩してしまう。

 なぜセイルは許され、自分はいつまでたっても受け入れられないのか。
 自分の下で怯えるルシェラを見ても、今のレヴィリウスにはもう笑顔の仮面は纏えなかった。

「レヴィ――」
「君は私のものだと言ったはずだっ!」

 言葉などいらぬと、強引に唇を奪われた。
 舌をねじ込み、歯列をなぞって、吐息ごとかっ攫う。激情のままに唇を押し付けられ、貪られた。
 逃げようともがく体にのし掛かり、腰に手を回して、隙間など邪魔だと互いの体を密着させる。足で膝を割り、捲れ上がったスカートを押し上げて、冷たい手のひらが太腿をなぞった。愛しむように触れたのは一瞬で、愛憎を抑えきれない指先が太腿の柔肌を強く掴む。

「レヴィン! レヴィっ、やめて!」

 もがくたびに膝を割って入る足が奥へ食い込み、レヴィリウスの手が無遠慮に胸をまさぐった。申し訳程度に絡まった破れたシャツをすべて引き剥がして、あらわになった白い鎖骨に喰らい付かれる。左胸の薔薇の痣を舌先で突いたかと思うと軽く歯を立てられ、痛みなのか疼きなのかわからない感覚がルシェラの全身を襲った。

「……ひぁっ! や……、いや……っ、どうして……。レヴィン!」

 愛のない行為に及ぼうとしているのは、レヴィリウスもヴィノクも同じだ。肌を這う手に、舌に、その熱に恐怖しかないのに、ルシェラの奥ではレヴィリウスから与えられる刺激を心待ちにしているような相反した感情がかすかにあって。
 こんな時でなければ、レヴィリウスのすべてを喜んで受け入れられたはずなのに――と、そう思った瞬間。

『レヴィン。必ずあなたに会いに行くわ。だからそれまで、私を待っていて』

 ルシェラの脳裏に、聞いたことのないの声が木霊した。

 記憶の隅に、不意に浮かび上がる見たこともない光景。
 炭化して燻る森。
 陥落する砦。
 飛び散る鮮血と、倒れ逝く戦士たち。
 翼ある者の亡骸に埋もれて、銀髪の悪魔がひとり佇んでいる。苦悶に満ちた表情を浮かべ、嘆きながらも、命奪う漆黒の大鎌を振っている。
 菫色の瞳からひとすじの涙をこぼしながら、銀髪の悪魔が『フォルセリア』――と切に名を呼んだ。

「なぜだ」

 切ない声音に、ルシェラの意識が引き戻される。見開いた視界に映るのは、菫色の瞳からひとしずくの涙をこぼすレヴィリウスの姿だった。
 唇を掠めて、レヴィリウスが囁く。体を、顔を寄せたまま、ルシェラの頬を指先でなぞる。壊れ物を扱うように。触れるのを躊躇うように。ゆっくりと滑る指先は、かすかに震えていた。

「なぜ私を拒む。なぜ思い出さない。どれだけ時が流れようと、私の思いは変わらないというのに……。昔も今も、変わらず君だけを愛しているというのに」

 間近に重なる菫色の瞳。涙に濡れたその色を見ていると、どうしようもなく胸が軋んだ。

「……レヴィ……」

 名を最後まで呼ぶ前に、ルシェラの上からレヴィリウスが身を退いた。そのままベッドの端に垂れ落ちていたマントを掴むと、それをルシェラの体にかけてやる。けれどもその視線は意図的に逸らされて、真横に引き結んだ唇がかすかに震えていることくらいしか見えなかった。

「道は繋がっている。リトベルへ戻りなさい」

 ルシェラを一瞥もしないレヴィリウスは悲哀を漂わせたまま、最後まで振り向くことはなかった。


 ***


 鏡の道を通り抜け、ルシェラはリトベルの自室へと戻ってきた。鏡を覆う光が消え、鏡面に乱れた姿の自分が映る。慌てて胸元をかき抱いたその手には、レヴィリウスのマントが握られていた。

 神殿でルシェラに掛けてくれた黒いマント。ほのかにレヴィリウスの匂いがする。

「……どうして」

 掠れた呟きは涙を誘い、ルシェラの頬を止めどなく熱い雫がこぼれていく。
 ヴィノクもレヴィリウスも、その口付けは暴力的だった。ルシェラの気持ちなど無視して、欲望のままに貪り尽くす。思い出すだけで体が震える、愛のない口付けだった。
 けれどヴィノクには感じられなかった心の揺らぎが、レヴィリウスにはあったような気がする。
 呼吸を奪う口付けに、胸に落とす唇に、肌を滑る指先にさえ感じたそれは、嫉妬。後悔。焦燥。恋情。そして悲愴。ルシェラを乱暴に扱いながら、その菫色の瞳は苦痛を訴えるかのように切なく揺れ動いていた。

 レヴィリウスが理解できない。合意なく抱こうとした彼を許せない。
 なのに震える手は、体を包む黒いマントを剥ぎ取ることができなかった。

「……ラ。……ルシェラ」

 微かに届いた声に顔を上げると、夜闇を遮った窓が小刻みに揺れていた。

「ルシェラ! おい、大丈夫か!?」

 闇に紛れて、黒い何かが動いていた。かと思うと窓ガラスにピンクの肉球が押し付けられ、声の出所がネフィだと知る。よろよろと立ち上がって窓を開けると、少し冷たい夜風と共にネフィがするりと部屋の中に滑り込んだ。

「レヴィンと二人、ダークベルに消えちまったから心配だったけど」

 気遣わしげに見上げた金色の目が、泣きはらしたルシェラの瞳と重なり合う。加えてひどく不安定な気配を纏うルシェラに、何があったのかは聞くまでもなかった。

「アイツ、また暴走しやがったな。ゴメンな、ルシェラ」
「ネフィが謝ることでも、ないから」

 少し冷たい物言いになってしまったことを感じて、ルシェラがネフィから顔を逸らした。「それもそうか」と呟いたきり、ネフィも口を噤んでしまう。暫くの間、部屋の中に重苦しい空気が漂った。

「――レヴィンのこと……」

 ぽつりとこぼれた名前に、ルシェラの体がおかしいくらいに震える。

「レヴィンのこと、嫌いになったか?」

 本人でもないのに、ネフィが緊張した面持ちで問う。金色の瞳が不安げに揺れた。

「……どうしていいか、分からない。ひどいことされたのに、心の底から拒絶できなくて……まだレヴィンを信じて、しまう」

 ゆっくりと時間をかけて紡ぐ言葉に、止まったと思っていた涙が再び堰を切って溢れ出した。頬を滑り、服を濡らして染みになる。ルシェラの不安を表すように、じわりじわりと広がっていく。

「レヴィンが求めているのはじゃないのに、……っ、愛されていると勘違いしてしまう」
「えっ!? なんでそう……」
「だから嫌なの! 惹かれてしまう自分が嫌で、を見ないレヴィンが嫌で、いつか……いつか聖女の価値がなくなった時に捨てられてしまうんじゃないかって! そう思ったら怖くて……近寄りすぎないようにしてた」

 胸の前で合わせたマントをぎゅっと強く握りしめて、ルシェラが自嘲気味に笑う。

「私はレヴィンにとってでしかないのよ。他の悪魔に奪われそうになったから焦っただけ」
「ルシェラ! お前、それは違――」
「もういいの。今日はもう、疲れちゃった」

 ネフィの体を抱き上げることで言葉を遮り、ルシェラがそのまま窓を開ける。夜の街を見下ろせば、店の前にケイヴィスが立っているのが見えた。
 ヴィノクに襲われたルシェラを心配して、男であるケイヴィスを外で待機させていたのだろう。ネフィの気遣いに胸を温かくしながら、ルシェラはそっと彼の体を屋根の上に放した。

「今夜はもう休ませて……」
「ルシェラ」
「おやすみなさい、ネフィ。色々とありがとう」

 儚げに微笑んで、ルシェラが窓に手をかける。せばまる隙間に顔を寄せて叫んだネフィの声は、窓ガラスに阻まれて夜の闇に転がり落ちていった。

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