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これまでのこと
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王国史学の授業が終わり、生徒たちは次々と席を立って教室から出ていく。隣で荷物をまとめて立ち上がったサミュエルが、もたもたと教科書やノートを片付けているミオに声を掛ける。
「俺、この後部活の見学に行くけど、どうする?」
「あー……。先に寮に戻るよ」
なんとなく誰かと一緒にいたくないような気がして、ミオはサミュエルにそう答えた。サミュエルはどこか怪訝そうにミオの顔を見たが、「そう」とだけ言った。
教室を出た後、サミュエルと別れてミオは紫寮への道を1人で歩いた。通路に敷かれた石畳の隙間から溢れ出すように生えている草の青さを眺める。いつもの景色がどこか作り物めいて見える。現実感のない視界とまとまらない思考を持て余しながら、機械的に足を前に出す。
ふと、目の端に堅牢な石造りの建物が映る。通路脇に植えられた木々に隠れるようにして建っているのは、この学校の図書館である。その建物の前で足を止めたミオは、先ほどの王国史学の授業内で、参考書として紹介されていた書籍名を思い浮かべた。図書館にはまだ入ったことはないし、と誰に言うでもない弁明を頭の中で唱えながら、薄暗い図書館の玄関へと足を向けた。
図書館はグラントリー校の設立とほぼ同時期に開設され、リスタット王国内でも有数の蔵書量を誇っている。その反面、「迷いの図書館」とも呼ばれる曰く付きの施設でもあった。
「痛み無くして、得るものは無し」という設立者の信条を学内で最も色濃く反映したこの建物には、数多の幻惑魔法や隠蔽魔法が仕掛けられている。図書館の奥に進めば進むほど、仕掛けられた魔法はより強力になるが、かわりに滅多にお目にかかることのできない稀覯本が数多く隠されているという。
このような性質上、図書館内には生徒のみでの立ち入りが制限されている区画が何か所か存在していた。
ミオは図書館の玄関をくぐり、エントランスへ入る。この時点ですでに無数の魔法の気配がする。多少ためらいつつエントランスから閲覧室へつながる扉を開いた瞬間。
幾百もの気配がこちらを窺っているような感覚に襲われる。おそらくは、図書館内に施された種々の魔法によるものだが、ここまで圧倒的な量の魔法を一度に目の当たりにしたことはなかった。
突如として魔法の奔流に呑まれたミオは、半分混乱した頭で、自らの魔力を図書館内に放つ。物質に干渉しない程度の濃度で自分を中心として広がる魔力。それに触れた自分以外の魔力の位置と強さをミオは感知することができる。
戦場にいた時分、誰に教わるでもなく身に着けた技術だった。この技術を彼の叔父は「クジラのようだ」と形容した。
一瞬で図書館内を走査した魔力から、仕掛けられた魔法と図書館内にいる人間の位置を把握する。攻撃的な魔力がないことを確認したミオの頭は混乱状態から復帰した。しかし、冷静になったことで、新たな問題に気付いてしまった。
図書館の奥にとても嫌な感じのする魔力が固まっている。魔法ではない、人間の魔力だ。その覚えのある胡乱さに気分が悪くなる。
このまま何もせずに図書館を出ていってしまおうか、そう思う心とは裏腹に、ミオの頭はすでにそれを排除しようと考えを巡らせていた。そして、図書館内に散在している人間の中で一際強い魔力の持ち主にあたりをつける。
吹き抜けになっている図書館ホール内、1階の閲覧席が並べられているエリアを横切る。入り口のほぼ反対側まで進んだところで立ち止まり頭上を見上げた。そこには凝った装飾が施された手すりが設置され、その向こうは2階部分となっている。
ミオは軽く床を蹴ってふわりと浮き上がる。そのまま上昇して、目の前まで来た手すりを飛び越えて、2階の床にゆっくりと着地した。足の裏に柔らかい絨毯の感触が伝わってくる。2階は手すりに対して垂直にいくつも本棚が並べられている。立ち並ぶ本棚の影に隠れるように置かれた1人掛けのソファにその人は腰かけていた。
緩やかに波打つ髪の毛は優しいミルクティー色で、窓から入る日の光を反射させてきらきらと輝いている。同じ色の長い睫毛が滑らかな頬に繊細な影を落とす。
一条の光の中で、悠然と足を組んで俯きがちに本を読んでいるその姿は美しく完成されていて、1枚の絵画のようでさえあった。
「あの」
近くに仕掛けられていた隠蔽魔法を払い除けて、ミオは恐る恐るその人に声を掛ける。自分に向けられた声で初めてミオの存在に気付いたであろうその人は、手元の本に落とされていた視線をゆっくりと上げる。
──たいまつのいろ。
一瞬、ミオは本来の目的を忘れて彼の瞳にくぎ付けになる。夜闇を照らす松明の色。ゆらり、と音もなく揺らめく橙色を含んだ金色の瞳だった。
「どうかした?」
日の光を受けて透き通ったように輝く瞳を緩めて、目の前の人物が答える。その声にハッと我に返ったミオは、少し吃りながら言う。
「あ、あっちに悪いことをしてそうな人がいるので、来てほしいんですけど」
「……悪いことって?」
要件を伝えると彼は驚いたような顔でミオに問い返す。ミオは彼のタイの色を一瞬確認してから答える。
「……わからないですけど……良くはない……」
我ながら要領を得ない回答だと、自分で呆れる。もし彼が来てくれなかったら1人で行こうか、サミュエルを呼んだ方がいいだろうか。思考を飛躍させているミオに対して、ちょっと小首を傾げてから、彼は手に持っていた本を静かにたたんで立ち上がった。
「いいよ。案内してくれる?」
ミオは知らず知らずのうちに下を向いていた顔を反射的に上げた。ぱちりと目線が合うと彼は造作の整った顔に笑みを乗せる。佇まいと同様の完璧な微笑みにどこか居心地が悪くなったミオは、無言で頷くと踵を返して歩き出した。
きちんと階段を使って1階へ降りると、いくつも並んだ背の高い本棚をすり抜けながら奥へと進む。ミオはちらちらと後ろを確認しながら、そのたびに彼がきちんとついてきてくれていることにほっとする。時折、仕掛けられた魔法が発動するが、構わず振り払う。
「その先は立入禁止だよ」
通路の入り口に渡された赤いロープを跨いでさらに先に進もうとしたとき、後ろから声が掛かる。ミオは振り返ってその声の主に返答する。
「でもこの先なんです」
本棚の奥からは今までよりも強い魔法の気配がする。きっとより高度な魔法が仕掛けられている。でも大したことはない。目的地くらいまでだったらミオは問題なく対処できる。
そう伝えようとしたが、後ろに立つ彼は、顎に手を当ててなにやら考え込み始めてしまった。ミオが彼と通路の奥を交互に見比べていると、彼は顎に当てていた手を外して手のひらを上に向ける。その手の上にどこからともなく取っ手のついた糸巻が現れた。ロープと同じ赤色の糸が巻き付けてある。
彼は渡してあるロープに近寄ると、そこに赤い糸を結んだ。
「さあ、これで迷わない。はい、これ持って」
「は、はい」
隣にいたミオに糸巻を押し付けると、彼は微笑んで先を促す。ミオはロープを跨ぐと糸巻から糸を引き出しながら先へ進む。ミオに続いてロープを跨いだ彼は、引き出された糸を確かめるように指先でなぞった。すると、彼の触れた指先に沿って糸がほのかに光を帯びる。彼が糸に触れるたびに、ミオは手元の糸巻がかすかに後ろに引かれるのを感じながら薄暗い通路を進んだ。
強い幻惑魔法に時折足を止めながらも順調に歩を進めていたとき。
突然、甘ったるさを過分に含んだ焦げたような匂いがミオの鼻をかすめた。それを吸い込まないよう咄嗟に手で鼻を覆う。嗅ぎ覚えのあるその匂いに生理的な嫌悪感が湧いて思わず顔をしかめる。ちょうど、胡乱な魔力を感じた辺りだった。
周囲をきょろきょろと見回すと、隠蔽魔法が施された狭い通路がある。その稚拙な構造に図書館の物ではないとすぐに知れる。ミオが隠蔽魔法を破ると、今まで漂っていた甘ったるい匂いが途端に強くなった。思わず口元をおさえて咳き込む。
ミオは咳き込むのを何とか抑えながら、後ろを歩いていた彼に通路を見るように視線だけで促す。彼はミオを一瞥すると、本棚の影から身を乗り出すようにして通路の様子を確認した。
そこには3人の生徒がしどけなく本棚を背に座り込んでいた。虚空を見つめる目は焦点が合っておらず、半開きになった口からよだれが垂れている。手には細長い管のようなものを持っていて、その先端から次々と甘ったるい匂いの煙が立ち上っている。
その光景を目にしたミオはやっぱり、とだけ思った。それ以外は生理的な嫌悪感と胃の中身が逆流しそうな不快感しかなかった。
「俺、ここにいた方がいいですか。それとも誰か呼んできましょうか」
床に座る3人とその状況をいやに淡々と見ていた金の瞳の彼に問いかける。ミオに顔を向けた彼は少し目を見開いて言う。
「大丈夫? 随分と顔色が悪いみたい」
「平気です。誰か呼んできたほうがいいですか」
なおも質問を重ねたミオに彼は少し眉毛を下げながら答える。
「君はもう帰っていいよ。後は僕が引き受けよう。……本当に大丈夫?」
心配気に聞いてくれる彼には悪いが、もう1秒でも長くここにいたら吐いてしまいそうだった。なるべく失礼にならないように、でも素早くお礼を言って踵を返した。数歩歩いてからちらりと後ろを振り返ると彼は耳に手を当てて誰かと話しているようだった。
口元に手を当てて嘔吐感をやり過ごし、大きく息を吸う。そうすると服や髪の毛に甘い匂いがまとわりついていることに気付いて、魔法でそれらを振り払う。時折ゆがむ視界の端で通路に点々と灯っている橙色の光を見つけた。
──あの人の光だ。
立入禁止区画を出るまでの間、ミオは等間隔で並ぶ暖かな色合いの光をずっと無心で辿っていた。
図書館を出たあとは、どこをどうやって歩いたのか覚えていないが、気づいたら寮のトイレの便器の前にうずくまって胃の中身を全部吐き出していた。吐く物がなくなっても消えない胃の不快さを抱えながら、自室にたどり着くと上着も脱がずにベッドへ倒れこんだ。
嘔吐感がましになった代わりに頭全体が締め付けられるような痛みが訪れている。夕闇の迫る薄暗いベッドの上で自分の胸元をシャツごとぎゅっと握りしめる。その下にある青い石の感触を確かめるように指先で撫ぜた。朦朧としていく意識に逆らわず、ミオは静かに目を閉じた。
「俺、この後部活の見学に行くけど、どうする?」
「あー……。先に寮に戻るよ」
なんとなく誰かと一緒にいたくないような気がして、ミオはサミュエルにそう答えた。サミュエルはどこか怪訝そうにミオの顔を見たが、「そう」とだけ言った。
教室を出た後、サミュエルと別れてミオは紫寮への道を1人で歩いた。通路に敷かれた石畳の隙間から溢れ出すように生えている草の青さを眺める。いつもの景色がどこか作り物めいて見える。現実感のない視界とまとまらない思考を持て余しながら、機械的に足を前に出す。
ふと、目の端に堅牢な石造りの建物が映る。通路脇に植えられた木々に隠れるようにして建っているのは、この学校の図書館である。その建物の前で足を止めたミオは、先ほどの王国史学の授業内で、参考書として紹介されていた書籍名を思い浮かべた。図書館にはまだ入ったことはないし、と誰に言うでもない弁明を頭の中で唱えながら、薄暗い図書館の玄関へと足を向けた。
図書館はグラントリー校の設立とほぼ同時期に開設され、リスタット王国内でも有数の蔵書量を誇っている。その反面、「迷いの図書館」とも呼ばれる曰く付きの施設でもあった。
「痛み無くして、得るものは無し」という設立者の信条を学内で最も色濃く反映したこの建物には、数多の幻惑魔法や隠蔽魔法が仕掛けられている。図書館の奥に進めば進むほど、仕掛けられた魔法はより強力になるが、かわりに滅多にお目にかかることのできない稀覯本が数多く隠されているという。
このような性質上、図書館内には生徒のみでの立ち入りが制限されている区画が何か所か存在していた。
ミオは図書館の玄関をくぐり、エントランスへ入る。この時点ですでに無数の魔法の気配がする。多少ためらいつつエントランスから閲覧室へつながる扉を開いた瞬間。
幾百もの気配がこちらを窺っているような感覚に襲われる。おそらくは、図書館内に施された種々の魔法によるものだが、ここまで圧倒的な量の魔法を一度に目の当たりにしたことはなかった。
突如として魔法の奔流に呑まれたミオは、半分混乱した頭で、自らの魔力を図書館内に放つ。物質に干渉しない程度の濃度で自分を中心として広がる魔力。それに触れた自分以外の魔力の位置と強さをミオは感知することができる。
戦場にいた時分、誰に教わるでもなく身に着けた技術だった。この技術を彼の叔父は「クジラのようだ」と形容した。
一瞬で図書館内を走査した魔力から、仕掛けられた魔法と図書館内にいる人間の位置を把握する。攻撃的な魔力がないことを確認したミオの頭は混乱状態から復帰した。しかし、冷静になったことで、新たな問題に気付いてしまった。
図書館の奥にとても嫌な感じのする魔力が固まっている。魔法ではない、人間の魔力だ。その覚えのある胡乱さに気分が悪くなる。
このまま何もせずに図書館を出ていってしまおうか、そう思う心とは裏腹に、ミオの頭はすでにそれを排除しようと考えを巡らせていた。そして、図書館内に散在している人間の中で一際強い魔力の持ち主にあたりをつける。
吹き抜けになっている図書館ホール内、1階の閲覧席が並べられているエリアを横切る。入り口のほぼ反対側まで進んだところで立ち止まり頭上を見上げた。そこには凝った装飾が施された手すりが設置され、その向こうは2階部分となっている。
ミオは軽く床を蹴ってふわりと浮き上がる。そのまま上昇して、目の前まで来た手すりを飛び越えて、2階の床にゆっくりと着地した。足の裏に柔らかい絨毯の感触が伝わってくる。2階は手すりに対して垂直にいくつも本棚が並べられている。立ち並ぶ本棚の影に隠れるように置かれた1人掛けのソファにその人は腰かけていた。
緩やかに波打つ髪の毛は優しいミルクティー色で、窓から入る日の光を反射させてきらきらと輝いている。同じ色の長い睫毛が滑らかな頬に繊細な影を落とす。
一条の光の中で、悠然と足を組んで俯きがちに本を読んでいるその姿は美しく完成されていて、1枚の絵画のようでさえあった。
「あの」
近くに仕掛けられていた隠蔽魔法を払い除けて、ミオは恐る恐るその人に声を掛ける。自分に向けられた声で初めてミオの存在に気付いたであろうその人は、手元の本に落とされていた視線をゆっくりと上げる。
──たいまつのいろ。
一瞬、ミオは本来の目的を忘れて彼の瞳にくぎ付けになる。夜闇を照らす松明の色。ゆらり、と音もなく揺らめく橙色を含んだ金色の瞳だった。
「どうかした?」
日の光を受けて透き通ったように輝く瞳を緩めて、目の前の人物が答える。その声にハッと我に返ったミオは、少し吃りながら言う。
「あ、あっちに悪いことをしてそうな人がいるので、来てほしいんですけど」
「……悪いことって?」
要件を伝えると彼は驚いたような顔でミオに問い返す。ミオは彼のタイの色を一瞬確認してから答える。
「……わからないですけど……良くはない……」
我ながら要領を得ない回答だと、自分で呆れる。もし彼が来てくれなかったら1人で行こうか、サミュエルを呼んだ方がいいだろうか。思考を飛躍させているミオに対して、ちょっと小首を傾げてから、彼は手に持っていた本を静かにたたんで立ち上がった。
「いいよ。案内してくれる?」
ミオは知らず知らずのうちに下を向いていた顔を反射的に上げた。ぱちりと目線が合うと彼は造作の整った顔に笑みを乗せる。佇まいと同様の完璧な微笑みにどこか居心地が悪くなったミオは、無言で頷くと踵を返して歩き出した。
きちんと階段を使って1階へ降りると、いくつも並んだ背の高い本棚をすり抜けながら奥へと進む。ミオはちらちらと後ろを確認しながら、そのたびに彼がきちんとついてきてくれていることにほっとする。時折、仕掛けられた魔法が発動するが、構わず振り払う。
「その先は立入禁止だよ」
通路の入り口に渡された赤いロープを跨いでさらに先に進もうとしたとき、後ろから声が掛かる。ミオは振り返ってその声の主に返答する。
「でもこの先なんです」
本棚の奥からは今までよりも強い魔法の気配がする。きっとより高度な魔法が仕掛けられている。でも大したことはない。目的地くらいまでだったらミオは問題なく対処できる。
そう伝えようとしたが、後ろに立つ彼は、顎に手を当ててなにやら考え込み始めてしまった。ミオが彼と通路の奥を交互に見比べていると、彼は顎に当てていた手を外して手のひらを上に向ける。その手の上にどこからともなく取っ手のついた糸巻が現れた。ロープと同じ赤色の糸が巻き付けてある。
彼は渡してあるロープに近寄ると、そこに赤い糸を結んだ。
「さあ、これで迷わない。はい、これ持って」
「は、はい」
隣にいたミオに糸巻を押し付けると、彼は微笑んで先を促す。ミオはロープを跨ぐと糸巻から糸を引き出しながら先へ進む。ミオに続いてロープを跨いだ彼は、引き出された糸を確かめるように指先でなぞった。すると、彼の触れた指先に沿って糸がほのかに光を帯びる。彼が糸に触れるたびに、ミオは手元の糸巻がかすかに後ろに引かれるのを感じながら薄暗い通路を進んだ。
強い幻惑魔法に時折足を止めながらも順調に歩を進めていたとき。
突然、甘ったるさを過分に含んだ焦げたような匂いがミオの鼻をかすめた。それを吸い込まないよう咄嗟に手で鼻を覆う。嗅ぎ覚えのあるその匂いに生理的な嫌悪感が湧いて思わず顔をしかめる。ちょうど、胡乱な魔力を感じた辺りだった。
周囲をきょろきょろと見回すと、隠蔽魔法が施された狭い通路がある。その稚拙な構造に図書館の物ではないとすぐに知れる。ミオが隠蔽魔法を破ると、今まで漂っていた甘ったるい匂いが途端に強くなった。思わず口元をおさえて咳き込む。
ミオは咳き込むのを何とか抑えながら、後ろを歩いていた彼に通路を見るように視線だけで促す。彼はミオを一瞥すると、本棚の影から身を乗り出すようにして通路の様子を確認した。
そこには3人の生徒がしどけなく本棚を背に座り込んでいた。虚空を見つめる目は焦点が合っておらず、半開きになった口からよだれが垂れている。手には細長い管のようなものを持っていて、その先端から次々と甘ったるい匂いの煙が立ち上っている。
その光景を目にしたミオはやっぱり、とだけ思った。それ以外は生理的な嫌悪感と胃の中身が逆流しそうな不快感しかなかった。
「俺、ここにいた方がいいですか。それとも誰か呼んできましょうか」
床に座る3人とその状況をいやに淡々と見ていた金の瞳の彼に問いかける。ミオに顔を向けた彼は少し目を見開いて言う。
「大丈夫? 随分と顔色が悪いみたい」
「平気です。誰か呼んできたほうがいいですか」
なおも質問を重ねたミオに彼は少し眉毛を下げながら答える。
「君はもう帰っていいよ。後は僕が引き受けよう。……本当に大丈夫?」
心配気に聞いてくれる彼には悪いが、もう1秒でも長くここにいたら吐いてしまいそうだった。なるべく失礼にならないように、でも素早くお礼を言って踵を返した。数歩歩いてからちらりと後ろを振り返ると彼は耳に手を当てて誰かと話しているようだった。
口元に手を当てて嘔吐感をやり過ごし、大きく息を吸う。そうすると服や髪の毛に甘い匂いがまとわりついていることに気付いて、魔法でそれらを振り払う。時折ゆがむ視界の端で通路に点々と灯っている橙色の光を見つけた。
──あの人の光だ。
立入禁止区画を出るまでの間、ミオは等間隔で並ぶ暖かな色合いの光をずっと無心で辿っていた。
図書館を出たあとは、どこをどうやって歩いたのか覚えていないが、気づいたら寮のトイレの便器の前にうずくまって胃の中身を全部吐き出していた。吐く物がなくなっても消えない胃の不快さを抱えながら、自室にたどり着くと上着も脱がずにベッドへ倒れこんだ。
嘔吐感がましになった代わりに頭全体が締め付けられるような痛みが訪れている。夕闇の迫る薄暗いベッドの上で自分の胸元をシャツごとぎゅっと握りしめる。その下にある青い石の感触を確かめるように指先で撫ぜた。朦朧としていく意識に逆らわず、ミオは静かに目を閉じた。
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