孤独の水底にて心を知る

あおかりむん

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これからのこと

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『ミオ、よくお聞きなさい。祝女とはことぐ者。この身に受けた祝福を、祝福によって返報する者。神として祀られようと、わたしたちは遍くこの世に宿る精霊に、お力を借りているだけ。いつ如何なる時もゆめそのことを忘れてはなりませんよ』


 ──あのひとから教わったことは多くない。『水脈』の視方のほかはごく基本的な術式の扱いをほんの少し聞かされたくらいだ。

 ホウリの証である青色だけをその身に残したひと。ただ、躊躇いがちにミオに触れるひんやりとした指先の感触だけは不思議とよく覚えている。



§



 目を開けるとまず天蓋のたっぷりとした布が目に入った。数十秒間それを眺めてから、ようやくここが数週間前から自分にあてがわれているベッドの上なのだと理解した。仰向けで天蓋の内側をぼんやり見つめていたミオの耳にカチャカチャという食器が触れ合う僅かな音が届いた。きっとセバスチャンが室内にいるのだと思い、ギシギシと軋むような関節をゆっくり動かして身体を起こそうとしたが見事に失敗する。ぼすん、と柔らかいシーツに顔から突っ込んで思わず舌打ちをした。また幾日か寝込んでいたミオの身体はベッドの上でごろごろしているしかない能無しに逆戻りしたらしかった。


「ミオ様! お目覚めになりましたか?」

「ぁ……」


 ミオの身じろぎの音を聞きつけたのか、やはり室内にいたセバスチャンが珍しく早足でベッドサイドへ駆け付けた。シーツに突っ伏した顔を上げて大事ないことを伝えようと口を開くも、喉が貼り付いたように声がうまく出なかった。


「ご無理なさらず。さ、お体を動かしますね。お水もお食事も用意してございます。それから、若先生を呼びますから診ていただきましょう」


 てきぱきとミオの世話を焼くセバスチャンは皺だらけの顔ににっこりと満面の笑みを浮かべている。ミオの身の回りの世話がこの世で最も楽しいことだとでも言いそうなその顔は、彼が世話係となってから何度も見てきたものだ。ミオの身体をベッドの枕元に積んだクッションに凭れさせたり、果物の香りがついた水をゆっくり飲ませたりするのはあまり楽しいことではないように思うが、事実彼は世話焼きという行為を大いに楽しんでいるのだ。ミオの理解は全く及ばないが。

 そしてミオの理解が及ばない人物はこの別邸にもう1人いる。


「なあぁぁぁんで、こんなに魔力を使っちゃうんですかあぁぁぁ……! 僕の話聞いてました? リハビリの意味もご説明しましたよね? 僕の思い違いでしたか? じゃあこの記憶は何? まぼろし?」

「す、すみません……」

「僕としましても、すみませんで健康になれる世界を目指しておりますけれども」

「若先生、お言葉に気を付けて」


 セバスチャンの叱責を受けて彼は失礼いたしました、と深々と頭を下げた。しかし、次に顔を上げた時のその目は恐ろしいほどに虚ろでミオは一瞬呼吸の仕方を忘れてしまった。


「……ミオ様は回復力がかなり高いようなので、2日間高熱にうなされる程度で済みました。済みましたが、これはあくまで結果論です。体内で複数の魔力短絡が起きたら、手の痺れどころか手足がまったく動かなくなる可能性だってあったんですよ」

「はい……」


 先ほどとは打って変わって淡々となされる説教にミオは顔を上げていられず、しおしおと己の手元に視線を落とした。あの時、自分の身体のことなんてこれっぽっちも考えていなかった。そういう考え自体、頭をよぎることさえなかったのだ。本人がこの調子にもかかわらず、この臨時の主治医はミオの身体のことをミオよりもよほど気遣ってくる。数週間前に顔を合わせたばかりの他人のことでここまで一喜一憂する彼の姿勢は完全にミオの理解を越えていた。

 乾燥した指先を意味もなくこすり合わせながら滔々と続く説教を大人しく聞いていると、ふつりと若先生の話が途切れた。不思議に思ってそろりと顔を上げれば、こちらをじっと見つめる怜悧な瞳と視線がかち合った。


「は、反省してます……」

「もちろんです。反省してください」


 ミオの直接的過ぎる反省の言葉に若先生はクスリと笑ったあと、幾分表情を緩めて静かに言った。


「あなたが自己犠牲を拒んだとしても、誰もあなたを責めやしないんだよ」

「え……」

「若先生」


 若先生の言葉を再びセバスチャンが制すれば、彼もまた同じようにミオに頭を下げた。そのあとすぐに気を取り直して今後の治療計画について話始めてしまったので、ミオは彼の言葉の意味を尋ねる機会を逸してしまった。

 結局、ミオには明日までの絶対安静が言い渡された。といっても日中過ごす場所が居間のソファか寝室のベッドかの違いしかないのだが。ミオはまだ日も高いうちからごろりとベッドに寝転びながら暖炉へ薪を足しているセバスチャンの背中を眺めていた。そのぴしりと伸びた背中に向かって何とはなしに声を掛けた。


「なんかさあ」

「はい。いかがなさいましたか?」

「俺、昔のこと思い出してから変じゃない?」

「変……と申しますと?」


 ミオの問いかけにセバスチャンは作業を中断してベッドの近くへ歩み寄ってきてくれる。そして重ねて問うたミオの言葉に、はてと小首を傾げて見せた。


「ヘレナの時とか、今回もそうだけど……つい神様っぽく喋っちゃうときがあるんだよ。今はもうそんなんじゃないのに。……『水脈』を視たりしたからかな……」


 ほう、と相槌を打ったセバスチャンはしばし考え込むように顎に手を当てて沈黙したあと、ぴんと人差し指を立てて言った。


「幼い時分に身につけたものは老いてなお染み付いて離れないと申します。先般のお立ち振る舞いは御身の貴さにふさわしいものでございましたよ」

「……確かに俺は貴いのかもしれないけどさ……。それはヘイノラの中だけの話で、今はベーヴェルシュタム家の遠縁でしかないだろ。おじいさまの領地の人たちに俺が偉そうにするのはおかしいよ」


 ごろりとうつ伏せになり腕に顎を乗せてそう言えば、セバスチャンはなぜだか愉快そうに笑った。おかしなことを言っただろうか。ミオが顔をしかめると、彼は大仰に咳払いをしてから言った。


「ベーヴェルシュタム家は本来ヘイノラの御一族に仕える身にございます。さすれば、ベーヴェルシュタム家の領地を含む全ての財産はミオ様の物と言っても過言ではないと存じます」


 世話係から飛び出たとんでもない言い分にぎょっと目を剥いて思わず叫んだ。


「過言だよ! やめてよ、そんな怖いこと言うの! 俺はもう誰かにかしずかれたりしたくないんだってば」

「ミオ様、絶対安静ですよ」


 ミオの興奮を制するように両手のひらを見せたセバスチャンは、その向こうから硬質な声で諫言してくる。興奮させるような事を言う方が悪いとは思うが、説教中の医者の据わった目を思い出してミオは起こしかけた上半身を渋々ベッドに戻した。

 じっとりとセバスチャンを睨んで不服を訴えれば、彼はベッドの傍らにゆっくりと片膝をついた。こちらを見上げる彼の顔には先ほどまでのからかうような表情は無く、穏やかな微笑みが乗っている。


「旦那様もケイ様も、ミオ様が望むままに生きていかれることを願っておいでです。崇敬を厭うのであれば、ベーヴェルシュタム家より離れて暮らすこともできましょう。貴族社会と関わらずに生きてゆくことはさほど難しいことでもございません」


 静かに紡がれる声は、いたわりと慈しみに満ちていた。彼の言葉に偽りが無い事など、考えずともわかる。長い間、ミオの一番近くにいたのは彼なのだから。


「しかし、いち従者として申し上げるならば、高貴さとは他者を跪かせるためだけの物ではないとお心に留めていただきたく思います。ミオ様の祝女様としての立ち居振る舞いも、本当の意味で必要となる時がきっと訪れましょう。ご自分の持てるものを否定しすぎませんよう」


 そう結んだセバスチャンの柔和な笑みを見つめ返しながら、ミオはぎゅっと眉根を寄せる。


「必要になるって、どんな時に? そんなこと絶対無いと思うんだけど」

「いいえ、きっとございますよ。状況はその時なってみなければわかりませんが」

「はあ? 適当なこと言うなよ」

「おや、適当などとは心外な。ベーヴェルシュタム家とセドリック様に仕えて五十有余年、ミオ様のお世話係を務めてもうすぐ6年目。長年の経験に裏打ちされた勘にございますよ」


 実際の数字を出してくるのは卑怯だ。妙に説得力が増す。ミオの何倍も生きている相手にそんなふうに言われてしまうと反論も思い浮かばず、悔し紛れに睨むくらいのことしかできなかった。


「……なんだよ、今日は妙につっかかるな……」


 負け惜しみにそう言えば、思ったより拗ねたような声が出て途端に恥ずかしくなる。そんなミオの様子には気づいていないのか、セバスチャンは目を瞑り少し俯いた。そして何かを堪えるように拳を握って声を絞り出した。


「ええ、無礼を承知で申し上げてもよろしいでしょうか?」

「い、いいけど」


 常には無い世話係の様子にミオは戸惑いながらも許可を出した。ミオの言葉を聞いて目をあけたセバスチャンは、こちらをじっと見つめて意を決してというふうに口を開いた。


「サンプソンに下命しておりましたミオ様のお姿、従者心にグッときました」

「じゅうしゃごころ」

「ご当主となられたばかりのころ、王城で啖呵を切られたセドリック様以来の胸の高鳴りでございました」

「ちょっと何言ってるか分かんないんだけど……」

「ミオ様の世話係を拝命して本当に良かったと思った、とご理解くださいませ」


 ひとりで納得したようにうんうんと頷くセバスチャンを前にして、ミオは首を捻ることしかできなかった。



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