孤独の水底にて心を知る

あおかりむん

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これからのこと

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 ぴちゃん。

 天井から落ちた水滴が湯船に跳ねて音を立てる。ミオは少し熱めの湯につかりながら知らぬ間にかじかんでいたらしい身体がほぐれてゆく心地よさに何度目かの溜め息をついた。バスタブの縁に頭を預けて己の鼓動に合わせて小さく波打つ水面をぼんやりと眺めていれば、少しくぐもった低い声と高い声が漏れ聞こえてくる。ミオの宿泊にいたく興奮してしまったヘレナが父親を相手になにかれと話しかけている様子だ。内容までは聞き取れないその声を聞くともなく聞きながら、くしくしと下がりがちな目蓋を擦った。

 あのあとすぐにヘレナの家へ到着すると、父親は20分もかからず湯の用意をしてミオを浴室へと案内してくれた。タオルやら石鹸やらの位置を教えてくれている間も彼は随分と心配げな様子でしきりにこちらを見ていた。その視線はセバスチャンやサミュエルから時折向けられるものとよく似ていて、自分はそんなに何もできなさそうに見えるものなのかとひとりばつが悪くなった。

 ぴちゃん、と顔のすぐ近くに水滴が落ちて一瞬途切れかけた意識が浮上する。そろそろ上がらなければ、他人の家のお風呂で溺れるという不名誉極まりない事故を起こしかねないが、あともう少しだけこの心地よい熱に身を任せておきたかった。ミオは半分寝そべるようにしていた身体を起こして座り直し、おもむろに左手を持ち上げて目の前にかざした。

 湯気で少し不明瞭な視界で指先から手のひら、手首、そして肘までの肌に視線を滑らせると、そこにはうっすらと稲妻のように枝分かれした傷が残っているのが見て取れた。強制魔力遮断によって負った傷だった。皮膚の盛り上がりや赤みは消えたものの、ざらりとした質感を残したまま古傷めいた様相を呈している。全身に広がっていた傷跡は今はもうほとんど消えていて、遮断の起点となった右耳とその周辺の首筋と頬の端にある傷が少し目立つくらいで、後は皮膚の薄い場所にうっすらとした跡が残るだけだった。

 ばしゃ、と力を抜いた左手が湯船の中へ落ちる。その衝撃で凪いでいた水面にいくつもの波が立ち、タイル地の床にお湯が跳ねた。再生のまじないが発動していない状態で怪我を負えばすぐには治らないし、傷跡だって残る。それが嫌だと思うほど己の身体や見目に執着があるわけではないが、他人から見ればあまり気持ちのいいものではないだろうな、とは思う。ピアス穴が固くなった皮膚で塞がってしまった右耳に指先で触れ、ざらりとした首筋をたどり、鎖骨の下あたりから背中にかけて走る大きな傷跡を確かめるように何度か撫でたあと、ざぶざぶと顔を洗って湯船から上がった。

 ほかほかとして少し熱いくらいの身体で浴室から出て洗面所に積んであるタオルを手に取ったところで、扉の向こうから軽やかな足音が響いた。


「ミオくーん! もうでたー? 開けていー?」

「出てるけどちょっと待って」

「パパがスープ作ってくれたのー! パンは何個食べるー?」

「パンは1個でいいよ。ありがとうって伝えてきてくれる?」

「わかったー。もう開けていー?」

「開けないで。服着てないから」

「えー、はやくー!」


 飛び跳ねでもしているのか、どたどたという忙しない足音に急かされつつ手早く身体を拭いて服を着る。ヘレナの父親は自身の寝間着を用意してくれたようで、ミオの手足の先までをすっぽりと隠してしまった裾をぐるぐるとまくり上げてようやく扉を開いた。


「やっとでてきた! ご飯のじゅんびもうすぐ終わるって! あのね、今日はミオくんがいるからね、パパがベーコンいっぱい入れてくれたんだよ」

「ベーコン……すき……」

「ヘレナも!」


 案の定、扉の正面で待ち構えていたヘレナはするりとミオの手を握り、軽やかに笑いながらミオを居間まで連れて行ってくれる。お風呂で十分に温まったせいか、ミオの手を引くヘレナの小さな手のひらがひんやりと感じられて、いつもと逆だなとぼんやりと思った。


「パパぁ、ミオくんでてきたよ」

「お風呂いただきました。ありがとうございます」

「おかえり。スープもう少しかかるから座って待っててくれる? あ、パンは3個でよかった? もっといる?」

「ミオくん、パンは1個でいいって。あと、ありがとうって言ってたよ」

「え、それ今伝えるのか? 本人がいるのに?」

「1個だけでいいの? ふつうの食べ盛りの5倍は食べるってセバスチャン様はおっしゃっていたけど。でもまあもう遅いしね。おかわりしたくなったら遠慮なく言ってね」

「え、何も気にしてない……」


 親子の独特のペースについていけていないミオの手をヘレナがぐいぐいと引いてダイニングテーブルに座らせる。そして自身はミオの隣の椅子によじ登るように座って満足げにこちらを見上げて笑った。彼女の笑顔に曖昧に微笑みを返したあと、ミオは炊事場とテーブルをパンや食器を持って行き来する父親を眺めながら、肩にかけていたタオルでまだ濡れている髪をぬぐった。

 ヘレナと他愛もない話をしているうちに食卓の準備は整い、遅い夕食が始まった。父親の作ったスープは別邸で出される料理より見た目も味付けもずっと質素なものだったけれど、ごろごろとした野菜と厚めに切られたベーコンは本当においしくて結局2回おかわりをした。ヘレナはというと、夕食が始まったときには嬉々として父親とミオに交互に話しかけていたものの、空腹が満ちるにつれて食欲よりも眠気が勝ったようで、3回ほどスープに顔を突っ込みかけたところで一足先に父親にベッドへと連行された。

 賑やかな食事を終えたミオは片づけをするという父親に勧められるまま、蜂蜜をたらしたホットミルクを持たされて暖炉の前のソファへ移動した。ヘレナの母親が編んだのだという毛糸のガウンを肩にかけて暖炉の火を眺めていると、ずっと身体の内側で張り詰めていたものが少しずつたわんでゆくのがわかった。そうすると、たった数時間の内に起きた出来事が一気に現実感をもって心に押し寄せてくる。

 ──はじめてだった。誰かに命令されたわけでも、強要されたわけでもなく、ただ己の意志によって祝女の力を使った。そしてはじめて、守りたいと思ったものを守り切れたのだ。それはきっと、ヘイノラの祝女として正しい行動ではなかった。祝女は一族のためにるものであって、当然その力も個人に帰属するものではないから。

 しかし、もう今更かな、とも思う。あの村で自分だけが生き残って、不死の術式とされる再生のまじないを眠らせてなお死に切れず、記憶を失ったのを幸いとただの人として数年を生きた。一族と命運をともにすべきだとは今でも思うけれど、ミオの命はもうミオのものではなくなってしまった。

 ずず、とほんのり甘いホットミルクをすすれば、体温より熱いそれが喉の奥へ落ちてゆくのがわかる。身体を内側からあたためるその感覚を求めてもう一度カップに口をつける。


「はあ……」


 自然とため息が漏れた。そうしないと心臓のあたりをぐるぐると跳ねまわっている浮かれた気持ちが爆発しそうだったからだ。


「ミオ様、もう眠たいですか?」


 突然声を掛けられてミオは思わずびくりと身体を震わせてしまった。気付くと炊事場から聞こえていた食器を洗う音が止んで、ソファのすぐ横に父親が立っていた。随分と思考に埋没してしまっていたらしかった。


「あ、俺、考え事してて……。いや、えっと、結構ねむいかも……」

「よろしければ客間でお休みになりますか? 娘は寝相が良くないんです。ミオ様を蹴ってしまうかも」

「……ミオ『くん』じゃなくて……?」


 彼の言葉の内容よりも急にかしこまった口調に気を取られてほろりとこぼれた本音に父親は少し困ったように眉尻を下げた。


「失礼いたしました。ヘレナの前であまりかしこまった態度を取られるのもお嫌かと……」

「たしかにそれは嫌だ」


 反射的に出たミオの返答に彼は一瞬驚いたように目を見開いた後、声を上げて笑った。そして斜向かいの一人掛けのソファへと腰を下ろすと、こちらに身を乗り出すようにして続ける。


「本当はいつもヘレナが『ミオくんが、ミオくんが』とあなたの話をするので、私も勝手にそう呼んでいたんです。なんだか親近感まで抱いていて……だから真っ青な顔で役所を歩いているあなたを見つけたとき、どうしても放っておけなかった」


 白状するみたいにそう話す父親の顔を、じ、とミオは見つめた。ヘレナと同じ白に近い金色の巻き毛が暖炉の明かりを受けてきらきらと光っている。怖がらせているのではないかという不安や、気を遣わせているという申し訳なさも全部遠く離れて、ただ純粋な疑問だけがミオの胸の内に生じる。


「こわくないの、おれのこと」


 ミオの言葉に父親はまたわずかに目を見開いたあと、数度まばたきをして静かに口を開く。


「……まったく怖くないと言えば嘘になります。とても特別な力を持っていることを1度ならず2度までも目の当たりにしましたし、そもそもこうして言葉を交わすことすら本来ならできないはずの方だ」


 でも、と彼は続ける。


「お屋敷に押しかけた時も、今夜の事も、ヘレナを守ってくれたんですよね」


 そう言ってにこりと笑った父親にミオは何の反応も返すことができなくて、ただ手の中にある温かいカップを握りしめた。


「強く大きな力は恐ろしいと感じてしまいます。でも、それを持っているミオくんが優しい子だから怖がる必要はないのかなと、私は思います」


 ヘレナなんてミオくんのこと大好きだしね、と付け足されてミオは勢いよく立ち上がった。


「おれっ……! もう寝ます……!」

「あ、ああ、うん、どうする? 客間で寝る?」

「ヘレナと一緒に寝ます。約束したので。部屋はどこですか2階ですか」

「待って待って、案内するから!」


 呆気に取られている父親を置き去りにし、どたばたと転びかけるほどの勢いで居間を飛び出した。小さい玄関ホールを4、5歩ほどで横切り、浴室の手前にある階段を駆け上がったところで追いついてきた父親が少し息を荒げながら、正面に2つ、左右に1つずつ並んだ扉の内、正面右側の扉に手を掛けた。


「びっくりした。足速いんだね」


 父親が小声でそう言いながら扉を開けば、中から淡いオレンジ色の光が漏れ出てくる。彼の背中越しに室内の様子をうかがうと、枕元に小さなランプが置かれたベッドが部屋の壁に寄せて設えられており、その上の掛布が小さく膨れていた。父親は足音を立てないようにしてベッドに近づくと掛布をめくって中で寝ていたヘレナの身体を動かしているようだった。

 少しの間、ごそごそと衣擦れの音だけがしたあと、くるりとこちらを振り返った父親は扉の前で立ったままのミオに手招きをした。


「ヘレナは割と一度眠ると朝まで起きないんですが、とにかく寝相が悪くて……。遠慮なくどかしてもらっていいですから」

「……」


 そろそろとベッドに近付いたミオは、未だ冷めやらぬ気恥ずかしさで父親に返事をすることが出来ず、しかし何かしら反応だけはしなければとこくりと頷いた。ミオの心中を彼が察したかどうかは定かではないが、父親はシャツの胸元を握りしめて黙りこくるミオにおやすみなさい、とだけ声を掛けてそっとその場を離れてくれた。

 ぱたん、と扉の閉まる音を背中で聞いて、ようやくミオは緊張した身体から力を抜いてその場にしゃがみ込んだ。目の前の高さにまでやって来たベッドは、ヘレナが言っていた通り大人が寝たとしても充分な余裕があるくらい大きく、今はその半分ほどのスペースがミオのために空けられていた。ミオがベッドに入りやすいようにだろう、掛布がめくられて壁側に寄せられたヘレナの胸から上があらわになっている。

 そこではたと室温の低さに気が付いて、慌ててベッドに身体を滑り込ませて掛布を肩までかけてやる。何も気にした様子もなく仰向けで穏やかな寝息を立てるヘレナのまん丸な頬を眺めたあと、ミオは彼女の身体を抱き寄せて目を瞑ってみる。

 目蓋の裏に星が散るほど、心臓がせわしなく脈打ってとても眠れそうにはなかった。たった数時間の間に自分にとって都合のいいことばかり起きていて、もしかして夢でも見ているのではないかとさえ思えてくる。

 ミオはうれしかったのだ。とても、うれしかったのだ。怖がる必要が無いと言われて。ヘレナの──友達の大切なものを守れて、いろんな人からありがとうと言われて、柄にもなくうれしくなってしまったのだ。祝女としての存在意義を失った自分には何もしないでいるか、何かを壊すことしかできないと思っていたから。厭われるか、執着を帯びた崇拝を向けられるだけだと思っていたから。化け物じみた姿を見せてなお、遠ざけられることなく、こうして家に招かれ歓迎さえされることがあるなんて考えたこともなかった。

 ──かわいい化け物だねえ

 ふと、リヒトの言葉を思い出した。己が化け物であることと、他の人間から畏怖されないことは、もしかして両立しうることなのだろうか。祝女としてのミオはずっと人として扱われてこなかった。だから、こういう時どうしたらいいのかわからないのだ。お礼を言って好意に甘えて笑えばいいのだろうか。立場を弁えて一歩下がって神様らしく振舞った方がいいのだろうか。

 ぎゅう、と腕の中のヘレナを強く抱き締める。高い体温とミオと同じくらい早い鼓動が伝わってきて、また胸の中で抑えがたい浮かれた感情が暴れ始める。


「~~~~っ……!」


 声にならない衝動的な叫びを喉の奥で殺して、ミオは掛布を頭まですっぽりとかぶった。この感情をどう処理したらいいのか、おそらく一晩中考えたって自分にはわからないと思う。これまでだってどうにもならない感情に翻弄されることはあった。けれどこんなにも飛び跳ねたい、大声で叫びたいといった気持ちになることは初めてで。とにかく明日の朝、きちんと冷静になれたなら、ヘレナと彼女の父親に感謝を伝えたい。なんて言えばいいのか、そもそも何に感謝したいのかもわからないけれど、長い夜の時間を全部使ったならきっとふさわしい言葉を思いつけそうな気がした。

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