似紫の境界線

柏木あきら

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屋敷の日本画家

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翌日。
律子からセダン車を借りて一時間近く、車を走らせて目的地に着いた。柳の住む家は車が入れない小道を結構歩かねばならなかった。近くのコインパーキングに一旦車を止め、手土産の饅頭を片手に徒歩で向かう。
歩いている間、初夏の風が心地よい。小道には竹が自生していてまるで京都の小道の様だと感心する。

その先にあるのが柳の家なのだが、到着して真一は大きく目を見開いた。
家があるはずの場所には日本家屋……屋敷といってもいいくらい広さの建物が立っていたからだ。
(ここが、柳先生の家……?)
有名な作家なら分かるが、若干三十二歳の駆け出しの作家が住んでいる様な家ではない。思わず門柱の表札を確認した。そこには紛れもなく、柳の名前が彫ってある。
(もしかしたらお金持ちの道楽なのかな)
大きく深呼吸をして、呼び鈴を押した。

しばらくすると玄関の引き戸が開かれ、中から出て来たのは、昨日検索した柳総一郎その人だった。こんな大きな家なのだから、てっきりお手伝いの人が出てくるのだろうと思っていた真一は面食らった。
「どちら様でしょうか」
意外なほどの低音の声に、真一は一瞬驚いたがすぐ、答える。
「あ、あの『Hinagallery』の雛野真一です。作品を受け取りに参りました」
「ああ、画廊の……。どうぞ、中に」
スリッパを差し出して、真一を中に招き入れる柳。真一はお辞儀をしながら、玄関の引き戸を閉じた。

客間に通され、しばらく待たされた。玄関から客間に通される間に真一が目の当たりにしたのは……
(どうやったらこんなにものを散らかし放題にできるんだ)
あちこちに放置された衣類や本やら、とにかくものが通路や部屋に溢れていた。どうやらお手伝いさんはいないようだ。
いつからこんな状態なのだろうか。埃が薄っすら溜まっている。真一は潔癖症ではないが、どちらかというと綺麗好きなので
落ち着かない。

奥から廊下が軋む音がして、風呂敷に包まれた作品を手にした柳が部屋に入ってきた。
「お待たせしました」
風呂敷をテーブルの上に置く。結び目をほどき、箱を開けると作品を取り出した。
薄墨で描かれた背景。広すぎるほどの余白。そして、下部には半身背を向けた男性が描かれていて、少し見える横顔は憂い顔だ。
律子はこれをどこで見て、購入したのだろうか。知識のない真一でもこの絵は美しいと感じた。
「こちらなんですが」
柳はその絵を見ながらポツリと呟いた。
「そちらの画廊への提供をもう少し待ってもらえませんか?」
「え……?」
柳の突然の申し出に、思わず真一が驚いて声を出す。

実はこの作品と対になるもう一つの絵を創作したくなったのだ、と柳が言った時、真一は困り果てた。買い手がついたあとに作品を描きたくなったから待て、なんてそんな事ありえるのかよ、と文句を言ってやりたかったが律子の代わりに来ている以上、印象を下げる訳にはいかない。

オーナーに確認します、とスマホを手に取って、立ち上がり廊下で律子に連絡を入れる。
『そういう理由なら購入しなくていいから帰れ』と律子は言うだろう。そうしたらこの居心地の悪い屋敷からさっさと出られる。真一はそう思っていた。
しかし、律子の返事は真一の思惑とは全く異なっていた。
「いいわよ、急がないし。せっかくの先生の創作意欲を削がないようにしてね。ああでも、これだけは伝えておいてくれるかしら。真一くんにもお願いが」
律子の『お願い』を聞いた後、思わず声を上げる真一。
「は、はぁ?でも……あああ、分かりました」
通話を切り、頭を抱える。
(そんなことありかよ)

部屋に戻ると、柳が真一の方を見る。
「……どうでしたか?」
柳の前に座ると、真一は頭をかきながら一つため息をついた。
「オーナーはそのまま、購入したいと。急がないから対の作品を描いてください。そのかわり、出来上がった対の作品も買い取りたいと」
「はあ」
「そしてですね、その創作時間を守るためにですね……、俺 が身の回りのお世話をするようにと」

柳は驚き、思わず顔を上げた。そりゃそうだよな、と真一は項垂れる。今日会ったばかりの奴が突然、身の回りの世話をするなんて言われたら。
(さっさと断ってくれよ)
真一とて、そんなことはしたくない。見ず知らずの作家の世話なんて。しかも昨日、律子が言っていた『ちょっと訳あり』が気になって仕方ないのだ。

「それで雛野さんが待ってくれるならいいですけど」
柳のまさかの回答に、今度は真一が驚く。
「え?」
「私もその方が、作品を作り上げることに没頭できますから……」
そう言いながら、先程持ってきた作品をじっと見る柳。彼の頭の中にはすでに描きたいものが浮かんでいるのだろうか。
律子と柳がOKを出した今、真一には選択の余地などなかった。
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