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第2章
五月の恋と君との日々(後編)
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帆文が目を覚ますと、もう朝になっていた。
時計を見ると五時十分を指している。帆文がいつも起きる時間よりも一時間以上も早かった。
それでもカーテンの隙間からは薄く陽射しが差し込んでいる。五月なのでこの時間でも外は明るかった。
昨日はあの後、そのまま寝てしまっていた。そのせいで制服にしわが寄っている。掛け布団を掛けていなかったが、幸い温かくなってきていたので体調を崩すと言うことはなさそうだった。
起き上がると、シャワーを浴びるために、お風呂場に向かう。
着替えを持って、部屋を出る。しかし、そこで寛人とばったり出会ってしまう。一つ屋根の下で暮らしているので当然のことなのだが、この時ばかりは帆文は自分の運のなさを呪った。
帆文は気まずくなり、そっけなく避けようとする。しかし、寛人は何事もなかったかのように笑顔を浮かべた。
「おはよう。早いね」
まるで昨日あったことが夢だったかのように、寛人はいつも通りだった。帆文は無視するわけにもいかず小さく頷く。
「ああ」
そして、そそくさと風呂場に向かいシャワーを浴びた。熱いシャワーを浴びると意識がはっきりしてくる。
同時に、昨日の醜態を後悔していた。
給料日の度に繰り返している寛人とのやりとり。独り相撲でしかない滑稽な茶番。前進しているようで、停滞しているようにしか思えない状況。
その全ては早く大人になりたいという身勝手でわがままな理想から始まっていた。
「くそっ」
意味もなく悪態をつく。そんなことをしても気分が晴れることはなかった。
シャワーを浴び終えると、帆文は制服に着替えて台所へ向かった。台所では寛人が朝食の味噌汁を作っている。
「もう少しでできるから座って待ってて」
帆文は何か返事をしようとしたが、ふとダイニングテーブルの上にある白い封筒が目に入る。給料袋は昨日のまま置いてあった。
帆文は何とも言えない気持ちに成りながら、給料袋を手に取った。そして、ポケットにしまった。これまで何度も繰り返したことだった。帆文が稼いだお金はこうして、帆文の机の引き出しの中に仕舞われる。おかげでお金は貯まる一方だった。
そんな中途半端な状況に帆文は苛立ちそうになりながらも、何とか口を開く。
「手伝う」
帆文は端的に言うと、ご飯をよそり始めた。そして、お皿を出しテーブルに並べる。
「ありがとう」
味噌汁を作り終え、お椀によそり終えた寛人は帆文に言った。
「こっちこそ」
帆文は素っ気なく答えた。
そして、二人はいつも通り朝ご飯を食べ始めた。
「いただきます」
と手を合わせながら言うと、帆文と寛人は朝食に手をつけ始めた。
メニューはご飯に味噌汁。そして、昨日の夕飯の竹の子と人参の煮物と塩鮭だった。
「そういえば、来週の日曜日はフリマに出るんだって」
「どうしてそれを?」
「宮さんが言っていたから」
「ああ」
「僕も行こうかな」
「来なくていい」
「えー、客としてならいいだろ」
「む」
「むしろ客を追い返したら宮さん怒るだろ」
「それは、そうだけど」
「宮さんが言ってた鈴ちゃんって子にも会ってみたいし」
寛人の言葉で、帆文は昨日の鈴恵に勢い余って酷いことを言ってしまったことを思い出す。八つ当たり以外なんでもない言葉をまだ二回しかあったことのないバイトの同僚に吐いてしまったことは、後悔しても仕切れなかった。
昨日は帆文にとって最悪ともいえる一日だった。
「どうかした?」
寛人に声を掛けられ、帆文ははっと気づく。
「なんでもない」
「もしかして、鈴ちゃんと何かあった?」
「なんで?」
「だって、その話題になった途端、文の表情が暗くなったから」
「気のせいだろ」
「そうかい。それならいいんだけど」
そこで寛人は一息つくと、言葉を続けた。
「でも、もし後悔しているのなら早めに謝ったほうが良いと思うよ」
帆文は図星を疲れたようで罰が悪い気分になった。そもそも早めに謝るにも、バイトのシフトが重なることはまれだった。次に会うのは来週の日曜日のフリマの前日、土曜日だった。その日は準備のために二人でシフトに入ることになっていた。
今日から数えても、一週間以上ある。それだけ時間が経っている以上、次に会った時、もしかしたら向こうは忘れているかもしれない。そんな楽天的な考えが浮かびそうになって、帆文は心の中で自分自身に嫌悪感を抱いた。しかし、そんな気持ちを悟られないように味噌汁を飲むと、首を振る。
「だから、気のせいだって」
「それならいいんだけどね」
寛人はあっさりと頷いた。
そして、当たり障りのない話題にうつっていく。
こうしていつも通りの朝食の時間は過ぎていった。
昼休みになると、帆文とケイとニシアキとは、昨日と同じ人気のない特別教室前の廊下にいた。
「ケイはあれからクラスの女子に聞いたの?」
「ああ」
「どうだったんだ?」
「そんなのわからないって」
「まあ、そうだろうな」
ニシアキがもっともだという表情を浮かべる。
「でも、うちのクラスだと竹田と新刻が付き合ってるから聞いてみたいんだ。そしたら、一緒に遊ぶことだって言ってた」
「じゃあ、その後輩と遊んだら」
帆文は名案は浮かんだように明るくケイに言った。
「・・・・・・実はもう遊んでる。先週もデートしたし」
ケイは気まずそうに答えた。
「・・・・・・え? それもう付き合ってるじゃん」
帆文は一瞬の沈黙の後、はっきりとつっこむ。
「そうだけど。何ていうかこれでいいのかなって気持ちになるんだよ。わかるだろ?」
ケイは不安げに呻いた。帆文とニシアキは互いに顔を見合わせると同時に首を振る。
「わからん」
「わからん」
「もう、なんでだよっ」
ケイは喚きながらつっこんだ。
「結局、ケイはどうしたいんだ?」
「どうしたい?」
ニシアキの質問に、ケイは眉を寄せて悩み始める。しかし、上手く言葉に出来ないのか「むう」と呻くだけだった。
そこで三人は行き詰まる。恋愛経験のない三人が寄っても何の知恵も思い浮かばなかった。
「そもそもその後輩のこと知らないからな」
帆文はぽつりと呟く。
「ああ、言ってなかったっけ。璃津木百合(りつきゆり)って子なんだけど」
「初めて聞く名前だな」
「でも、ケイに告白するって珍しい子だよね」
「どういう意味だよ」
帆文の言葉にケイはすかさずつっこむ。
「ずっとマネージャーをしてる子なのか」
「そうだけど、しゃべったことはあまりないんだ。でも、四月になってしばらく経ってから突然、部活終わった後に部室裏に呼び出されて告られて」
ケイは思い出しながら話しているのか、視線を右上に向けながら言った。
「それだけ聞くと、別に普通じゃないか」
「うん」
ニシアキの言葉に、ケイは頷くが、その表情はどこか煮え切らなかった。
「もしかして、ケイもその子のことよく知らないのか?」
ニシアキがぽつりと尋ねる。すると、ケイは首を振った。
「いや、そんなことないけど。えーと、璃津木百合って子は、2年C組で、A型で、九月十九日生まれで、よく気が利いて、ドラマをよく見てて、いいところのお嬢様っぽくて・・・・・・」
そこでケイははっと気づく。
「ああ。そういえばあんまり知らないな」
「だからじゃないか。ケイっていつも好きになる方だったろ。相手のことを知ってから好きになってた。でも、今回はそうじゃないから不安になってるだけだと思うけど」
「そっか」
ケイは腑に落ちたように頷くと、憑きものが落ちたように笑顔を浮かべた。
「さすが姉がいるやつは言うことが違うなあ」
ケイは笑顔で答えた。そんなケイを見て、帆文は思い出したようにぽつりとつぶやく。
「ああ。だからか・・・」
「何が?」
「いや、付き合うってお互いのことを知っていくことだって言った子がいたから」
「え? なんで最初に言ってくれなかったの」
ケイは帆文を恨めしそうに見る。
「いや、忘れてたんだ」
帆文はどこかばつが悪い気持ちになって首を振る。
「文ってたまにボケてるよね」
「そうだな」
ケイとニシアキは互いに顔を見合わせて頷く。
「ボケてない」
帆文はつっこんだ。
「で、それは誰が言ったんだ?」
ニシアキの質問に帆文はどう答えるか考えてから、口を開いた。
「バイトの同僚の子なんだ」
「へぇ、バイトの同僚いたんだ」
「ああ、最近は入ったんだ」
帆文の言葉にケイが目を輝かす。
「女の子?」
「ああ、まあ」
「なんでそれ言ってくれないの」
「言う必要ないと思って」
「うわっ、冷たっ。文は冷たいなあ。友だちにバイトの同僚も紹介しないなんて」
「はあ? わざわざ言うことでもないだろ」
「まあまあ、文は紹介したくない相手なんだろ。察してやれよ」
「ああ、そういうことか」
「いや、なんだよ。そういうことって」
「いやあ、別にわざわざ言うことでもないし」
「質悪りな、くそっ」
「じゃあ、今度紹介してよ」
ケイは嬉しそうに言った。
「なんでだよ」
「だって気になるし。ねえ、ニシアキ」
「ああ」
ケイとニシアキは二人で同時に頷く。そして、ニシアキがだめ押しの一言を言う。
「まあ別に、やましかったらいいけど」
「やましくない。わかったよ。今度紹介するよ」
そう言うと、ケイは「やった」と頷く。ニシアキも頷いていた。上手く乗せられたことに憤慨しながらも、帆文は内心、悪い気はしていなかった。
放課後、帆文はバイトもないのに古書堂に向かっていた。脳裏には、今朝、寛人に言われた言葉が浮かんでいる。
『もし後悔しているなら早めに謝った方がいい』
その言葉は帆文を突き動かすには十分すぎた。古書店につくと、脇の駐車場に自転車を止め、店内に入る。
鈴恵はカウンターにいた。ぼんやりと入口を見ている。だから、店内に入ってきた帆文とすぐに目が合った。
「あっ」
お互いに声が上がる。そして、気まずい沈黙が流れた。
謝りにきたはいいが当人を前にして記憶が飛ぶ。何を、どう言ったらいいのか全くわからなくなっていた。
いきなり謝るべき?でも、それだとなんのことかわからないし。じゃあ、最初に何を言えばいいんだ。会った人に最初に言う言葉、挨拶か。
頭の中では思考がぐるぐる回る。しかし、ごちゃごちゃだった考えは、すこしずつ形作られていった。
そして、帆文はふと鈴恵がこの前言っていたことを思い出した。その言葉を口にしようと口を開く。
「おはようございます」
「こんにちは」
「え?」
帆文と鈴恵は互いに声をあげる。そして、互いに笑った。
「この前と逆でしたね」
「そうだね」
「どうしたんですか?今日はシフトじゃなかったと思いましたが」
「ああ、昨日のことを謝りたくて」
鈴恵はきょとんとした顔を帆文に向ける。
「謝る?」
「帰りにひどいことを言ったから」
「ああ」
鈴恵は納得したように頷くと、笑顔を浮かべた。
「気にしなくていいですよ。だって、私には関係ないのは本当ですから」
「もしかして、怒ってる?」
帆文は恐る恐る尋ねる。
「怒ってません」
鈴恵の口元はにこにこ笑ってる。しかし、その目は笑っていなかった。その顔を見て帆文はすぐに頭を下げる。
「ごめんなさい」
「いえ、いいですよ。こちらこそ意地悪してすいません」
帆文が顔を上げると、鈴恵は笑っていた。それはいつも通りの穏やかな笑顔だった。しかし、帆文の内面は穏やかではなかった。
草川さんは怒らせるとやばそうだから、今後絶対に怒らせないでおこうと、心の中で誓う。
「店長は今どこ?」
「奥でネット注文の確認しておられますけど。呼びましょうか?」
「いや、会ってもろくなことにならないからいい」
「そんなことないと思いますけど」
鈴恵はくすくす笑っている。
「じゃあ、仕事頑張って」
無事謝れた帆文はそう言って帰ろうとする。
「え? もう帰るんですか?」
「用事は済んだし」
あっさり言うと、すずえは頬を膨らませた。
「待ってください。謝りに来たんだったら、もう一つ言うことがあるんじゃないですか?」
「もう一つ?」
「はい。どうして早く大人になりたいのか教えてください」
そう言われてようやく帆文は理解する。しかし、それは、鈴恵に話すにはあまりにも―。
「―つまらない話だよ」
「それを決めるのは私です。それに気になって昨日、眠れなかったんですから」
鈴恵はそう言うと目元を指さした。確かに少しくまができているようにも見える。瞳も泣いたあとのようにかすかに赤くなっていた。
「わかった。でも、本当につまらない話だよ」
「はい」
鈴恵は笑顔で頷く。その顔はなぜかとても嬉しそうだった。この顔がこのあときっと真顔になることを想像して、帆文の胸はかすかに痛んだ。
「実は、俺の親は二人とも事故で死んでいるんだ。だから、今、親戚の家に住んでいる」
淡々と語られる帆文の言葉を聞いて、鈴恵の目が見開かれた。息を飲む音が響く。
「そこでの生活は居心地がよくて、悪くないんだけど、やっぱりどこか悪いと思っちゃうんだ。だから、俺は早く一人で生活できるようになりたい。早く自立したいんだ。それが早く大人になりたい理由。ちなみに、バイトをしている理由も同じ。自立するにはお金がいるだろ。そのためのお金を稼ぐために俺はバイトを始めたんだ。つまらない話だろ」
吐き捨てるように言うと、帆文は自虐的に笑った。笑った理由は二つあった。一つは、何度口にしてもあまりにも下らない子どもっぽい理由であったこと。もう一つは、この期に及んで、自分の過去を他人に聞かせられるような小綺麗な話にまとめたからだった。
鈴恵は何も言わずに帆文をじっと見ている。そこにさっきまでの笑顔はない。代わりに、その顔には驚愕が浮かんでいた。
帆文はそんな鈴恵の顔をじっと見ていた。
いつもこうだった。
この話をした時はまず驚かれ、同情される。そして、後には、どうしたらいいのかわからない気まずい空気が流れるだけだ。だから、帆文はこの話をしたくなかった。
「時岸さん。ごめんなさい」
まず、鈴恵の口から出たのは謝罪だった。何がごめんなさいかわからない。
「私、時岸さんのこと少しでも知りたくて」
次に、言い訳のような言葉が並ぶ。何で知りたいのかもわからない。
帆文はわかりきった空気に嫌気がさす。だから、慣れた調子でなんとかしょうとした。
「気にしなくていいよ」
そう気にすることはない。そんなこと望んでいない。
「逆に気を遣わせてごめん。だから、今のことは忘れて」
それが一番いい。
人間は忘れる生き物だ。だから、嫌なことは全て忘れてしまえばいい。消えることはなくても忘れることはできる。二度と思い出さないように蓋をして、閉じ込めることはできる。
これは嫌なこと。嫌な思い出にしかならないこと。だから、帆文にとって早く大人になりたいという願いは、汚れて、歪んで、稚拙で、幼稚で、嫌悪感しか生まない願いでしかなかった。
「それじゃあ、俺は帰るから。仕事頑張って」
帆文はそう言うときびすを返して店を出る。その時だった。
「待ってください」
カウンターにいた鈴恵は駆け出すと、帆文の腕を掴んだ。
「え?」
帆文は驚きながら足を止めると、振り向く。
「どうしたの?」
鈴恵は帆文の腕を掴んだまま、俯いていた。だから、帆文からはどんな顔をしているのかわからない。ただ、きっとまた謝られるのだろうと思った。いつものことだった。しかし、俯いた鈴恵が言った言葉は違った。
「ありがとうございます」
今度は帆文が面食らう番だった。
「え? なんで」
そこで鈴恵は顔を上げた。その顔には穏やかな笑みをが浮かんでいた。
「だって、教えてくれたから。言いにくいことでも言ってくれたから。だから、ありがとうございます」
帆文は唖然とした。
こんなことを言われたのは初めてだった。ただ、悪い気はしなかった。
「いや、あのっ、どういたしまして」
帆文は自分でも何を言っているんだろうと思いながら頷くことしかできなかった。そして、鈴恵はぱっと腕を放す。
「引き留めてしまってすいません。じゃあ、お気をつけて」
「ああ。また」
「はい。また来週の土曜日に」
鈴恵は笑顔を浮かべて手を振って浮いた。帆文も振り返す。自転車に乗って出ようとすると、鈴恵は店の前で見送っていた。
相変わらずまめだなと思いながら、帆文は鈴恵にもう一度手を振った。
そして、前を向く。
その顔は晴れやかだった。
時計を見ると五時十分を指している。帆文がいつも起きる時間よりも一時間以上も早かった。
それでもカーテンの隙間からは薄く陽射しが差し込んでいる。五月なのでこの時間でも外は明るかった。
昨日はあの後、そのまま寝てしまっていた。そのせいで制服にしわが寄っている。掛け布団を掛けていなかったが、幸い温かくなってきていたので体調を崩すと言うことはなさそうだった。
起き上がると、シャワーを浴びるために、お風呂場に向かう。
着替えを持って、部屋を出る。しかし、そこで寛人とばったり出会ってしまう。一つ屋根の下で暮らしているので当然のことなのだが、この時ばかりは帆文は自分の運のなさを呪った。
帆文は気まずくなり、そっけなく避けようとする。しかし、寛人は何事もなかったかのように笑顔を浮かべた。
「おはよう。早いね」
まるで昨日あったことが夢だったかのように、寛人はいつも通りだった。帆文は無視するわけにもいかず小さく頷く。
「ああ」
そして、そそくさと風呂場に向かいシャワーを浴びた。熱いシャワーを浴びると意識がはっきりしてくる。
同時に、昨日の醜態を後悔していた。
給料日の度に繰り返している寛人とのやりとり。独り相撲でしかない滑稽な茶番。前進しているようで、停滞しているようにしか思えない状況。
その全ては早く大人になりたいという身勝手でわがままな理想から始まっていた。
「くそっ」
意味もなく悪態をつく。そんなことをしても気分が晴れることはなかった。
シャワーを浴び終えると、帆文は制服に着替えて台所へ向かった。台所では寛人が朝食の味噌汁を作っている。
「もう少しでできるから座って待ってて」
帆文は何か返事をしようとしたが、ふとダイニングテーブルの上にある白い封筒が目に入る。給料袋は昨日のまま置いてあった。
帆文は何とも言えない気持ちに成りながら、給料袋を手に取った。そして、ポケットにしまった。これまで何度も繰り返したことだった。帆文が稼いだお金はこうして、帆文の机の引き出しの中に仕舞われる。おかげでお金は貯まる一方だった。
そんな中途半端な状況に帆文は苛立ちそうになりながらも、何とか口を開く。
「手伝う」
帆文は端的に言うと、ご飯をよそり始めた。そして、お皿を出しテーブルに並べる。
「ありがとう」
味噌汁を作り終え、お椀によそり終えた寛人は帆文に言った。
「こっちこそ」
帆文は素っ気なく答えた。
そして、二人はいつも通り朝ご飯を食べ始めた。
「いただきます」
と手を合わせながら言うと、帆文と寛人は朝食に手をつけ始めた。
メニューはご飯に味噌汁。そして、昨日の夕飯の竹の子と人参の煮物と塩鮭だった。
「そういえば、来週の日曜日はフリマに出るんだって」
「どうしてそれを?」
「宮さんが言っていたから」
「ああ」
「僕も行こうかな」
「来なくていい」
「えー、客としてならいいだろ」
「む」
「むしろ客を追い返したら宮さん怒るだろ」
「それは、そうだけど」
「宮さんが言ってた鈴ちゃんって子にも会ってみたいし」
寛人の言葉で、帆文は昨日の鈴恵に勢い余って酷いことを言ってしまったことを思い出す。八つ当たり以外なんでもない言葉をまだ二回しかあったことのないバイトの同僚に吐いてしまったことは、後悔しても仕切れなかった。
昨日は帆文にとって最悪ともいえる一日だった。
「どうかした?」
寛人に声を掛けられ、帆文ははっと気づく。
「なんでもない」
「もしかして、鈴ちゃんと何かあった?」
「なんで?」
「だって、その話題になった途端、文の表情が暗くなったから」
「気のせいだろ」
「そうかい。それならいいんだけど」
そこで寛人は一息つくと、言葉を続けた。
「でも、もし後悔しているのなら早めに謝ったほうが良いと思うよ」
帆文は図星を疲れたようで罰が悪い気分になった。そもそも早めに謝るにも、バイトのシフトが重なることはまれだった。次に会うのは来週の日曜日のフリマの前日、土曜日だった。その日は準備のために二人でシフトに入ることになっていた。
今日から数えても、一週間以上ある。それだけ時間が経っている以上、次に会った時、もしかしたら向こうは忘れているかもしれない。そんな楽天的な考えが浮かびそうになって、帆文は心の中で自分自身に嫌悪感を抱いた。しかし、そんな気持ちを悟られないように味噌汁を飲むと、首を振る。
「だから、気のせいだって」
「それならいいんだけどね」
寛人はあっさりと頷いた。
そして、当たり障りのない話題にうつっていく。
こうしていつも通りの朝食の時間は過ぎていった。
昼休みになると、帆文とケイとニシアキとは、昨日と同じ人気のない特別教室前の廊下にいた。
「ケイはあれからクラスの女子に聞いたの?」
「ああ」
「どうだったんだ?」
「そんなのわからないって」
「まあ、そうだろうな」
ニシアキがもっともだという表情を浮かべる。
「でも、うちのクラスだと竹田と新刻が付き合ってるから聞いてみたいんだ。そしたら、一緒に遊ぶことだって言ってた」
「じゃあ、その後輩と遊んだら」
帆文は名案は浮かんだように明るくケイに言った。
「・・・・・・実はもう遊んでる。先週もデートしたし」
ケイは気まずそうに答えた。
「・・・・・・え? それもう付き合ってるじゃん」
帆文は一瞬の沈黙の後、はっきりとつっこむ。
「そうだけど。何ていうかこれでいいのかなって気持ちになるんだよ。わかるだろ?」
ケイは不安げに呻いた。帆文とニシアキは互いに顔を見合わせると同時に首を振る。
「わからん」
「わからん」
「もう、なんでだよっ」
ケイは喚きながらつっこんだ。
「結局、ケイはどうしたいんだ?」
「どうしたい?」
ニシアキの質問に、ケイは眉を寄せて悩み始める。しかし、上手く言葉に出来ないのか「むう」と呻くだけだった。
そこで三人は行き詰まる。恋愛経験のない三人が寄っても何の知恵も思い浮かばなかった。
「そもそもその後輩のこと知らないからな」
帆文はぽつりと呟く。
「ああ、言ってなかったっけ。璃津木百合(りつきゆり)って子なんだけど」
「初めて聞く名前だな」
「でも、ケイに告白するって珍しい子だよね」
「どういう意味だよ」
帆文の言葉にケイはすかさずつっこむ。
「ずっとマネージャーをしてる子なのか」
「そうだけど、しゃべったことはあまりないんだ。でも、四月になってしばらく経ってから突然、部活終わった後に部室裏に呼び出されて告られて」
ケイは思い出しながら話しているのか、視線を右上に向けながら言った。
「それだけ聞くと、別に普通じゃないか」
「うん」
ニシアキの言葉に、ケイは頷くが、その表情はどこか煮え切らなかった。
「もしかして、ケイもその子のことよく知らないのか?」
ニシアキがぽつりと尋ねる。すると、ケイは首を振った。
「いや、そんなことないけど。えーと、璃津木百合って子は、2年C組で、A型で、九月十九日生まれで、よく気が利いて、ドラマをよく見てて、いいところのお嬢様っぽくて・・・・・・」
そこでケイははっと気づく。
「ああ。そういえばあんまり知らないな」
「だからじゃないか。ケイっていつも好きになる方だったろ。相手のことを知ってから好きになってた。でも、今回はそうじゃないから不安になってるだけだと思うけど」
「そっか」
ケイは腑に落ちたように頷くと、憑きものが落ちたように笑顔を浮かべた。
「さすが姉がいるやつは言うことが違うなあ」
ケイは笑顔で答えた。そんなケイを見て、帆文は思い出したようにぽつりとつぶやく。
「ああ。だからか・・・」
「何が?」
「いや、付き合うってお互いのことを知っていくことだって言った子がいたから」
「え? なんで最初に言ってくれなかったの」
ケイは帆文を恨めしそうに見る。
「いや、忘れてたんだ」
帆文はどこかばつが悪い気持ちになって首を振る。
「文ってたまにボケてるよね」
「そうだな」
ケイとニシアキは互いに顔を見合わせて頷く。
「ボケてない」
帆文はつっこんだ。
「で、それは誰が言ったんだ?」
ニシアキの質問に帆文はどう答えるか考えてから、口を開いた。
「バイトの同僚の子なんだ」
「へぇ、バイトの同僚いたんだ」
「ああ、最近は入ったんだ」
帆文の言葉にケイが目を輝かす。
「女の子?」
「ああ、まあ」
「なんでそれ言ってくれないの」
「言う必要ないと思って」
「うわっ、冷たっ。文は冷たいなあ。友だちにバイトの同僚も紹介しないなんて」
「はあ? わざわざ言うことでもないだろ」
「まあまあ、文は紹介したくない相手なんだろ。察してやれよ」
「ああ、そういうことか」
「いや、なんだよ。そういうことって」
「いやあ、別にわざわざ言うことでもないし」
「質悪りな、くそっ」
「じゃあ、今度紹介してよ」
ケイは嬉しそうに言った。
「なんでだよ」
「だって気になるし。ねえ、ニシアキ」
「ああ」
ケイとニシアキは二人で同時に頷く。そして、ニシアキがだめ押しの一言を言う。
「まあ別に、やましかったらいいけど」
「やましくない。わかったよ。今度紹介するよ」
そう言うと、ケイは「やった」と頷く。ニシアキも頷いていた。上手く乗せられたことに憤慨しながらも、帆文は内心、悪い気はしていなかった。
放課後、帆文はバイトもないのに古書堂に向かっていた。脳裏には、今朝、寛人に言われた言葉が浮かんでいる。
『もし後悔しているなら早めに謝った方がいい』
その言葉は帆文を突き動かすには十分すぎた。古書店につくと、脇の駐車場に自転車を止め、店内に入る。
鈴恵はカウンターにいた。ぼんやりと入口を見ている。だから、店内に入ってきた帆文とすぐに目が合った。
「あっ」
お互いに声が上がる。そして、気まずい沈黙が流れた。
謝りにきたはいいが当人を前にして記憶が飛ぶ。何を、どう言ったらいいのか全くわからなくなっていた。
いきなり謝るべき?でも、それだとなんのことかわからないし。じゃあ、最初に何を言えばいいんだ。会った人に最初に言う言葉、挨拶か。
頭の中では思考がぐるぐる回る。しかし、ごちゃごちゃだった考えは、すこしずつ形作られていった。
そして、帆文はふと鈴恵がこの前言っていたことを思い出した。その言葉を口にしようと口を開く。
「おはようございます」
「こんにちは」
「え?」
帆文と鈴恵は互いに声をあげる。そして、互いに笑った。
「この前と逆でしたね」
「そうだね」
「どうしたんですか?今日はシフトじゃなかったと思いましたが」
「ああ、昨日のことを謝りたくて」
鈴恵はきょとんとした顔を帆文に向ける。
「謝る?」
「帰りにひどいことを言ったから」
「ああ」
鈴恵は納得したように頷くと、笑顔を浮かべた。
「気にしなくていいですよ。だって、私には関係ないのは本当ですから」
「もしかして、怒ってる?」
帆文は恐る恐る尋ねる。
「怒ってません」
鈴恵の口元はにこにこ笑ってる。しかし、その目は笑っていなかった。その顔を見て帆文はすぐに頭を下げる。
「ごめんなさい」
「いえ、いいですよ。こちらこそ意地悪してすいません」
帆文が顔を上げると、鈴恵は笑っていた。それはいつも通りの穏やかな笑顔だった。しかし、帆文の内面は穏やかではなかった。
草川さんは怒らせるとやばそうだから、今後絶対に怒らせないでおこうと、心の中で誓う。
「店長は今どこ?」
「奥でネット注文の確認しておられますけど。呼びましょうか?」
「いや、会ってもろくなことにならないからいい」
「そんなことないと思いますけど」
鈴恵はくすくす笑っている。
「じゃあ、仕事頑張って」
無事謝れた帆文はそう言って帰ろうとする。
「え? もう帰るんですか?」
「用事は済んだし」
あっさり言うと、すずえは頬を膨らませた。
「待ってください。謝りに来たんだったら、もう一つ言うことがあるんじゃないですか?」
「もう一つ?」
「はい。どうして早く大人になりたいのか教えてください」
そう言われてようやく帆文は理解する。しかし、それは、鈴恵に話すにはあまりにも―。
「―つまらない話だよ」
「それを決めるのは私です。それに気になって昨日、眠れなかったんですから」
鈴恵はそう言うと目元を指さした。確かに少しくまができているようにも見える。瞳も泣いたあとのようにかすかに赤くなっていた。
「わかった。でも、本当につまらない話だよ」
「はい」
鈴恵は笑顔で頷く。その顔はなぜかとても嬉しそうだった。この顔がこのあときっと真顔になることを想像して、帆文の胸はかすかに痛んだ。
「実は、俺の親は二人とも事故で死んでいるんだ。だから、今、親戚の家に住んでいる」
淡々と語られる帆文の言葉を聞いて、鈴恵の目が見開かれた。息を飲む音が響く。
「そこでの生活は居心地がよくて、悪くないんだけど、やっぱりどこか悪いと思っちゃうんだ。だから、俺は早く一人で生活できるようになりたい。早く自立したいんだ。それが早く大人になりたい理由。ちなみに、バイトをしている理由も同じ。自立するにはお金がいるだろ。そのためのお金を稼ぐために俺はバイトを始めたんだ。つまらない話だろ」
吐き捨てるように言うと、帆文は自虐的に笑った。笑った理由は二つあった。一つは、何度口にしてもあまりにも下らない子どもっぽい理由であったこと。もう一つは、この期に及んで、自分の過去を他人に聞かせられるような小綺麗な話にまとめたからだった。
鈴恵は何も言わずに帆文をじっと見ている。そこにさっきまでの笑顔はない。代わりに、その顔には驚愕が浮かんでいた。
帆文はそんな鈴恵の顔をじっと見ていた。
いつもこうだった。
この話をした時はまず驚かれ、同情される。そして、後には、どうしたらいいのかわからない気まずい空気が流れるだけだ。だから、帆文はこの話をしたくなかった。
「時岸さん。ごめんなさい」
まず、鈴恵の口から出たのは謝罪だった。何がごめんなさいかわからない。
「私、時岸さんのこと少しでも知りたくて」
次に、言い訳のような言葉が並ぶ。何で知りたいのかもわからない。
帆文はわかりきった空気に嫌気がさす。だから、慣れた調子でなんとかしょうとした。
「気にしなくていいよ」
そう気にすることはない。そんなこと望んでいない。
「逆に気を遣わせてごめん。だから、今のことは忘れて」
それが一番いい。
人間は忘れる生き物だ。だから、嫌なことは全て忘れてしまえばいい。消えることはなくても忘れることはできる。二度と思い出さないように蓋をして、閉じ込めることはできる。
これは嫌なこと。嫌な思い出にしかならないこと。だから、帆文にとって早く大人になりたいという願いは、汚れて、歪んで、稚拙で、幼稚で、嫌悪感しか生まない願いでしかなかった。
「それじゃあ、俺は帰るから。仕事頑張って」
帆文はそう言うときびすを返して店を出る。その時だった。
「待ってください」
カウンターにいた鈴恵は駆け出すと、帆文の腕を掴んだ。
「え?」
帆文は驚きながら足を止めると、振り向く。
「どうしたの?」
鈴恵は帆文の腕を掴んだまま、俯いていた。だから、帆文からはどんな顔をしているのかわからない。ただ、きっとまた謝られるのだろうと思った。いつものことだった。しかし、俯いた鈴恵が言った言葉は違った。
「ありがとうございます」
今度は帆文が面食らう番だった。
「え? なんで」
そこで鈴恵は顔を上げた。その顔には穏やかな笑みをが浮かんでいた。
「だって、教えてくれたから。言いにくいことでも言ってくれたから。だから、ありがとうございます」
帆文は唖然とした。
こんなことを言われたのは初めてだった。ただ、悪い気はしなかった。
「いや、あのっ、どういたしまして」
帆文は自分でも何を言っているんだろうと思いながら頷くことしかできなかった。そして、鈴恵はぱっと腕を放す。
「引き留めてしまってすいません。じゃあ、お気をつけて」
「ああ。また」
「はい。また来週の土曜日に」
鈴恵は笑顔を浮かべて手を振って浮いた。帆文も振り返す。自転車に乗って出ようとすると、鈴恵は店の前で見送っていた。
相変わらずまめだなと思いながら、帆文は鈴恵にもう一度手を振った。
そして、前を向く。
その顔は晴れやかだった。
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