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第2章
王子とライノア
しおりを挟む雨の酷い日だった。
降り頻る雨は身体を冷やし、体力も体温も奪っていく。視界も悪く、目的地である国境沿いの河川にたどり着いた頃には、夜も更けていた。
頭から覆う外套は雨を含んで重く、子供の体力で歩き続けるのは辛い。それでも手を引かれて暗闇の中を歩き続けた。
「街に着いたら好きなだけ寝ていいですから、あと少し頑張って下さいね」
暗闇の中微かに見えるのは、動きに合わせて揺れる白い手と、肩で緩くまとめた長い茶髪。
ずっと手を引いて前を歩く従者は、視線だけ寄越して微笑んだ。暗闇で殆ど見えていないが、笑ったのが何故かわかった。
朝は三人いた近衛騎士は、もう何処にもいない。皆自分を庇って倒れた。
今ここに居るのは自分と、一人の従者だけだ。
小さな頃から知っていた騎士達の亡骸を弔う事も出来ず、泣く事も許されずにひたすら歩き続けている。
「なぁ、俺は生きていていいのか」
前を歩く従者に問いかけると、ピタっと歩みを止めた。そのまましゃがんで目線を合わせてくる。
「王子、貴方が死ぬ理由はないですよ」
暗くてもわかる、紫の真摯な眼差しで見つめる従者は、そっと頬を撫でてくる。自分よりも大きな手は顔に似合わずゴツゴツしていて、それなのに優しい。
「でも、俺のせいで皆死んだ。優しい人達だったのに。······俺を殺そうとしたのは母上だろう?」
沈黙は、肯定と捉えていいだろう。答えあぐねて唸る従者を見つめると、微かなため息が聞こえた。
帝国の王子として生を受けたが、一度も母の愛情に触れたことは無かった。可愛がられるのは兄だけで、何のために生まれたのかわからないまま十歳の誕生日を迎えたのが昨日。
騒がしさに目を覚ますと、寝室に賊が侵入し、あわや殺されかけた所を助けられたのが今朝。
賊は母親である女帝の差し金なのはすぐにわかった。
このままでは命が危ない、と数名の近衛騎士と従者に連れ出され、急遽人目を忍び隣国へ亡命する手筈だった。しかし、何処から情報が漏れたのか、城を出てすぐに襲撃された。追手の追跡を躱し切れず応戦し、皆自分を逃がすために命を散らした。
(俺のせいで······)
どこまで逃げたらいいのだろう。
途方もない暗闇の中を歩き続ける終わりは、いつだろうか。
ふと、従者が背後を振り返った。
遠くを見つめる視線の先は暗闇だが、夜目が効く従者には何か見えたのだろう。繋いだ掌から緊張が伝わってきた。
従者は自分の懐から何かを取り出す。肩を掴まれたと思ったら、首に何か掛けられた。それは従者がいつも肌身離さず着けていたペンダントだった。シルバーのプレートにアメジストが嵌められたシンプルなそれは、前にかっこいいと言ったら、いつか自分が死んだらあげますよと、からかわれた。
従者は微笑むと、力強く抱きしめてきた。
「約束通り、これは餞別です。きっと、大事にしてくださいね」
「餞別······?」
心臓が早鐘を打つ。雷の音に混じって遠くから足音がする。
「いいですか、このまま真っ直ぐ川沿いに走って下さい。しばらく進めば街の入口が見えてくるはずです。······一人でいけますよね?」
頭をふると、困ったように笑う気配がする。
「いやだ。ライノアも一緒に行こう」
名前を呼ばれた従者からの返事はなく、頭を撫でてくる手はずっと冷たいままだった。
足音が近づいてくる。従者に手を伸ばすと、パシっと弾かれた。
「行きなさい、早くッ!!」
今まで一度も聞いた事の無い、従者の怒鳴り声。
いつも笑ってる人だった。
感情を表に出す事が苦手な自分の分も怒ってくれる、優しい人だった。
争い事が苦手で、訓練がキツイという理由で近衛騎士を辞めて、それでも自分に仕えたいと従者になってくれた。
年齢の割に幼く見える童顔を気にしていて、髪を伸ばしたら今度は女性と間違われたと怒っていたのはいつだったか。
置いて行きたくない。
どうか置いて逝かないで。
一人にしないで。
再び手を伸ばそうとしたら、背中を強く押されて身体がよろめく。
そのまま、一歩、二歩と足を出し、走る。
背後で響く剣戟に、足がすくみそうになる。
上手く息が吸えない。
喉が痛い。
苦しい。
それでも死に物狂いで走り続けた。
背後の剣戟が止む。おそるおそる振り返えると、遠くで崩れ落ちる従者の姿が、雷の光で微かに見えた。
(皆、俺のせいで······)
涙がとめどなく溢れた。嗚咽と涙で呼吸がままならない。
ふ、と風を切る音と共に左の肩に衝撃が走った。途端、肩に猛烈な熱さを感じ、身体がぐらりと傾く。
(矢が、刺さったのか)
視界の端に見えた矢羽根。城の近衛兵が使用する物と同じだった。
そのまま、派手な水飛沫を上げて川に倒れ込んだ。
降り続いた雨で川は増水していて、濁流に身体が飲み込まれる。
息を吸おうと口を開くが、酸素のかわりに水が入り込む。
苦しい。痛い。
(······もう、いいじゃないか)
大好きだった人達は、もう居ない。皆自分のせいで死んだ。
藻掻いた所で、どうしようも無い事はわかっている。
薄れていく視界の端で、追手が引き上げていく気配がする。
(短い人生だったな)
冷たい水の中、手足の感覚も、自分の存在さえ曖昧になって溶けてゆく。
自分を命懸けで守ってくれた騎士や従者には申し訳ないが、きっともう少しで会える。
そう思ったら死ぬのも怖くなかった。
最後に視界に映ったのは、従者に貰ったペンダントだった。
濁流の中で微かに光るアメジストは、従者の瞳と同じ色で、自分はこの色が好きだと死の間際に気付いた。
♢♢♢
チャリ、と鎖が擦れる音に、我に返る。
無意識に昔を思い出していたようで、思わずため息を吐いた。
首に掛けられたペンダントは、シャツの中で歩く振動に合わせて微かに揺れる。
従者の形見は、死に損なったあの日以来、ずっと自分の首にかけている。
川底に沈んだと思った身体は、近くの河川敷に打ち上げられ、たまたま通りかかった隣国の小さな王子と王妃に助けられた。
身体が回復し、ようやく会話できるようになった時に名前を聞かれ、思わず「ライノア」と名乗った。それは半ば無意識で、自分を守って死んだ従者の名前だった。
──帝国の哀れな王子は、あの雨の日に川の底に沈んだ。
「──いつの間にか、あの日の貴方よりも年上になってしまいましたよ、ライノア」
誰にも聞こえない声で、黒髪の従者はひとりごちた。
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