恋は媚薬が連れてくる

月咲やまな

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本編

【第1話】遅刻をしなければ何か違ったのだろうか

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 嘘でしょ、まさか遅刻だなんて……。
 教科書の入った重い鞄を抱えながら、信号が青になったばかりの交差点を全速力で駆け抜ける。とは言っても、少しヒールのある靴なのでどうしても思ったようなスピードは出なかった。左腕につけている腕時計にチラッと視線をやると、今の時間は午後十九時三分。 
 マズイ…… 七時からって、いつも約束しているのに。
 今私が居る場所からは、目的地までどうやってもまだ十分くらいはかかる。ギュッと鞄を強く抱き締め、何とか一分でも早く着けるようにと、一心不乱に先を急いだ。

 高科たかしなみどりは医療系の勉強をする傍ら、半年前から友人の紹介で家庭教師のアルバイトをしている。アルバイト先の家は、ご両親が夜からも仕事をしている日がある為時間に厳しく、『十九時までには必ず来て欲しい』と強く頼まれていて、みどりは今まで一度も遅刻などした事がなかった。
 だが今日は、憧れの山本先生に資料作りの手伝いを頼まれてしまい、当然の如く断る事が出来ず、今にいたる。
(もっと早く終わると思ってたんだけど、計算違いだった…… これでクビになったらどうしようっ)
 後悔するも時既に遅く、『よりにもよって山本先生が私に頼んでくるのが悪いのよ!』『何で今日だったのさ!明日なら深夜までだろうが喜んでお手伝いしたのに!』などと、軽く逆恨みしたりするも、憧れの先生に微笑みながら『ありがとう』と言ってもらえた事を思い出し、ちょっとニヤけてしまった。
 いつも勉強ばかりしている体に全速力を何十分も出し続ける体力はなく、少しづつ遅くなる走る速度。お洒落な靴で走った事による足の痛さも重なって、今では普通に歩くよりも遅くなってきた。
(ど、どうしよう…… )
 焦りながらも、何とか前へと進み、やっと目的の家の玄関まで着いた。
 粗い呼吸を深呼吸して整えながら、腕時計を見ると、時間は十九時十八分。
 十八分もの遅刻だ。
 怒られるのを覚悟しながら、家のチャイムを鳴らす。
 誰かが出るまでの、この間がすごく苦手なみどりは、『何て言い訳しよう…… 』と考えながらじっと母親が出るのを待つ。
『——はい』
 少しの間の後、インターホン越しに聞こえる男の低い声に、みどりは驚いた。今まで半年間毎週通っていて、一度も聞いた事のない声だったからだ。
 いつもは母親が明るい声で出てくれるというのに、まさかインターホンにも出たくない程に怒らせてしまったんだろうか?と不安が心をよぎる。
「え、あ…… あの、家庭教師の高科です。遅れてすみませんでした!」
 震える声で何とか話すと『あぁ』とだけ声が返ってきて、プツッと通話の途切れる音が聞こえた。
 玄関ドアの奥から微かに足音が聞こえ、鍵を開けてくれる。
「どうぞ」と言いながら、先程インターホン越しに話した男が、ドアを目一杯開けてくれた。
「ありがとうございます、本当に遅れてすみませんでした」
 頭を下げながらもう一度詫び、次に顔を上げた瞬間。みどりは相手の姿を見て、初めて時間が止まるような感覚を感じた。
 高い身長、ダークトンのスーツに、一度も染めた事がないだろう美しい黒い髪。真面目そうな顔立ちと相性のいい細い縁あり眼鏡をかけ、低い声はちょっと艶っぽい。細過ぎず、かといって太っている訳でもない体格は、ちょっと鍛えているのかもしれない。
 呆然とその場に立ち、彼を見ていると「入ってもらってもいいかな?」と声をかけられ、ハッとみどりが我に返った。
(変な奴だって思われたかも!)
 焦りながらみどりは家の中に入り、壁に手をつき、腰を屈めながら片手で靴を脱ごうとした。留め金を外そうと手をかけるが、動揺しているせいで上手くいかない。
「あ、あれ?」
 無理に留め金を引っ張るも固く、困っていると、彼がみどりの足元にしゃがみ、無言で靴の留め金を外してくれた。
「あ……ありがとうございます」
 顔を真っ赤にしながら、みどりが礼を言う。
「困っているみたいだったから、気にしなくていい」
 そう言いながら彼がみどりの靴を脱がせ、「ここに置いておくから」と言い、その場に置いた。
 間近で見る彼の肌の綺麗さと、まつげの長さに驚きながら、口元を手で隠し『綺麗…… 』と呟いてしまうのを堪えていると、彼が顔を不意に上げた。
 途端にみどりの心臓がバクンッと跳ねる。名も知らぬ彼との距離が、あまりに近過ぎた。みどりがあと少し腰を屈めれば、キスでも出来そうなくらい近くにある、端正な男性の顔。
 戸惑いながらも、みどりが視線を反らせないでいると、彼がゆっくりと立ち上がった。
「どうぞ、中にあがって」
 彼に続き、みどりがもう片方の靴を脱ぐ。こちらの留め金は簡単に外れてくれて助かったと思いながらも、不思議と少し残念な気持ちにもなった。
「お邪魔します」と言いながら、みどりがいつものように二階へ続く階段を上がろうとする。だが、「待って、今日はまずこっちに」と、彼がみどりに声をかけてきた。
「あ、はい」
 返事をして彼の後に続き、居間に入る。この部屋に入ったのは、みどりが初めてこのお宅にお邪魔した時以来だ。
 ダイニングテーブルのある場所まで誘導され、「そこに座って」と言われ、指された席に座る。周囲を見ても彼以外誰も居らず、みどりは少し不安な気持ちになってきた。
「あの、お母様は?」
「七時で仕事に出た。君が来るから出かけるなと言っていたよ」
「あ、すみません…… 遅れてしまって。その…… 怒ってらっしゃいましたか?」
 恐る恐るみどりが訊く。
 彼は台所でお湯を沸かしながら、ティーポットに手を伸ばし、カップを探そうと食器棚の方に体をやった。
「笑いながら今までよく遅刻しないでくれていたと感心していたから、怒ってはいないと思うが、連絡はするべきだったな」
 急ぐあまり、すっかりその事を忘れていたみどりは、肩を落としテーブルを見ながら「…… すみません」と、項垂れながら謝る。
 コトッと音がして、音のする方にみどりが目をやると、彼が紅茶用のカップを置いてくれていた。
「ストロベリーティーは好きか?」
「苺は好きですが…… 紅茶では飲んだ事がないです」
「そうか、それはよかった」
 台所に戻り、ティーポットの中にゆっくりとお湯を注ぐ。ふんわりと、苺のいい香りが部屋に広がり、みどりの心はすっかり落ち着いてきた。
「いい香りですね」
「気に入ったみたいで良かった。コーヒーも飲むが、仕事ではそっちばかりだから、家では紅茶を飲むようにしているんだ」
 ティーポットと自分用のカップを手に、彼がみどりの対面に座る。
「あと三分程待ってくれ」と言い、彼が両手を組んでみどりの顔をじっと見詰めてきた。
(紅茶の事かな?)
 みどりはそう考えつつ、見られる事に少し戸惑いを感じながらティーポットに視線をやると、彼が口を開いた。
「そういえば、自己紹介がまだだったな。宗太の兄の宗一郎そういちろうだ。スーツのままですまないね、仕事から帰ったばかりだったんだ。君は、みどりさんだったかな?」
「はい、高科みどりです。そういえば宗太君は?」
「奴も君と同じで遅刻だよ。連絡はあったが、八時は過ぎるとか言ってたな」
(うわ、今日は残業かな…… )
 二十一時にはでアルバイトを終え、家に帰って食事をするのが金曜日のお決まりのパターンだったのだが、今日はそうはいかないようだ。
 いつもよりも晩御飯が相当遅くなる。
 その事実に気が付いてしまうと、みどりの空腹感が刺激され、少しお腹が鳴ってしまった。
 小さな音だったのだが、宗一郎には聞こえたらしい。彼はクスッと笑い「何か出そうか」と言いながら立ち上がった。
「いえ、気にしないで下さい!」
 みどりが顔を真っ赤にしながら、慌てて言った。
「いいから、ちょっと待ってて」
 宗一郎はみどりの言葉を遠慮だと受け取り、台所へ行って冷蔵庫を開けた。
「ケーキならあるんだが、それでいいよな」
 お店のロゴの入った箱と二枚の小皿、フォークを手に宗一郎がダイニングテーブルまで戻って来た。箱などをテーブルへ置き、紅茶をカップに注ぐ。
 優しい香りがみどりの鼻腔を刺激し、ほんわかとした気分でうっとりしていると、目の前に宗一郎がチーズケーキを出してくれた。
「買っておいてよかったよ。晩御飯までのつなぎくらいにはなるだろう?」
「本当に私が頂いてもいいんですか?…… なんだかすみません」
 空腹の状態で勉強を教えるのは正直ツライので、ここは甘える事にした。
「どうぞ」と、微笑みながら宗一郎が言う。
 眼鏡の奥に見える端整な顔に浮かぶ微笑は紅茶の香り以上に魅力的で、みどりはつい彼の顔に魅入ってしまった。
「俺の顔に何か?」
 チーズケーキにフォークをあてていた宗一郎が見られている事に気が付き、みどりに訊いた。
「いえ!何でもありません」
 慌ててみどりが視線をずらし、紅茶の入ったカップを手にとる。口をつけ、コクッと温かい紅茶を一口飲んだ。
 その様子を見た宗一郎が口の端でニヤッと笑ったが、みどりは紅茶に気をとられていて視界には入っていなかった。
「味はどう?」
「美味しいです!甘いのにくどくなくって、このケ-キに合ってますね」
「気に入ってもらえてよかったよ」
 紅茶とケーキを口に運び、両方が半分くらいに減った頃、宗一郎がみどりに質問をした。
「みどりさんは、実家通い?」
「いえ、一人暮らしです。上京組なんで。この近所なんですよ、歩いて…… 十五分くらいでしょうか」
「そうなのか。一人暮らしだったら気楽でいいね。友達や彼氏が泊まりに来ても、誰も文句言わないもんな」
「か、彼だなんてそんな。勉強でいっぱいいっぱいで…… そんな余裕は」
 少し困った顔をしながらみどりが答えた。
 みどりは比較的物覚えはいい方なのだが、流石に家庭教師とアイスクリーム屋の店員のアルバイトを二つ掛け持った上での大学の勉強は大変で、彼氏を作る余裕は無い。
「バイト二つしてるんで、そういった相手はいないです」
「君くらい可愛いと付き合いたい奴も多いだろうに、残念に思われているだろうね」
 みどりの顔が、ハッキリと自覚できるくらい真っ赤に染まった。
「かっ可愛いだなんてそんな…… 言われた事なんか無いです」
「君はとても可愛いよ、一目惚れとかされちゃいそうなタイプだよね」
 ニコッと優しく、宗一郎が微笑む。
 みどりがどういった言葉を返していいかわからずに困っていると、玄関の方からドアの開く騒々しい音と一緒に「ごめんー!遅くなった!みどりセンセまだ居る?!」と、大きな声が聞こえてきた。
 宗一郎が少し眉をしかめ「…… 五月蝿いのが戻って来たな」と呟くと、残っていたケーキを口に運んだ。
 バタバタと聞こえる足音は階段を上がり、「あれ?靴あったのになぁ…… 」と、ぼやきながら下へと降りてきた。
「さげるから、残ったの飲んじゃってもらってもいいかい?」
 宗一郎に言われ、慌ててみどりが残っていた紅茶を飲み、ケーキを食べる。
 その様子を宗一郎が満足そうな顔で見届けると「そうだ、みどりさん」と声をかけた。
 まだ口の中のケーキを噛んでいたみどりは、無言のまま宗一郎に顔を向け、『待って』と意味をこめて手を軽くあげた。
「いいよ、ゆっくり食べて。今度からね、君はもっと個人情報には厳しくなった方がいいよ。いい奴ばかりが世の中にいる訳じゃないから」
 宗一郎が立ち上がり、みどりの後ろまで行くと、彼女の肩にぽんっと手を置いた。
(…… え?)
 目を少し大きくしながら座ったまま振り返り、みどりが宗一郎の顔を見上げる。ガチャッと音をたて、居間のドアが開くと、宗一郎がパッとみどりの肩から手を離した。
「アニキ居たんだ?随分帰るの早いのな」
 声の主は、みどりが家庭教師をしている宗太だった。
 バスケット部に入っている高校生で、宗一郎と同じく背が高い。兄とは違い、明るい印象を与える爽やかな見た目と短い髪。いつも元気に話し、周囲を楽しませるタイプの子だ。
「あ、みどりセンセこっちに居たんだ。ごめんね!こんな遅くなって」
 顔の前でパンッと音がなるくらい思いっきり両手を合わせ、何度も頭を下げながら宗太が詫びる。
「金曜だけは早く帰らせてくれって頼んではあったんだけど、ちょっと今日は色々あって」
「私も今日は遅刻しちゃったから気にしないで」
「いや、二人とも反省するべきだな。どういった理由があっても、遅刻するという事は相手の時間を奪う事になるんだから」
 無表情でそう言い放ち、宗一郎がケーキののっていた食器を重ね、台所まで運ぶ。
「わかったって、反省するから。あ、ケーキまだある?」
「お前に食わせるようなケーキはない」
「うあ!俺のねえの?腹減ってるのに」
「勉強が終わるまで我慢するんだな」
 口をへの字にしながらも、宗一郎には強く出られないのか、宗太が黙ったままため息をもらした。
「わかったよ。んじゃセンセ、俺の部屋行こうか」
 可愛らしい、懐っこい笑顔をみどりに見せると、宗太が先に居間から出て二階に上がる。
 みどりは少し気まずそうな顔をしながら「ごちそうさまでした、美味しかったです」と宗一郎に言い、席から立ち上がった。
 居間を出ようと思い、みどりが数歩歩いた時。後ろから宗一郎が彼女の肩に手を置いて、歩くのを止めた。
「ごめんな、キツイ言い方して。君には本心じゃないから」
 みどりの耳元に顔を近づけ、宗一郎が囁く。
「宗太にまたやられたら困るからああ言ったけど、気にしないで欲しい」
 コクコクと頬を染めながらみどりが頷くと、宗一郎が微笑んだ。
「今日はもう遅いから三十分だけでいいよ。じゃあ、宗太を頼む」
 宗一郎はそう言うと、みどりの背中を軽く叩いた。


 みどりは宗太の部屋へ行く為に階段を上がり、彼の部屋のドアを開け、「おじゃまします」と言いながら中に入る。
 その様子を一階の階段下で微笑みながら宗一郎が見守り、腕時計に目をやった。
 彼女の姿が完全に見えなくなった途端、無表情になる宗一郎の顔。
「…… さて、どういった効果がでるかな?」
 ボソッと呟き、ニヤッと口の端で笑うと、彼は食器を洗う為に台所へと戻って行った。
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