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本編
愛玩少女〜第1話〜
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重い、とても重い瞼をゆっくり開ける。緩やかに、穏やかに、深海にでも沈んでいたみたいに真っ暗だった視界が、徐々に光を受け止め始めた。
…… はず、だ。
真っ暗だった視界が、今度は一転して真っ白になった。上下左右の感覚を無くすくらいの真っ白で真四角な世界だ。
「…… ?」
何故こんな場所に自分は居るのだろうか。
不思議に思いながら瞬きを繰り返していると、何となく周囲の輪郭を捉える事が出来始め、ベッドの上に横向きになって寝転んでいる事がわかった。ここには家具らしい物はほとんど無く、壁には自分を映す大きな鏡が、中央にはキングサイズのベッドがあるくらいに見えた。
二度、三度まばたきを繰り返し、のそっとした動きで体を起こす。
居る場所がとても異質である事はかろうじて理解出来たが、それ以外が何もわからない。わからない、今までに経験したはずの何もかもが思い出せない。そのせいで、心拍が少しずつ上がり始め、不安が胸に生まれそうになったその時——背後から「起きたんだね。しっかり休めた?」と言う男性の声が突然声が聞こえ、ビクッと体が震えた。
「あ、ごめんね。驚かせてしまったかな?」
気遣う様な優しい声がちょっと耳に心地いい色を持っている。顔を見ずとも、声の主が穏やかな人物であることが想像出来た。
「…… 貴方は?…… ここは、どこですか?」
自分は何故ここに居て、どうして眠っていたのだろうか。
そして…… 自分は、誰だったのだろうか?
少女の問い掛けに答えは無く、男性はただじっとベッドの上で体を起こした少女を見ている。彼女の様子を伺っているのか、その視線はちょっと険しい。
キョロキョロと周囲に視線をやりつつ、声のした方へ体を向け、少女はペタンッと子供のようにスカートを広げて座った。
「…… あ、あの。貴方は——」
さっきの声は小さくて聞こえなかったのかもしれないと思い、もう一度改めて男性に問いかけようとして、少女は途中で言葉を失った。彼の姿に目を奪われてしまったからだ。
鏡でも、見ているのかと思った。
それが、彼女の素直な感想だった。
白銀の髪色、赤味がかった瞳。男性にしては少し髪が長めで、瞳や耳が隠れ気味な為、中性的で線の細い雰囲気を漂わせている。着ているシャツに穿いているズボンや、果ては座っている椅子までもが真白なせいで、背景に溶け込み、そのうち目の前の男性が消えて無くなってしまいそうなくらい儚げだった。
「僕の事は、どのくらいわかる?」
やっと返ってきた返事は、問い掛けだった。
全く彼が誰なのか思い当たらず、少女が首を横に振る。自分の存在すらも朧げにしかわからないのに、他人の事などなおさらだ。
「じゃあ…… 今までの、事は?」
同様に、首を横に振って答える。
驚く程何も今までの出来事が思い出せない。まるで今までの人生をリセットされてしまったみたいな感覚だ。
「…… 自分の名前は?」
「…… 何も、わかりません」
そう答え、少女が不安げに瞳を揺らす。その様子を見て、青年は嬉しそうな笑みを一瞬だけ口元に浮かべたが、すぐにそれを手で隠した。
一度咳払いをし、膝の上で手を組んで笑顔を作る。彼の優しい雰囲気のおかげで、少女はこのままパニックを起こさずにいられそうだ。
「僕の名前は…… ハク。君の…… そうだな、ご主人様、かな」
彼は、今この場で思い付いた事を口にした。何もわからないのならば、問題はないだろうと思っての事だ。
「ご、ご主人…… 様」
反応に困り、少女は言葉を鸚鵡返しで口にした。
「君の名前は桜子。そしてここは、僕達の家だ」
「…… 桜子。…… 家?そして、ハクさんは…… 私のご主人様」
教えてもらった情報を言葉にしてみても、全然ピンとこない。名前だけはしっくり感じられるのに、他はさっぱりなのは本能的に違和感を覚えたから、なのだろうか。
「名前を聞いても、何も思い出さない?」
「そう、ですね」
「そうか…… よかった。その方がいいよ。あんな目にあったんだ、忘れるのが当然さ」
だが、ハクが『あんな目にあった』と口にした瞬間、桜子の瞳が大きく見開かれ、ザザッと不快な音が耳奥で響いた。
部屋の真っ白な空間に、この場には居るはずのない男の姿がぼんやりと見える。背後には広い和造の屋敷廊下が薄らとあり、『あぁ、君か。すまないが、手伝ってくれないか?』と桜子に向かって声をかけてきた。
『ほら、これから客人が来るだろう?珍しい花器でも出して差し上げようかと思うんだ』
『わかりました』と、彼女が素直に応じ、後に続いて歩いて行く。すると次の瞬間には突然場面が飛び、薄暗い倉庫の中に二人が立っている様子が浮かび上がった。
「あ、あぁぁ…… 」
見えないはずのモノが見える事に驚き、怯え、桜子が震えた声をこぼす。顔面は蒼白で、長い白銀の髪が激しく揺れた。
「ど、どうしたの?何かあった?」
桜子の突然の変化に焦り、ハクが彼女の肩を掴もうとする。すると彼女はより一層怯え、「いやぁぁぁぁ!」と悲痛な声をあげて彼の手を振り払った。
ハクの姿に、見知らぬ男の姿が重なって見て、ぬっと大きな手が桜子に近づいてくるせいで、彼女は更に悲鳴をあげながらベッドの上に体を伏せる。
『警戒心の欠片も無いとは、本当にお前は馬鹿だな。まぁその方が都合がいいんだが…… 』
ニタニタと笑う顔は強く目を閉じても消えず、イヤラシイ色をした声も聞こえたままで、耳を手で強く塞いでも変化が無い。
『あんな薄気味悪い男に、俺がもてなしなんかすると思うか?ホント、つくづくお気楽なもんだ。…… そういや、お前らは随分似てるな』
「い、いや…… 来ないで、来ないで!」と、幻聴に対し桜子が叫ぶ。
「桜子?まさか、何か思い出したのかい?」
反応があまりに過剰な上、ハクに対して拒否反応を示しているとは感じられなかった為、彼の声は比較的穏やかだ。だがその声は彼女には届かず、耳につく不快感しか無い男の声が桜子の耳奥で尚も響く。
『うるせえ!黙れって。叫んでもこんな場所、誰も来ない事ぐらいわかってんだろぉ?』
逃げても逃げても、手が迫ってきて追い詰められる光景が瞼の中に浮かんで消えてくれない。あまりにリアルな声は完全な幻聴だとは思えず、まるで一度聞いた事のある音を再生しているみたいな感じだ。
幻の男の手が近づき、着ている服の胸倉を掴まてしまうかもしれないと彼女が思った、その時——桜子の鼻腔を上品で優雅な香りがくすぐった。
「落ち着いて、大丈夫。僕だよ、怖く無い、ここには僕ら二人だけだ」
ゆっくり、淡々と、ハクが桜子の耳元で囁いた。
彼女の体は優しく彼に抱擁されていて、ぽん、ぽん、ぽんとリズムよく背中を軽く撫でてくれている。
「…… あ、あぁ…… 」
「怖く無いよ。怖いモノはもう居ない」
「い、いない?…… 本当に?」
顔を伏せったまた、桜子が問いかける。
「あぁ、本当さ。アレはもうね、桜子の前には絶対に現れないよ。だって、遠く遠く山の中に捨ててきちゃったから」
何かの比喩、だろうか?と思いながら、桜子がゆっくり顔をあげる。
優しい香りとハクの心地いい声色のおかげか、彼女の視界からは幻聴がふっと魔法の様に消え去り、耳奥からも不快な声は響かなくなっていた。
「…… 変な男の人が、声が聞こえて…… それで…… 」とまで言って、桜子が喉を詰まらせた。何故急に叫んでしまったのか説明しようと思ったのだが、変な女だと思われやしないかちょっと怖い。
「うん、うん。怖かったよね…… 大丈夫だよ、わかってる。無理をしないで。横になって、今日はもう休んだ方がいいね」
子供をあやすような声でハクはそう言うと、桜子をベットにきちんと横になるよう促した。
「…… 眠くはない、ですよ?」
先程までずっと眠っていたのだ、当然だろう。だが、心が激しく乱れたからか疲労感は多少ある。まだ心臓はバクバクと五月蝿いし、不快感も体には残っている。それらの要素がある為、『眠れと言われても到底無理だ』と反論する程では無かった桜子は、彼女に対して『さぁ、寝ようね』と笑顔と仕草だけで訴えている彼に従う事にした。
「わかりました」
「よかった。よし、今日は僕が添い寝をしてあげよう。桜子が眠れるまで、ずっと子守唄でも歌ってあげよか」
「そ、そんな…… 子供じゃ、ないんですし」
そうは言ったものの、ハクの声質での歌声にはちょっと興味があり、断り方が緩くなる。
「僕が聴かせたかったんだけど、ダメかな?」
小首を傾げて言われ、『か、可愛いです。癒されますっ』と見も知らぬ男性相手に思ってしまい、桜子の口元に少し力が入った。
「…… では、お言葉に、甘えて」
ベッドの上で正座をして、両手をついて礼をする。そんな桜子の様子に対しクスクス笑うと、ハクは「喜んで、僕の小鳥ちゃん」と答えながら笑顔を振りまいた。
ハクがベッドの近くに、先程まで座っていた椅子をずらし、それに座る。
桜子はベッドの真ん中で一人、枕に頭を預け、布団を体にかけて天井を見上げた。
この室内は壁以外にも天井までもが全てほぼ真っ白で、ずっと見ていると距離感覚が狂ってくる。浮いているような、沈んでいくような…… 視界だけではなく、時間の感覚すらもおかしくなりそうだなと桜子は思った。
「さぁ、目を閉じて」
促されるまま、桜子が目を閉じる。お腹の上で手を組み、ハクの声だけに耳を澄ませた。
小さくて、とても穏やかな声が緩やかに言葉を刻む。
何もかも忘れているからなのか、桜子は知らない曲だと思ったが、歌ってくれている彼に曲名を訊くような、興を削ぐ真似はしない事を選んだ。
透き通るような彼の歌声がスーッと体に染みる。不快感しか感じなかった男の声を塗り潰していくように、全てを忘れさせてくれるような声色に心が癒されていった。
「…… 桜子?」
穏やかな寝息が聞こえ始めた気がして、ハクがそっと声をかける。
彼の問い掛けに対して返事は無い。どうやら、きちんと眠れたみたいだ。彼女が自覚していた以上に、身も心も疲弊していたのだろう。
「ゆっくりお休み、君の事はこの先…… 僕がずっと、一生、全てから守ってあげるからね」
そう言って、ハクが優しく桜子の頭を撫でる。
彼の白い手には青痣や傷が数多く刻まれていて、大事なモノを守る為に貴方は何をしたのかと、問う事を躊躇させるものがあった。
…… はず、だ。
真っ暗だった視界が、今度は一転して真っ白になった。上下左右の感覚を無くすくらいの真っ白で真四角な世界だ。
「…… ?」
何故こんな場所に自分は居るのだろうか。
不思議に思いながら瞬きを繰り返していると、何となく周囲の輪郭を捉える事が出来始め、ベッドの上に横向きになって寝転んでいる事がわかった。ここには家具らしい物はほとんど無く、壁には自分を映す大きな鏡が、中央にはキングサイズのベッドがあるくらいに見えた。
二度、三度まばたきを繰り返し、のそっとした動きで体を起こす。
居る場所がとても異質である事はかろうじて理解出来たが、それ以外が何もわからない。わからない、今までに経験したはずの何もかもが思い出せない。そのせいで、心拍が少しずつ上がり始め、不安が胸に生まれそうになったその時——背後から「起きたんだね。しっかり休めた?」と言う男性の声が突然声が聞こえ、ビクッと体が震えた。
「あ、ごめんね。驚かせてしまったかな?」
気遣う様な優しい声がちょっと耳に心地いい色を持っている。顔を見ずとも、声の主が穏やかな人物であることが想像出来た。
「…… 貴方は?…… ここは、どこですか?」
自分は何故ここに居て、どうして眠っていたのだろうか。
そして…… 自分は、誰だったのだろうか?
少女の問い掛けに答えは無く、男性はただじっとベッドの上で体を起こした少女を見ている。彼女の様子を伺っているのか、その視線はちょっと険しい。
キョロキョロと周囲に視線をやりつつ、声のした方へ体を向け、少女はペタンッと子供のようにスカートを広げて座った。
「…… あ、あの。貴方は——」
さっきの声は小さくて聞こえなかったのかもしれないと思い、もう一度改めて男性に問いかけようとして、少女は途中で言葉を失った。彼の姿に目を奪われてしまったからだ。
鏡でも、見ているのかと思った。
それが、彼女の素直な感想だった。
白銀の髪色、赤味がかった瞳。男性にしては少し髪が長めで、瞳や耳が隠れ気味な為、中性的で線の細い雰囲気を漂わせている。着ているシャツに穿いているズボンや、果ては座っている椅子までもが真白なせいで、背景に溶け込み、そのうち目の前の男性が消えて無くなってしまいそうなくらい儚げだった。
「僕の事は、どのくらいわかる?」
やっと返ってきた返事は、問い掛けだった。
全く彼が誰なのか思い当たらず、少女が首を横に振る。自分の存在すらも朧げにしかわからないのに、他人の事などなおさらだ。
「じゃあ…… 今までの、事は?」
同様に、首を横に振って答える。
驚く程何も今までの出来事が思い出せない。まるで今までの人生をリセットされてしまったみたいな感覚だ。
「…… 自分の名前は?」
「…… 何も、わかりません」
そう答え、少女が不安げに瞳を揺らす。その様子を見て、青年は嬉しそうな笑みを一瞬だけ口元に浮かべたが、すぐにそれを手で隠した。
一度咳払いをし、膝の上で手を組んで笑顔を作る。彼の優しい雰囲気のおかげで、少女はこのままパニックを起こさずにいられそうだ。
「僕の名前は…… ハク。君の…… そうだな、ご主人様、かな」
彼は、今この場で思い付いた事を口にした。何もわからないのならば、問題はないだろうと思っての事だ。
「ご、ご主人…… 様」
反応に困り、少女は言葉を鸚鵡返しで口にした。
「君の名前は桜子。そしてここは、僕達の家だ」
「…… 桜子。…… 家?そして、ハクさんは…… 私のご主人様」
教えてもらった情報を言葉にしてみても、全然ピンとこない。名前だけはしっくり感じられるのに、他はさっぱりなのは本能的に違和感を覚えたから、なのだろうか。
「名前を聞いても、何も思い出さない?」
「そう、ですね」
「そうか…… よかった。その方がいいよ。あんな目にあったんだ、忘れるのが当然さ」
だが、ハクが『あんな目にあった』と口にした瞬間、桜子の瞳が大きく見開かれ、ザザッと不快な音が耳奥で響いた。
部屋の真っ白な空間に、この場には居るはずのない男の姿がぼんやりと見える。背後には広い和造の屋敷廊下が薄らとあり、『あぁ、君か。すまないが、手伝ってくれないか?』と桜子に向かって声をかけてきた。
『ほら、これから客人が来るだろう?珍しい花器でも出して差し上げようかと思うんだ』
『わかりました』と、彼女が素直に応じ、後に続いて歩いて行く。すると次の瞬間には突然場面が飛び、薄暗い倉庫の中に二人が立っている様子が浮かび上がった。
「あ、あぁぁ…… 」
見えないはずのモノが見える事に驚き、怯え、桜子が震えた声をこぼす。顔面は蒼白で、長い白銀の髪が激しく揺れた。
「ど、どうしたの?何かあった?」
桜子の突然の変化に焦り、ハクが彼女の肩を掴もうとする。すると彼女はより一層怯え、「いやぁぁぁぁ!」と悲痛な声をあげて彼の手を振り払った。
ハクの姿に、見知らぬ男の姿が重なって見て、ぬっと大きな手が桜子に近づいてくるせいで、彼女は更に悲鳴をあげながらベッドの上に体を伏せる。
『警戒心の欠片も無いとは、本当にお前は馬鹿だな。まぁその方が都合がいいんだが…… 』
ニタニタと笑う顔は強く目を閉じても消えず、イヤラシイ色をした声も聞こえたままで、耳を手で強く塞いでも変化が無い。
『あんな薄気味悪い男に、俺がもてなしなんかすると思うか?ホント、つくづくお気楽なもんだ。…… そういや、お前らは随分似てるな』
「い、いや…… 来ないで、来ないで!」と、幻聴に対し桜子が叫ぶ。
「桜子?まさか、何か思い出したのかい?」
反応があまりに過剰な上、ハクに対して拒否反応を示しているとは感じられなかった為、彼の声は比較的穏やかだ。だがその声は彼女には届かず、耳につく不快感しか無い男の声が桜子の耳奥で尚も響く。
『うるせえ!黙れって。叫んでもこんな場所、誰も来ない事ぐらいわかってんだろぉ?』
逃げても逃げても、手が迫ってきて追い詰められる光景が瞼の中に浮かんで消えてくれない。あまりにリアルな声は完全な幻聴だとは思えず、まるで一度聞いた事のある音を再生しているみたいな感じだ。
幻の男の手が近づき、着ている服の胸倉を掴まてしまうかもしれないと彼女が思った、その時——桜子の鼻腔を上品で優雅な香りがくすぐった。
「落ち着いて、大丈夫。僕だよ、怖く無い、ここには僕ら二人だけだ」
ゆっくり、淡々と、ハクが桜子の耳元で囁いた。
彼女の体は優しく彼に抱擁されていて、ぽん、ぽん、ぽんとリズムよく背中を軽く撫でてくれている。
「…… あ、あぁ…… 」
「怖く無いよ。怖いモノはもう居ない」
「い、いない?…… 本当に?」
顔を伏せったまた、桜子が問いかける。
「あぁ、本当さ。アレはもうね、桜子の前には絶対に現れないよ。だって、遠く遠く山の中に捨ててきちゃったから」
何かの比喩、だろうか?と思いながら、桜子がゆっくり顔をあげる。
優しい香りとハクの心地いい声色のおかげか、彼女の視界からは幻聴がふっと魔法の様に消え去り、耳奥からも不快な声は響かなくなっていた。
「…… 変な男の人が、声が聞こえて…… それで…… 」とまで言って、桜子が喉を詰まらせた。何故急に叫んでしまったのか説明しようと思ったのだが、変な女だと思われやしないかちょっと怖い。
「うん、うん。怖かったよね…… 大丈夫だよ、わかってる。無理をしないで。横になって、今日はもう休んだ方がいいね」
子供をあやすような声でハクはそう言うと、桜子をベットにきちんと横になるよう促した。
「…… 眠くはない、ですよ?」
先程までずっと眠っていたのだ、当然だろう。だが、心が激しく乱れたからか疲労感は多少ある。まだ心臓はバクバクと五月蝿いし、不快感も体には残っている。それらの要素がある為、『眠れと言われても到底無理だ』と反論する程では無かった桜子は、彼女に対して『さぁ、寝ようね』と笑顔と仕草だけで訴えている彼に従う事にした。
「わかりました」
「よかった。よし、今日は僕が添い寝をしてあげよう。桜子が眠れるまで、ずっと子守唄でも歌ってあげよか」
「そ、そんな…… 子供じゃ、ないんですし」
そうは言ったものの、ハクの声質での歌声にはちょっと興味があり、断り方が緩くなる。
「僕が聴かせたかったんだけど、ダメかな?」
小首を傾げて言われ、『か、可愛いです。癒されますっ』と見も知らぬ男性相手に思ってしまい、桜子の口元に少し力が入った。
「…… では、お言葉に、甘えて」
ベッドの上で正座をして、両手をついて礼をする。そんな桜子の様子に対しクスクス笑うと、ハクは「喜んで、僕の小鳥ちゃん」と答えながら笑顔を振りまいた。
ハクがベッドの近くに、先程まで座っていた椅子をずらし、それに座る。
桜子はベッドの真ん中で一人、枕に頭を預け、布団を体にかけて天井を見上げた。
この室内は壁以外にも天井までもが全てほぼ真っ白で、ずっと見ていると距離感覚が狂ってくる。浮いているような、沈んでいくような…… 視界だけではなく、時間の感覚すらもおかしくなりそうだなと桜子は思った。
「さぁ、目を閉じて」
促されるまま、桜子が目を閉じる。お腹の上で手を組み、ハクの声だけに耳を澄ませた。
小さくて、とても穏やかな声が緩やかに言葉を刻む。
何もかも忘れているからなのか、桜子は知らない曲だと思ったが、歌ってくれている彼に曲名を訊くような、興を削ぐ真似はしない事を選んだ。
透き通るような彼の歌声がスーッと体に染みる。不快感しか感じなかった男の声を塗り潰していくように、全てを忘れさせてくれるような声色に心が癒されていった。
「…… 桜子?」
穏やかな寝息が聞こえ始めた気がして、ハクがそっと声をかける。
彼の問い掛けに対して返事は無い。どうやら、きちんと眠れたみたいだ。彼女が自覚していた以上に、身も心も疲弊していたのだろう。
「ゆっくりお休み、君の事はこの先…… 僕がずっと、一生、全てから守ってあげるからね」
そう言って、ハクが優しく桜子の頭を撫でる。
彼の白い手には青痣や傷が数多く刻まれていて、大事なモノを守る為に貴方は何をしたのかと、問う事を躊躇させるものがあった。
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