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【最終章】
【第十話】メンシスからの告白・前編
魔法陣がぴたりと止まった先で降りると両面開きになっている扉があった。メンシスがその扉を押すと、ベランダのような三方向が開けた空間が二人の目の前に広がった。此処よりも更に上、最上階の壁面四方向に設置されている洒落ていながらも古風なデザインをした巨大な時計の文字盤とは違い、煉瓦造りのシンプルな構造になっている時計塔の一角が多くの花を飾りつけられていて美しい彩りが施されている。中央には二人掛けのテーブルセットも置かれており、そこには小さな花籠や一口サイズの料理や飲み物が注がれたグラスが並ぶ。花籠の隣では丸いガラスの入れ物の中で蝋燭がふわりと灯り、美味しそうな料理を優しく照らしていた。
「わぁ…… 」
その光景を見て、カーネが感嘆の息をこぼす。眼前に広がる街の光は普段よりも明るく、まるで空から星々が降り注いだみたいだ。街の周囲に張られた結界の向こうでは柔らかな雪が降り注いでは消えていっているのに、不思議と此処はそんなに寒くない。賑わう街の喧騒が真下から聞こえてきているはずなのに何処か遠くに感じる程、この空間は別世界だった。
「綺麗ですね」
胸が踊り、カーネの口からこれ以外の言葉が出てこない。耳を澄ますと微かにオルゴールからの様な音楽も流れている気がする。薔薇の香りもほんのりと漂い、細部にまで行き渡ったこだわりをカーネはひしひしと感じた。
「もしかして、この飾り付けはシスさんが?」
だとしたら驚きだ。最近シェアハウスから出掛けた様子は無かったのに、いつの間に?とカーネは思った。
「えぇ、そうです。カーネに喜んで貰いたくて」
「シスさん…… 」
メンシスが照れくさそうにしている。
自分の為にここまでしてくれるのかと思うと、カーネはじわりと胸の奥を焦がされたように感じて、ぎゅっと軽く歯を食いしばった。
(これ以上惚れさせないで欲しい…… )
そんな感情を持ったまま、カーネはメンシスにエスコートされて椅子に座った。
「小腹は空いていませんか?」と訊きながらメンシスも対面の席に座る。
「はい、大丈夫です」
元々この体は少食だし、シェアハウスを出る前にご馳走を食べている。人混みを歩いた事で疲れはしたが空腹になる程ではなかった。だがメンシスの手作りかと思われる軽食はどれも美味しそうで、折角用意してくれたのに勿体ないなという気持ちも相まって、カーネは「でも、後で一口頂きますね」と一言付け加えた。
「じゃあ、まずは乾杯でもしましょうか」
「そうですね」
新年が迫ってきているぞと、巨大な時計塔の文字盤の方からカチリと鳴る。塔の周囲からはカウントダウンを開始する者達の声が聞こえ始めた。
それらの音を耳にし、グラスを持ったメンシスが、「んー…… なんだったら、明けるまで待ちますか?」とカーネに訊いた。
「そう、ですね。もうすぐみたいですし、折角なのでそうしますか」
カーネもグラスを持って、時計塔の文字盤を見上げた。こんなに間近で時計塔の文字盤を見るのは初めてだが、あまりに大きく、圧倒されて少し怖い。
「こんな特等席で寛げるだなんて、なんだか下の人達に申し訳ないです」
死と隣り合わせの人生だったから、だろうか。今にも時計盤に押し潰されてしまいそうだとつい考えてしまう気持ちから気を逸らすみたいに、カーネがポツリとこぼした。人混みの中に立ったまま新年を迎える人達が建物の周囲に大勢居るのに、自分達だけがこんなに寛いでいてもいいものなんだろうか?とも、どうしても気になってしまう。
「まぁ、確かに。——でも、今日はその辺の事には目を瞑って、この瞬間を楽しみましょう」
「そうですね」とカーネが返したタイミングで、丁度夜空に大きな花火が打ち上がった。近くを流れる川で打ち上げているのか、とても近くて視界一面が綺麗な花火で埋め尽くされる。
「おや、新年になりましたね」
「…… えっと、今年も、よろしくお願いします」
「こちらこそ、今年もよろしくお願いします」
お互いに強くそう想いながら、カーネはメンシスに倣って持っていたグラスをゆっくり近づけさせ、軽くグラスを鳴らした。その音を打ち上げ花火の音が直様かき消していく。だが近さの割には音が小さい。どうやらこの空間は外部の音を緩和する結界も張られているみたいだ。
「昼間の花火も素敵でしたが、夜の花火は格段に綺麗ですね」
何日もかけてララと選んだ服でお洒落をし、特別に飾られた花の溢れる綺麗な空間で、美味しそうな軽食と共に、星の形にカットされた金箔が混じるおかげでキラキラと輝いているレモン水が注がれたグラスを片手に持ち、間近では次々に祝いの花火が上がる。こんな経験は初めての事で現実味が無い。
花火が上がるタイミングで同時に魔法の演出も施されているのか、大きな雪の結晶が舞ったり、テープリボンが周囲に花開く様に伸びていったりとしては消えていく。初めて年始の花火を観るカーネの為にと、どの地区よりも華やかなこの演出は、例年一番優れた花火を打ち上げている城下町よりも皆を楽しませていた。
「喜んでもらえてよかったです」
メンシスが照れくさそうに頬をかく。まるで自分が褒められたみたいに。
カーネが眼鏡越しに見る彼の周囲には様々な種類の花が満開の状態で咲き乱れては消えていく。この日の為に企画し、部下達と共に準備をした甲斐があったと思いはすれど、そうとは口に出さず、純粋な気持ちで花火を楽しんでいるカーネの姿を笑顔で見つめる。
「新年を迎えるのを、初めて『特別な事なんだな』と思えました」
花火を見上げたまま、カーネが言った。
「今までは、遠くで鳴っている花火の音だけを聞いて、『もう一年が経ったのか』と思う程度だったので」
「僕も今までは似たようなものでしたから、わかる気がします」
少しの間の後。メンシスが、「…… 今日という日が、特別な日になりそうですか?」とカーネに訊いた。
「もちろんです。今までもシスさんのおかげで沢山の『初めて』を経験させてもらいましたが、今日は…… 生涯、忘れない日になると思います」
胸の奥だけじゃなく、頬まで熱い気がする。嬉しくって、楽しくって、心弾む体験をさせてもらえてカーネは夢の中にでもいるみたいに幸せな気分だ。
(こんなの…… 本当に『デート』みたい)
違う違うと自分に言い聞かせつつも、どうしたってララのニヤリと笑う顔がカーネの頭に浮かぶ。
ちょっとでも頬を冷やせないかと両手で包む。だがお決まりのパターンで手も既に熱く、今回も手では頬を冷やせそうにない。そんなカーネの様子を見て、メンシスがクスッと笑った。
(…… 今ならば)
——と、メンシスが椅子から立ち上がる。そして花火を背にしてカーネの前に跪いた。
「…… 急にどうしたんですか?」
突然の行動を不思議に思い、頬から手を下ろしてきょとんとした声でカーネが問う。膝の上に戻された手をメンシスは優しく握ると、真剣な眼差しを彼女に向けた。
「カーネ」
名を呼ばれ、「は、はい」と吃りながら返事をする。改まって一体何を言われるのかと思うと、不安のせいで心臓がバクバクと煩く騒いだ。
「貴女が好きです。僕と、お付き合いして頂けませんか?」
そう言われ、カーネの頭の中が真っ白になった。自分に向けられた事のない台詞を前にして返答なんか何も浮かばず、ぽかんと口を開けたままになってしまう。他者が自分に好意を向ける筈が無い。長年そんな環境の中で生きてきたから、脳が処理しきれないみたいだ。
ドンッ!と花火の音が聞こえ、カーネがハッと我に返る。彼に好意を持っている身にとってこの告白は僥倖そのものなのだが、何故か二つ返事が彼女の喉から出てこない。ただ『はい』と言うだけで今よりももっと幸せになれると、頭ではわかっているのに、だ。
「…… 結婚を、前提に」
メンシスのその言葉を聞いた瞬間、カーネは自分の背後から子供の両腕がゆるりと伸びてきた気がした。音も、気配もなく、絶対に背後には誰も居ない。なのに耳元で何者かが『…… 私を、捨てるんですか?』と囁いた。忘れもしない、その少年の声は“メンシス・ラン・セレネ公爵”のものだ。
『婚約者である私を本当に捨てるだなんて、薄情なヒトですね』
『貴女は私の事があんなに好きだったのに…… 酷いなぁ』
次々と、どんなに声が聞こえようが所詮は幻聴であり、背後から少年が抱きついてこようがそんなものはただの錯覚である事は確実なのに、少年の声が毒のようにじわりとカーネの胸へ染み込んでいく。
「け、結婚、ですか?」
頑張って出した声は小さく、そして震えていた。両想いだったのに、嬉しいはずなのに、少年の声のせいでただただ胸が苦しい。
「はい」とメンシスが力強く頷く。既にカーネからの好意を確信している彼は、色よい返事はまだかと焦れに焦れ、無自覚なまま握る手に力が入った。
そんな中、カーネの顔色が段々と悪くなっていく。
(待って、駄目。結婚は無理だ。だって、今の私は——)
“カーネ”としての命は絞殺という形で終わり、“ティアン”としての人生も既に『公爵家からの逃走』に加えて『死亡発表』という形で幕を閉じている。公式的に自分は『この世に存在しない人間』なので結婚なんか到底不可能だという事実も彼女の頭をよぎり、彼を想う気持ちに一層の影が差す。『両想い』という好ましい状況のはずなのに、そのせいでちっとも喜べない。彼の気持ちには応えられない理由ばかりが次々と頭に浮かぶが、『どれも、シスさんはこちらの事情を知らないのに』と思っているカーネでは、誠実に伝えられそうにはなかった。
「…… カーネ?」
早く答えが欲しくて、メンシスは名前を呼んだ。長い前髪の隙間から覗く碧眼が徐々に不安で揺れ始める。
「——ごめんなさい!」
少し大きな声でそう言い、椅子に座ったままでいるカーネが深ぶかと頭を下げた。自分だって彼の事が好きなのに、個人的な理由のせいで受け止められない事が悔しくって堪らず、すぐには顔を上げられない。
想定外に断りの言葉を耳にし、メンシスの瞳から一瞬にして光が消えたが、彼女はその事に気が付かなかった。
「わぁ…… 」
その光景を見て、カーネが感嘆の息をこぼす。眼前に広がる街の光は普段よりも明るく、まるで空から星々が降り注いだみたいだ。街の周囲に張られた結界の向こうでは柔らかな雪が降り注いでは消えていっているのに、不思議と此処はそんなに寒くない。賑わう街の喧騒が真下から聞こえてきているはずなのに何処か遠くに感じる程、この空間は別世界だった。
「綺麗ですね」
胸が踊り、カーネの口からこれ以外の言葉が出てこない。耳を澄ますと微かにオルゴールからの様な音楽も流れている気がする。薔薇の香りもほんのりと漂い、細部にまで行き渡ったこだわりをカーネはひしひしと感じた。
「もしかして、この飾り付けはシスさんが?」
だとしたら驚きだ。最近シェアハウスから出掛けた様子は無かったのに、いつの間に?とカーネは思った。
「えぇ、そうです。カーネに喜んで貰いたくて」
「シスさん…… 」
メンシスが照れくさそうにしている。
自分の為にここまでしてくれるのかと思うと、カーネはじわりと胸の奥を焦がされたように感じて、ぎゅっと軽く歯を食いしばった。
(これ以上惚れさせないで欲しい…… )
そんな感情を持ったまま、カーネはメンシスにエスコートされて椅子に座った。
「小腹は空いていませんか?」と訊きながらメンシスも対面の席に座る。
「はい、大丈夫です」
元々この体は少食だし、シェアハウスを出る前にご馳走を食べている。人混みを歩いた事で疲れはしたが空腹になる程ではなかった。だがメンシスの手作りかと思われる軽食はどれも美味しそうで、折角用意してくれたのに勿体ないなという気持ちも相まって、カーネは「でも、後で一口頂きますね」と一言付け加えた。
「じゃあ、まずは乾杯でもしましょうか」
「そうですね」
新年が迫ってきているぞと、巨大な時計塔の文字盤の方からカチリと鳴る。塔の周囲からはカウントダウンを開始する者達の声が聞こえ始めた。
それらの音を耳にし、グラスを持ったメンシスが、「んー…… なんだったら、明けるまで待ちますか?」とカーネに訊いた。
「そう、ですね。もうすぐみたいですし、折角なのでそうしますか」
カーネもグラスを持って、時計塔の文字盤を見上げた。こんなに間近で時計塔の文字盤を見るのは初めてだが、あまりに大きく、圧倒されて少し怖い。
「こんな特等席で寛げるだなんて、なんだか下の人達に申し訳ないです」
死と隣り合わせの人生だったから、だろうか。今にも時計盤に押し潰されてしまいそうだとつい考えてしまう気持ちから気を逸らすみたいに、カーネがポツリとこぼした。人混みの中に立ったまま新年を迎える人達が建物の周囲に大勢居るのに、自分達だけがこんなに寛いでいてもいいものなんだろうか?とも、どうしても気になってしまう。
「まぁ、確かに。——でも、今日はその辺の事には目を瞑って、この瞬間を楽しみましょう」
「そうですね」とカーネが返したタイミングで、丁度夜空に大きな花火が打ち上がった。近くを流れる川で打ち上げているのか、とても近くて視界一面が綺麗な花火で埋め尽くされる。
「おや、新年になりましたね」
「…… えっと、今年も、よろしくお願いします」
「こちらこそ、今年もよろしくお願いします」
お互いに強くそう想いながら、カーネはメンシスに倣って持っていたグラスをゆっくり近づけさせ、軽くグラスを鳴らした。その音を打ち上げ花火の音が直様かき消していく。だが近さの割には音が小さい。どうやらこの空間は外部の音を緩和する結界も張られているみたいだ。
「昼間の花火も素敵でしたが、夜の花火は格段に綺麗ですね」
何日もかけてララと選んだ服でお洒落をし、特別に飾られた花の溢れる綺麗な空間で、美味しそうな軽食と共に、星の形にカットされた金箔が混じるおかげでキラキラと輝いているレモン水が注がれたグラスを片手に持ち、間近では次々に祝いの花火が上がる。こんな経験は初めての事で現実味が無い。
花火が上がるタイミングで同時に魔法の演出も施されているのか、大きな雪の結晶が舞ったり、テープリボンが周囲に花開く様に伸びていったりとしては消えていく。初めて年始の花火を観るカーネの為にと、どの地区よりも華やかなこの演出は、例年一番優れた花火を打ち上げている城下町よりも皆を楽しませていた。
「喜んでもらえてよかったです」
メンシスが照れくさそうに頬をかく。まるで自分が褒められたみたいに。
カーネが眼鏡越しに見る彼の周囲には様々な種類の花が満開の状態で咲き乱れては消えていく。この日の為に企画し、部下達と共に準備をした甲斐があったと思いはすれど、そうとは口に出さず、純粋な気持ちで花火を楽しんでいるカーネの姿を笑顔で見つめる。
「新年を迎えるのを、初めて『特別な事なんだな』と思えました」
花火を見上げたまま、カーネが言った。
「今までは、遠くで鳴っている花火の音だけを聞いて、『もう一年が経ったのか』と思う程度だったので」
「僕も今までは似たようなものでしたから、わかる気がします」
少しの間の後。メンシスが、「…… 今日という日が、特別な日になりそうですか?」とカーネに訊いた。
「もちろんです。今までもシスさんのおかげで沢山の『初めて』を経験させてもらいましたが、今日は…… 生涯、忘れない日になると思います」
胸の奥だけじゃなく、頬まで熱い気がする。嬉しくって、楽しくって、心弾む体験をさせてもらえてカーネは夢の中にでもいるみたいに幸せな気分だ。
(こんなの…… 本当に『デート』みたい)
違う違うと自分に言い聞かせつつも、どうしたってララのニヤリと笑う顔がカーネの頭に浮かぶ。
ちょっとでも頬を冷やせないかと両手で包む。だがお決まりのパターンで手も既に熱く、今回も手では頬を冷やせそうにない。そんなカーネの様子を見て、メンシスがクスッと笑った。
(…… 今ならば)
——と、メンシスが椅子から立ち上がる。そして花火を背にしてカーネの前に跪いた。
「…… 急にどうしたんですか?」
突然の行動を不思議に思い、頬から手を下ろしてきょとんとした声でカーネが問う。膝の上に戻された手をメンシスは優しく握ると、真剣な眼差しを彼女に向けた。
「カーネ」
名を呼ばれ、「は、はい」と吃りながら返事をする。改まって一体何を言われるのかと思うと、不安のせいで心臓がバクバクと煩く騒いだ。
「貴女が好きです。僕と、お付き合いして頂けませんか?」
そう言われ、カーネの頭の中が真っ白になった。自分に向けられた事のない台詞を前にして返答なんか何も浮かばず、ぽかんと口を開けたままになってしまう。他者が自分に好意を向ける筈が無い。長年そんな環境の中で生きてきたから、脳が処理しきれないみたいだ。
ドンッ!と花火の音が聞こえ、カーネがハッと我に返る。彼に好意を持っている身にとってこの告白は僥倖そのものなのだが、何故か二つ返事が彼女の喉から出てこない。ただ『はい』と言うだけで今よりももっと幸せになれると、頭ではわかっているのに、だ。
「…… 結婚を、前提に」
メンシスのその言葉を聞いた瞬間、カーネは自分の背後から子供の両腕がゆるりと伸びてきた気がした。音も、気配もなく、絶対に背後には誰も居ない。なのに耳元で何者かが『…… 私を、捨てるんですか?』と囁いた。忘れもしない、その少年の声は“メンシス・ラン・セレネ公爵”のものだ。
『婚約者である私を本当に捨てるだなんて、薄情なヒトですね』
『貴女は私の事があんなに好きだったのに…… 酷いなぁ』
次々と、どんなに声が聞こえようが所詮は幻聴であり、背後から少年が抱きついてこようがそんなものはただの錯覚である事は確実なのに、少年の声が毒のようにじわりとカーネの胸へ染み込んでいく。
「け、結婚、ですか?」
頑張って出した声は小さく、そして震えていた。両想いだったのに、嬉しいはずなのに、少年の声のせいでただただ胸が苦しい。
「はい」とメンシスが力強く頷く。既にカーネからの好意を確信している彼は、色よい返事はまだかと焦れに焦れ、無自覚なまま握る手に力が入った。
そんな中、カーネの顔色が段々と悪くなっていく。
(待って、駄目。結婚は無理だ。だって、今の私は——)
“カーネ”としての命は絞殺という形で終わり、“ティアン”としての人生も既に『公爵家からの逃走』に加えて『死亡発表』という形で幕を閉じている。公式的に自分は『この世に存在しない人間』なので結婚なんか到底不可能だという事実も彼女の頭をよぎり、彼を想う気持ちに一層の影が差す。『両想い』という好ましい状況のはずなのに、そのせいでちっとも喜べない。彼の気持ちには応えられない理由ばかりが次々と頭に浮かぶが、『どれも、シスさんはこちらの事情を知らないのに』と思っているカーネでは、誠実に伝えられそうにはなかった。
「…… カーネ?」
早く答えが欲しくて、メンシスは名前を呼んだ。長い前髪の隙間から覗く碧眼が徐々に不安で揺れ始める。
「——ごめんなさい!」
少し大きな声でそう言い、椅子に座ったままでいるカーネが深ぶかと頭を下げた。自分だって彼の事が好きなのに、個人的な理由のせいで受け止められない事が悔しくって堪らず、すぐには顔を上げられない。
想定外に断りの言葉を耳にし、メンシスの瞳から一瞬にして光が消えたが、彼女はその事に気が付かなかった。
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