美しい世界を紡ぐウタ

日燈

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第一章 いざ、新天地

十一

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 その日の午後、ようやく聖紋が書かれた教科書が配られた。それは使い込まれており、上級生から代々受け継がれてきたであろうことが窺える。初めて目にする聖紋は、聞いていた通りとても美しく、絵のようだった。

「次の試験までに、基本の讃紋さんもん四つを記せるようになりなさい。すでに覚えている者は、次のページに進んでよろしい」

 教師の言葉に思わず顔をしかめる。これを書けるようになるだって? 見ている分には楽しくても、暗記するとなると話は別だ。
 写紋の時間は、ひたすら聖紋を書き写すことにあてられた。流れるような曲線や記号。これは本当に文字なのか。

「そこまで。教科書と用紙を回収します。後ろから前に回して」

 教科書はくれるんじゃないのか。おれは唖然としてしまった。

「言葉は覚えているから、あとは教科書みたいに綺麗に書けるようになるだけだな」
「あそこの一文、一筆書なのが難しくてさ」
「わかる。あそこが綺麗に書けないんだよな」

 クラスメイトたちは、当然のようにそんな話をしている。貴族連中は大抵、家に聖典がある。文字が読めるくらい、当たり前ということか。これはかなり危機的状況かもしれない。
 小休憩を挟んで、次の講義が始まる。

「あなたたち。披露会では散々でしたね。なんですかあの声量は。あれでは人々の心は満たされませんよ! 美しい発音の前に、声の出し方から特訓です」

 そうして、声学の講義は始まった。

「手始めに腹筋背筋五十回!」

 え、これなんの講義? そう思うくらいには、その内容は体育会系だった。

「リュエル、おつかれー…」

 帰り支度をしていたら、メルがふらふら~っとやって来た。

「大丈夫か?」
「うん…、これぜったい明日筋肉痛だよ…」

 メルのように疲れた顔をしている生徒は多い。お坊ちゃんには少々ヘビーな講義だったようだ。

「リュエル、体力あるね」
「よく運動してたからな」

 意外そうな顔をするメルに肩をすくめる。運動というか、喧嘩や登山だが。

「ぼくも、もう少し運動していればよかった」

 メルはしょんぼりと項垂れる。おれはその頭をぽふぽふと撫でてやった。柔らかな檸檬色の触り心地は、ちょっと気に入っている。
 ふと、顔を上げたメルがへへっと笑うので、片眉を上げる。

「最初はね、あんなやつ放っとけよって、よく言われたの。でも今は、いいなぁだって」

 披露会で、おれはウタだけでなく顔もすっかり披露した。周囲に与えた衝撃は、思いの外大きかったらしい。そういえば、顔をじっと見られることが増えた。突き刺すような視線ではなく、もっと純粋な興味を感じる。鬱陶しいことに変わりはないが、ザラついた感情が湧き上がることは減った。今も前髪が少し目許にかかっている。けれども、顔を隠したいという思いはもうない――。

「リュエルと友だちになりたいって言う子、いっぱいいるよ」

 無邪気に言われ、思考の波に呑まれていたおれはかすかに目を見開いた。我に返って、ツンとそっぽを向く。

「いらねえ」

 するとメルは、ふっと笑った。おれは眉根を寄せて鞄を持ち、早々と教室から出て行こうとする。

「あっリュエル、」
「一人でどこへ行く気だい?」

 頬が引きつる。ぶつかりそうなほど近くにいきなり現れた糸目。やけに “一人で” という部分を強調していた。

「……トイレ…」

 おもむろに糸目が開かれる。開眼するのがスローモーションで見えた。現れたのは、底冷えするような紅の瞳――。

「っ次からちゃんと待ってればいいんだろッ!」
「わかればいいんだよ」

 ラルジュは何事もなかったかのようにニコリと微笑む。
 
(なんだこの人怖すぎる)

 人の一人や二人や十人くらい、ツルッと闇へ葬っていそうだ。そういえば初めて会ったとき、おれを襲った相手を簡単に倒したのだった。あれ以来あのような事はなく、すっかり忘れていた――。

「ラル、早いね」

 メルはラルジュのそんな一面も知っているのだろうか。無邪気な笑顔を見ていると、知らないんだろうなぁ…と思う。

「我が君が意地っ張りでね。厄介事に巻き込まれる前に捕獲せねばと思って、急いで来たんだ」

 そっかぁ、ラルも大変だね、などと言い、ふわふわ笑うメル。

「……捕獲ってなんだよ」

 おれは眉根を寄せる。だいたい、ラルジュは息一つ乱れていない。本当に急いで来たのか怪しいところだ。そこで、辺りがざわめいていることに気がついた。

「ラルジュさん、メルの侍衛になるんじゃないのか」
「あいつを選んだの…?」
「まさか、そんなぁ」

 そういえば、ラルジュの家は名家だった。

「リュエルは? ああ、ちゃんといましたね」

 その上、レルヒまで現れたのだから、ざわめきは留まるところを知らない。「おかっぱ!?」という叫びがそこここで上がった。

「次からは、ちゃんと我々を待つそうだよ」
「そうですか。それは良い心がけです」

 あんたがそう言うように脅したんだろうが。おれは心なし、ラルジュから距離を取る。

「では帰ろうか」

 ぐるんと顔を向けられ、ビクリと肩が跳ねた。それを隠すように歩きだす。

「リュエル、また明日ね」

 背中にかかったふわんとした声に癒された、十五の秋のこと。
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