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第一章 いざ、新天地
十七
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「君は俺を煽るのが上手い。今も必死で落ち着かせているよ」
喉元に指を添えられているからではない。その目を見ていたくて、おれは動かなかった。ラルジュの目が細められる。
(あ…)
「キスくらい、してもいいよね」
色が変わったと思ったとき、精悍な顔が小首を傾げるようにして近づいた。目を見張る間もなく鼻先にそっと触れた唇。弧を描く。その後ろにふと現れた人影が、
「ちょっとそこの侍衛候補、何をしているのかな?」
ビュン、と。糸目の後頭部に凶器もとい鞄を投げつけた。ラルジュは飛んできた鞄をあっさりキャッチし振り返る。
「、アルシャ?」
この声は間違いない。おれは唖然とした。
「そこは甘んじて受けなよ」
ムスッと腕を組むアルシャ。
「痛いのはお断りですよ。それから、俺が物を聞く相手は彼だけです」
ラルジュはおれの肩にトンと手を乗せた。思わずキョトンとしてしまう。どの口が言うのだ。「俺の言葉を聞け」と言ったのはラルジュの方である。
「君のそういうところは、護衛として頼もしいと思うけどね。その護衛が危ぶまれるようなことをするのはいただけない」
「嫌がることはしていませんよ」
判断を求めるようにアルシャから視線を寄越され、おれは曖昧に頷く。
「リュエル…」
「俺は、彼がフィリァを知るためならなんでもします」
鞄を受け取ったアルシャが眉根を寄せたように見えた。
そのとき、後ろから。
「あら、リュエルにラルジュ。まだこのような所にいたのですか」
レルヒだ。腕に本を抱えている。図書館帰りか。そうだ、レルヒやラルジュにも、課題やら何やらあるはずなのだ。おれの家庭教師をしていればいいという訳ではない。
「リュエル、明日は図書館へ行きましょう。参考文献が必要な課題もあるでしょうし」
レルヒもラルジュも、それらのことを何も話さない。おれは口を開きかけた。しかし、なんと言っていいのかわからず、最後には素直に頷く。
「君は自分のことに専念していれば良いのです」
察しの良いレルヒはすぐにこちらへ来て、頭を撫でてきた。思わず睫毛を伏せる。ふとアルシャの存在を思い出したとき、その姿はどこにもなかった。
〇*〇*〇
アルシャはツカツカと廊下を行く。偶然見かけたリュエルは、あろうことかラルジュと――。
(あれはたぶんしてた)
ラルジュはアルシャがいることを知った上でしたに違いない。
あの糸目。本気でリュエルをカムナギにしようとしているのはいい。それにしても、やり方というものがあるだろう。
「アールシャ。なにイラついてんだ」
どこからかやって来たオルキデが自然に並ぶ。アルシャは一見普段と変わらないように見えるが、そこは付き合いの長い彼のこと。雰囲気ですぐにわかった。
「あの糸目、ぼくをけしかけようとした」
「さすがラルジュ。おまえすら、目的を達成するための手段として捉えるなんてな」
カムナギと聞くだけで、多くの人は頭を下げるのに。いやぁ、あっぱれ。リュエルは本当に心強い味方を手に入れた。
「ラルジュとサシでやったらおれ、勝てる気しないわ」
オルキデは楽しそうに笑う。
「……侍衛が堂々と負ける宣言しないでくれよ」
アルシャは呆れてため息を吐いてしまった。おかげで苛立ちはどこかへいったが、胸のざわめきはなくならない。こんなに心が乱れるのはいつぶりだろう。気付かれないように深呼吸し、静けさを取り戻そうと試みる。
「で? ラルジュはおまえに何をするようけしかけたんだ?」
オルキデは軽い口調で問う。
『俺は、彼がフィリァを知るためならなんでもします』
フィリア――どこにでもあり、誰もがそれを当然のように感じているが、気づいていない。
アルシャは沈みゆく日輪をぼんやり捉え、口を開いた。
「早くリュエルと心を通わせろってことかな。フィリァを知る入口として、恋情を利用するのもわるくない」
「……やっぱりおまえ、あいつに惚れてるのか」
リュエルもカムナギになることを望んでいるはずだ。そう思って声をかけ、見事にフラれて肩を落とした自分がいた。彼はもっと輝けるはず。そう思うと、悔しくて。美しい世界をリュエルに見せたい。同じ舞台に来てほしい。同士のような感覚で、彼を求めていることに気が付いた。
(特別な気持ちはなかったはずなのに)
会うたび彼を思う時間が増えて、彼を捉えると輝きを増す世界。目が合って、甘美な痺れを覚えて、これが世に言う恋なのかと思い至ったのはつい最近だ。湧き上がる実感に、彼が好きなのだと認めざるを得なかった。
「先に唇を奪われたのは、軽くショックだったよ」
さすがのラルジュ。容赦ない。オルキデは眉を上げ、目を丸くした。たしかに目の前でそんなシーンを見せられたら焦る。
「しっかし、あのリュエルが大人しくされたのか?」
「嫌がる素振りはなかった」
ラルジュもあれでハンサムだから、グラッと来たのかもしれない。考えたくはないが。
「まぁなあ。ラルジュは強いし忠臣タイプだし、顔は言わずもがな? それがいつも側にいたら惚れる……か?」
そこまでスラーっと口にしてから、オルキデは我に返ってアルシャの方を向いた。アルシャはただぼんやりと遠くを見ている。
「キスされても構わないと思うくらいには、心を許してるってことだろうな」
「ああ…」
オルキデは渋い表情で前髪を掻き上げた。これまで浮いた話のなかった友人の恋だ。叶えてほしいと思う。
「オルキだって、カイトがキスしてるのを見たらいい気はしないだろ?」
そう、実はこのオルキデ、カイトとデキていたりする。普段あまりそのような話はしないので、目がさ迷った。
「あー…、まぁ、相手と場所によるな。唇以外なら、もう何度も見たことあるし」
「……ああ、弟がいたね」
アルシャは苦笑する。カイトはしょっちゅう弟に、それは兄弟に対する接し方かい、と聞きたくなるような事をしている気がする。
「あのブラコンは治らないだろうさ」
オルキデは肩をすくめた。
「見たか? おかっぱのレルヒが宣戦布告しに来たときの顔。相手がオレだったら死に目を見たぜ」
レルヒはご丁寧に、リュエルの侍官になる旨を兄へ報告しに来た。
『父上や兄上のような、立派な侍官になります』
期待と緊張に、きらきらと瞳を輝かせて。
『やるからには、次期聖華の座を頂戴する気概です。兄上、お世話になりました』
深々と頭を下げる。おかっぱの髪がすべてを物語っていた。彼はもう、カイトの従順な弟ではない。自立した一人の人間が、そこにいた。
眼鏡が光を反射して、カイトの表情をわからなくさせる。
『レルヒ…、大きくなったな』
自分たちの年齢は一つしか違わない。いつの間にか、そんなことを忘れていた。
カイトは凛と佇む弟に歩み寄り、短くなった髪を惜しむように撫でる。見上げてくる瞳に宿った初々しい光。けれど、カイトを映す色は変わらない。それが兄に対する気持ちになんら変わりはないと、教えてくれた。
その瞳を愛しむように、目尻にキスを落とす。
『私はおまえの兄だ。兄として、いつでも力になろう』
『兄上……っ』
たぶんレルヒは不安だったのだ。兄にどんな反応をされるかと。それがなくなった今、ひっしとカイトに抱きつく。レルヒは平均的な身長だが、カイトは少し背が高い。
『ごめんなさい…。なにも言わずに髪を切ってしまって』
『構わない。おまえの髪だ。おまえの好きにすればいい』
カイトはポーカーフェイスが上手い。あれはかなり残念だったろうなとオルキデは思う。
『兄上、これからもずっと、私の兄上でいてください』
レルヒは甘えるように言う。
『当たり前だろう? 私の可愛いレルヒ』
恋人同士のように熱い抱擁を交わす兄弟を、オルキデは生温かく見守った。
喉元に指を添えられているからではない。その目を見ていたくて、おれは動かなかった。ラルジュの目が細められる。
(あ…)
「キスくらい、してもいいよね」
色が変わったと思ったとき、精悍な顔が小首を傾げるようにして近づいた。目を見張る間もなく鼻先にそっと触れた唇。弧を描く。その後ろにふと現れた人影が、
「ちょっとそこの侍衛候補、何をしているのかな?」
ビュン、と。糸目の後頭部に凶器もとい鞄を投げつけた。ラルジュは飛んできた鞄をあっさりキャッチし振り返る。
「、アルシャ?」
この声は間違いない。おれは唖然とした。
「そこは甘んじて受けなよ」
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ラルジュはおれの肩にトンと手を乗せた。思わずキョトンとしてしまう。どの口が言うのだ。「俺の言葉を聞け」と言ったのはラルジュの方である。
「君のそういうところは、護衛として頼もしいと思うけどね。その護衛が危ぶまれるようなことをするのはいただけない」
「嫌がることはしていませんよ」
判断を求めるようにアルシャから視線を寄越され、おれは曖昧に頷く。
「リュエル…」
「俺は、彼がフィリァを知るためならなんでもします」
鞄を受け取ったアルシャが眉根を寄せたように見えた。
そのとき、後ろから。
「あら、リュエルにラルジュ。まだこのような所にいたのですか」
レルヒだ。腕に本を抱えている。図書館帰りか。そうだ、レルヒやラルジュにも、課題やら何やらあるはずなのだ。おれの家庭教師をしていればいいという訳ではない。
「リュエル、明日は図書館へ行きましょう。参考文献が必要な課題もあるでしょうし」
レルヒもラルジュも、それらのことを何も話さない。おれは口を開きかけた。しかし、なんと言っていいのかわからず、最後には素直に頷く。
「君は自分のことに専念していれば良いのです」
察しの良いレルヒはすぐにこちらへ来て、頭を撫でてきた。思わず睫毛を伏せる。ふとアルシャの存在を思い出したとき、その姿はどこにもなかった。
〇*〇*〇
アルシャはツカツカと廊下を行く。偶然見かけたリュエルは、あろうことかラルジュと――。
(あれはたぶんしてた)
ラルジュはアルシャがいることを知った上でしたに違いない。
あの糸目。本気でリュエルをカムナギにしようとしているのはいい。それにしても、やり方というものがあるだろう。
「アールシャ。なにイラついてんだ」
どこからかやって来たオルキデが自然に並ぶ。アルシャは一見普段と変わらないように見えるが、そこは付き合いの長い彼のこと。雰囲気ですぐにわかった。
「あの糸目、ぼくをけしかけようとした」
「さすがラルジュ。おまえすら、目的を達成するための手段として捉えるなんてな」
カムナギと聞くだけで、多くの人は頭を下げるのに。いやぁ、あっぱれ。リュエルは本当に心強い味方を手に入れた。
「ラルジュとサシでやったらおれ、勝てる気しないわ」
オルキデは楽しそうに笑う。
「……侍衛が堂々と負ける宣言しないでくれよ」
アルシャは呆れてため息を吐いてしまった。おかげで苛立ちはどこかへいったが、胸のざわめきはなくならない。こんなに心が乱れるのはいつぶりだろう。気付かれないように深呼吸し、静けさを取り戻そうと試みる。
「で? ラルジュはおまえに何をするようけしかけたんだ?」
オルキデは軽い口調で問う。
『俺は、彼がフィリァを知るためならなんでもします』
フィリア――どこにでもあり、誰もがそれを当然のように感じているが、気づいていない。
アルシャは沈みゆく日輪をぼんやり捉え、口を開いた。
「早くリュエルと心を通わせろってことかな。フィリァを知る入口として、恋情を利用するのもわるくない」
「……やっぱりおまえ、あいつに惚れてるのか」
リュエルもカムナギになることを望んでいるはずだ。そう思って声をかけ、見事にフラれて肩を落とした自分がいた。彼はもっと輝けるはず。そう思うと、悔しくて。美しい世界をリュエルに見せたい。同じ舞台に来てほしい。同士のような感覚で、彼を求めていることに気が付いた。
(特別な気持ちはなかったはずなのに)
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「先に唇を奪われたのは、軽くショックだったよ」
さすがのラルジュ。容赦ない。オルキデは眉を上げ、目を丸くした。たしかに目の前でそんなシーンを見せられたら焦る。
「しっかし、あのリュエルが大人しくされたのか?」
「嫌がる素振りはなかった」
ラルジュもあれでハンサムだから、グラッと来たのかもしれない。考えたくはないが。
「まぁなあ。ラルジュは強いし忠臣タイプだし、顔は言わずもがな? それがいつも側にいたら惚れる……か?」
そこまでスラーっと口にしてから、オルキデは我に返ってアルシャの方を向いた。アルシャはただぼんやりと遠くを見ている。
「キスされても構わないと思うくらいには、心を許してるってことだろうな」
「ああ…」
オルキデは渋い表情で前髪を掻き上げた。これまで浮いた話のなかった友人の恋だ。叶えてほしいと思う。
「オルキだって、カイトがキスしてるのを見たらいい気はしないだろ?」
そう、実はこのオルキデ、カイトとデキていたりする。普段あまりそのような話はしないので、目がさ迷った。
「あー…、まぁ、相手と場所によるな。唇以外なら、もう何度も見たことあるし」
「……ああ、弟がいたね」
アルシャは苦笑する。カイトはしょっちゅう弟に、それは兄弟に対する接し方かい、と聞きたくなるような事をしている気がする。
「あのブラコンは治らないだろうさ」
オルキデは肩をすくめた。
「見たか? おかっぱのレルヒが宣戦布告しに来たときの顔。相手がオレだったら死に目を見たぜ」
レルヒはご丁寧に、リュエルの侍官になる旨を兄へ報告しに来た。
『父上や兄上のような、立派な侍官になります』
期待と緊張に、きらきらと瞳を輝かせて。
『やるからには、次期聖華の座を頂戴する気概です。兄上、お世話になりました』
深々と頭を下げる。おかっぱの髪がすべてを物語っていた。彼はもう、カイトの従順な弟ではない。自立した一人の人間が、そこにいた。
眼鏡が光を反射して、カイトの表情をわからなくさせる。
『レルヒ…、大きくなったな』
自分たちの年齢は一つしか違わない。いつの間にか、そんなことを忘れていた。
カイトは凛と佇む弟に歩み寄り、短くなった髪を惜しむように撫でる。見上げてくる瞳に宿った初々しい光。けれど、カイトを映す色は変わらない。それが兄に対する気持ちになんら変わりはないと、教えてくれた。
その瞳を愛しむように、目尻にキスを落とす。
『私はおまえの兄だ。兄として、いつでも力になろう』
『兄上……っ』
たぶんレルヒは不安だったのだ。兄にどんな反応をされるかと。それがなくなった今、ひっしとカイトに抱きつく。レルヒは平均的な身長だが、カイトは少し背が高い。
『ごめんなさい…。なにも言わずに髪を切ってしまって』
『構わない。おまえの髪だ。おまえの好きにすればいい』
カイトはポーカーフェイスが上手い。あれはかなり残念だったろうなとオルキデは思う。
『兄上、これからもずっと、私の兄上でいてください』
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