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第一章 いざ、新天地
二十五
しおりを挟む「来たまえ」
それは酷薄な審判者の声だった。おれはかすかに首をもたげ、その顔を見上げる。黒に近い榛色の髪が顔半分に影を落としている。鋭い目は、若葉のような黄緑色だった。
「聞こえないのか。それとも、そこが気に入ったのか」
鼻で笑ってユラリと立ち上がる。彼に続いて隣の部屋へ出ると、そこにブリランテの姿はなかった。
「彼はひとまず帰した。そこへ座れ」
机を挟んで向かい合う。
「エレミア・イェスラだ。警らで隊長を務めている。君の名はリュエル・フラムで間違いないな」
かすかに頷いた。
「なぜ彼に手を上げた?」
「あいつはなんて言ったんですか」
こういった場面は何度か経験している。大体が被害者の話を真に受けて、おれの話など信じてくれなかった。
(話すだけ無駄だ)
睫毛を伏せる。しかし、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「君の話を聞いている」
エレミアは机の上で手を組んだ。
「君はなぜ、彼に手を上げた?」
「……むしゃくしゃしてたんで」
エレミアの声は淡々としている。責めるような言葉もないなんて――。おれはにわかに動揺した。
「私は、君が彼に手を上げたきっかけを聞いている」
あのブリランテが素直に語るとは思えない。きっとおれが不利になるよう話しただろう。エレミアはどうして怒らない?
「あいつに言われたことに、カチンときたから…」
「何を言われた」
どうやらエレミアは、本当におれの話に耳を傾けるつもりらしい。それがあんまり意外で困惑しつつ、記憶の通りに訥々と語った。
エレミアは静かに耳を傾け、最後まで話を聞いてくれた。おれは堪らず口を開く。
「あいつはぜんぜん違うこと言ったんだろ?」
うっかりタメ口になってしまったが、気にする余裕はない。
「ああ」
「なんであんたは、……」
揺らめく心。そんなおれの目を真っ直ぐに捉えてエレミアは淡々と語る。
「真実は人の数だけある。彼の真実と君の真実が異なるのは当然だ」
「それじゃあ、全部信じるのか?」
「しかし、事実は一つ。そこはハッキリさせねばならない」
これから周りにいた人にも話を聞いて、事実を見つけるという。
「君が手を上げたのは私も見た。それは事実だ。暴力を行った生徒には罰を与えねばならない」
「罰って、」
するとエレミアは、うっすらと微笑を浮かべた。
「それを定めるために、事実を知る必要がある」
そこでおもむろに立ち上がり、コップ両手に戻ってくると、片方を差しだされる。
「……どーも」
フルーツの香りが仄かに漂う。温かなお茶にホッとした。
「ここは居心地が悪いか?」
ふと問われ、顔を上げる。取調室のことかと思ったが、静かな瞳を見ていたら学び舎の話だとわかった。
「よくはないです。でもそれは、どこだって同じだ」
思わず自嘲の笑みを浮かべる。地元の学問所でもそうだったから。けれど街へ出てテオと出会い、新たな世界を知ったのだ。そのことを思い出し、「……閉鎖的なところでは」と言葉を続けた。
「そうか」
不意に頭に乗った大きな手。真顔でぽふぽふと頭を撫でられる。
「俺は必ず事実を見つける。それまで大人しくしていろ」
おれがむしゃくしゃしていたと語ったからか。
「さすがに、いきなりキレたりしねえですよ」
鼻で笑ってしまう。
「そうか」
嫌みのない口調に口を噤んだ。
「何かあったら、迷わずここへ来い」
エレミアは余計なことは話さない。けれどもその瞳が、大きな手が、言葉に込めた思いを伝えてくれた。知らぬ間に入っていた肩の力が抜ける。
「何もなくても、来ていいぞ」
極めつけにそんなことを言ってくるので、ちょっとじんときた。
取調室から出たおれを迎えたのはラルジュとレルヒだった。視線を合わせることもなく、すっと身を翻して歩きだす。――ふらりとどこかへ消えてしまいそうな背中を、レルヒが後ろから抱きしめた。
「昼食、あんまり食べられなかったそうですね。おやつにしましょう」
おれは予想外な言葉に眉根を寄せる。
「……腹、へってねえ」
「果物くらい入るでしょう? つれないことを言わないで、ご一緒してくださいよ」
昼飯はレルヒとラルジュと共に。それが恒例となっている。今日は学び舎を出ていたので、三人一緒の昼食ではなかった。甘えるようにレルヒが言うので、思わずその顔を窺う。レルヒは、目許を緩めて微笑んでいた。
「ようやくこちらを向いてくれましたね、リュエル」
頭をなでなで。
「さぁ、行きましょう」
流れるようにおれの手を取り、歩きだす。ラルジュもいつもの糸目で当たり前のように着いてきた。おれは落ち着かない気持ちで糸目を窺う。
「俺も抱きしめていいかな」
「、は」
思わず足を止めたときには腕の中。
「抱きしめるだけですからね。これからおやつなんですからね」
言葉以上に、レルヒの腹がピーヒャラと主張していた。レルヒも、お昼はあんまり食べられなかったのだろうか。
「わかってるよ」
ラルジュは適当に答えておれの髪をサラリと撫でた。
「……何も言わねぇの?」
取調室にいたことについて一言も話が出ない。あまりに不自然だ。おれは眉根を寄せてしまう。
「君は何か言われたいのかい?」
「そうじゃないけど、」
「怒られたい、お仕置きされたいと言うなら、いくらでもしてあげるよ」
低い囁き。腰に回されていた腕に力が込められる。
「っいらねぇ!」
堪らず暴れると、ラルジュはパッと腕の束縛を解いた。それから、なんとはなしに言う。
「リュエル、俺は無駄なことはしない。わかりきっていることを、いちいち言うつもりはないよ」
おれはぐっと唇を引き結んだ。
そこで、空気を変えるようにポンと肩に手を置かれる。
「さて、レルヒが拗ねる前におやつにしよう」
「もう拗ねてます」
振り返れば、レルヒが口を尖らせていた。
「レルヒ。ほら、リュエルも食べる気になったようだから」
「そうなんですか?」
ムッとした顔からジト目を寄越され、おれは気付けば頷いていた。
「さぁさぁ行こう」
おれとレルヒの背中を押すラルジュ。三人並んで歩きだす。
「空腹のレルヒは早く退散させなくてはね」
コソッとおれに囁いて。
「ラルジュ、なにか?」
「いやぁ、俺も腹が減ってきたよ」
糸目ではははと笑う。レルヒはムスッとしたまま、そんなラルジュへ目をやっていた。おれはレルヒのこんな顔を見るのは初めてだ。どうやらレルヒは、腹が減るとご機嫌斜めになるらしい。
「リュエルも。言いたいことがあるならどうぞ」
「、いや、べつに」
触らぬ神になんとやら。おれはそっと視線を前に戻した。
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