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「ではこちらの遺失物届にサインを。枚数が多くてお手数おかけしますが」
「大丈夫ですよ」
 
 キアランは受け取った書類に滑らかにサインをする。3、4枚分のそれを終えると職員に渡した。
 なぜここにきてそんなことをしているのかというと、ここ最近キアランの事務用品が紛失することが多いからだ。ものは万年筆やマフラーなど些細なものだが、これが続けば印鑑や書類など大事なものがなくなる可能性もある。
 無くなるものが多すぎて彼自身把握しきれていないものもあるかもしれない。キアランが行ったことのない場所からも見つかるので、自身のうっかりでないことは明白だ。つまり犯人はわからないが誰かが悪意を持って盗んでいる可能性も視野に入れなければならない。
 小さな悪意は一つ一つ些細なことでも心に留まり続けると、常に心に巣食う蜘蛛の巣のようになる。冷静な彼でも少しずつ精神的に削りとられているだろう。
 届けを出したものを分析してみると、なくなるものはこの文官室のものだけだ。昼間はずっと同じ部屋で仕事をしているし食事もそこでとっていて片時も部屋から離れてない。つまりこの犯行はアレックス達がいない夜間から早朝の間に行っていると考えられる。ならアレックスができることは一つ。待ち伏せして犯人を現行犯で捕まえることだ。
 部屋に戻ると昼食の時間になっていた。お互い弁当を広げる。休憩中だから長話をしても良いだろう。アレックスはキアランに許可を取るために口を開いた。
 
「フィンレーさん」
「はい」
「俺、今夜は帰りたくないんですけど」
 
 その瞬間キアランが昼食をぼとっと取り落とした音がした。
 
「それは期待してよいのですか……?」
「は?期待?そりゃあ俺だって犯人捕まえられたら御の字ですけど……」
「犯人……?」
「だから、こうちまちまものを盗んでく犯人を捕まえたいんで今夜はこの部屋で待ち伏せしたいんですけどいいですかっていうことです」
 
 盗むのは勤務後二人がいない夜だろう。ただ黙って盗まれて過ごすのはアレックスの割に合わない。ここで犯人を捕まえて一気にカタをつけたい。
 
「ああ……そうでしたか。てっきり……いえ何でもありません」
「……?」
「でしたら貴方だけにやらせるわけにはいきません」
「いや仕事ですし気にしないでください」
「そこまでしていただかなくても大丈夫ということです」
 
 その言葉に、アレックスはこの仕事が期間限定だったと思い出した。だから夜張り込みをするなんていう余計なことをして事態を引っ掻き回してほしくないのだろう。なぜだか心臓あたりがつきりと痛む。
 
「……っそうですか」
 
 それでこの話は終わると思えたが、キアランは咳払いをすると、居住まいを正す。
 
「どうしてもというのでしたら私もお付き合いいたします」
「へ?」

 一度は断ったのだが、自分の問題なのだからアレックスだけに任せるわけにはいかないと固辞され、結局二人で見張る事となった。
 普通はうんざりするだろうに文官はなぜだか普段よりも浮かれながら寝袋を用意している。どこから用意したんだ。夕飯は出前にしましょうかと文机の棚から紙のメニューらしきものを取り出した。王宮に勤める文官は夕方以降頼めるらしい。今まで出番がなかったからとアレックスの分も頼ませてくれた。
 軽食を済ませ、アレックスは以前図書館でかりた本を読み、キアランは明日の仕事の準備をし始める。
 
「……よく考えたら灯りをつけてたら泥棒が来ませんよね?」
 
 5分くらい経ってキアランが指摘した。昼間と同じような作業をして待っていたが確かにそうだ。普通は侵入する部屋に灯りがついてたら誰かいると推測できるだろう。泥棒だって警戒して入ってこない。強盗であれば別だが、二人がいない時に物を盗む時点でその可能性は薄い。
 
「じゃあ灯りを消します」
「お願いしますね」
 
 灯りを落とし、閉めたカーテンの隙間から月明かりが漏れ出る。満月の夜は結構明るい。キアランの顔の輪郭がわかるくらいに。これでは堂々としていたら犯人にすぐ見つかる。二人は寝袋を下に敷き膝を抱え本棚にもたれかかった。入り口からはちょうどソファの影で見えない場所だ。
 暗くなったから特にできることはなくて、ぼんやりと納められた本の背面を眺める。
 
「……この本全部読んだんですか?」
「ええ。上段の本は、文官になるための試験で必要な書物で、中段から下段の本は今使用している本ですね」
 
 この書物の数からも、キアランの努力が目に見えた。仕事を成し遂げて欲しいと思う。
 その後も二人は囁き声で暇を潰した。会話自体は面白かったので嫌ではなかったが、それとは別にアレックスを悩ませる事態が発生した。
 とにかくキアランの囁き声が腰にくるのだ。アレックスは異性愛者で恋愛関係になるのは女性しかいない。だから女の喘ぎ声で兆したことはあっても、男の話し声でこうなったことは初めてだった。
 
「──私、夜目は聞く方なんです。ですので、先に寝て交代することにしませんか。……アレックスさん?」
 
 自分の体の変化に狼狽うろたえていると、キアランがこちらに近づいてくる気配がする。やめてくれ、こんなのがバレたら引かれてしまう。
 
「っ……いえ、なんともありませんよ。俺が起きてますから。フィンレー様は」
「フィンレーさん」

 様づけはは嫌だと訂正される。

「……フィンレーさんは寝ていてください」
「貴方がそういうのでしたら……あっ、」
「……どうしたっ?」
 
 まさかゆるく勃っているのがバレてしまったかと狼狽える。
 
「寝袋使ってもいいですか?」
「いいですって……」
 
 今度こそ寝てくれたかと思ったのに、キアランは横たわる気配がない。むしろこちらを見つめる柔らかな視線に包まれる。
 
「何か気がついたことでもありますか?泥棒の気配とか……?」
「いえ……貴方に謝らなければならないことがありまして」
「何でしょう?」
 
 特に嫌だと感じたことも何にもないのだが。
 
「実は、警備は期間限定だと申したのですがまだ次の方が見つからなくて……申し訳ありませんがもう少しだけ警備してくださいますか?」
「ああ、そんなことですか……いいですよ」
 
 当初感じていた貴族への反感というものはキアランに対しては起こらなくなっていた。むしろ今ここで解雇される日を告げられる方がショックだったかもしれない。それほど居心地が良かった。
 
「よかった……アレックスさんには申し訳ありませんが、実は嬉しかったりするんです」
「どうして?」
「さあ、どうしてでしょうね」
 
 文官ははぐらかすような笑みをした気配。見えないけれど、こちらを見つめているのがわかる。
 
「……月明かりに照らされた貴方の顔があまりにも綺麗で、見惚れてしまいます。私にとって夜は、よく見えるんです」
「綺麗って……?」

 逞しくかっこいいと言われたことはあるが、こんな筋肉でむさくてでかいおじさんが?

「貴方のことが。もっと近くで見せてくれませんか……」
 
 キアランの最後の言葉が聞こえないうちにアレックスの骨ばった頬が冷たく柔らかなもので包まれる。それが雇い主の手のひらだと知った時には、唇に薄くでも温かい感触が乗ってくる。その正体が何かわからないほどアレックスはウブじゃない。
 
「んっ……む」
「ごめんなさい、あまりに慌てた貴方が可愛らしくてつい」
 
 可愛いってなんだ可愛いっていうのは。訊ねようとするとリップ音を立て一度唇が離れたと思ったらまた重ねられる。背筋から腰にかけて泡のような電流がぱちぱちと走る。やばい、これは非常にやばい。軽くだったのが今度は押し付けるように触れる。口を開けたらもう少しで舌が侵入してしまいそうなほど。
 それより先に進んでしまうと、事故で唇が触れ合ったのだと言い訳できなくなってしまう。キアランが意図を持って触れてきたのだと。好意という甘酸っぱい気持ちを。
 唇にぬるりとした感触がしたと思ったら音がする。二人は動きを止める。夜にしては幾分大きめの音が向かいの本棚からする。
 
「……誰か来たっ……」
 
 慌てて唇を離しキアランを押し除ける。雇い主には 座ったままで息を殺しておくよう指示をした。アレックスはそうして音がする方へゆっくりと忍び寄っていった。
 侵入者は向かい側の本棚をごそごそと荒らしていると思ったらキアランの文机へと足音を近づけている。5歩くらいで犯人を捕まえられる距離だ。犯人が机の上の文房具等を確かめたのち棚に手を伸ばそうという時、一気に距離を詰める。
 
「このっ、大人しくっ……捕まえられろっ!」
「………っ……」
 
 侵入者は一言も言葉を発せずアレックスはのしかかる。苦しそうな呻き声をあげて暴れる犯人。とりあえず縛って話を聞こう。腰につけていた縄を取ろうとすると、力が緩んでその隙に逃げられてしまう。苦戦しているとキアランの叫び声が聞こえてきた。
 
「アレックスさん! 無事ですか!」
「わっばか出てくるんじゃねぇ!」
 
 がだがたと重い本や資料が落ちてさらに収拾がつかなくなる。結局キアランの声で油断したアレックスの腕から犯人が逃げ出してしまった。
 
「ごめんなさい。逃げてしまいましたね……」
「あー……しょうがないですって今捕まえたとしても憲兵所にはまともな人はいなかったと思うんで。こんなに暗いんで今日はもう帰りましょう。明日盗まれたものがないか探しましょう。犯人もまたくるとは限りませんし」
 
 あからさまに落ち込むキアランに怒ることもできず、アレックスがキアランを自宅まで送ってそのまま解散という流れになった。
 キアランの家は歩いて5分のところにある住宅の一部だった。いつもは馬車に乗っているらしいがこの時間では皆休んでいる。月明かりに照らされてキアランの道案内で家へと向かっていく。
 一人暮らしをしているとは言っていたが、さすがは貴族。アレックスよりも数段広く、質の高そうな材質の家屋であった。
 
「送ってくださってありがとうございました。……よろしかったらお茶でもいかがですか?」
「すみません、明日のことを考えると……」
「そうですか、残念ですがおやすみなさい。また明日会いましょう」
 
 雇い主からそう誘われたら一も二もなくお茶をもらうのがスジだろうが、今のアレックスにそんな余裕はなかった。家の中に入ったら今度こそ逃げられないと思ったのだ。
 家に姿を消した雇い主を見送って、家路へと向かう。アレックスの住まいは王宮を挟んで反対側の平民街だ。さっさと寝て明日の仕事に備えたい。遠くで犬の遠吠えが聞こえる夜。なぜあんなに生娘じゃあるまいし何でこんなに警戒してしまったのか。
 軽いキスなら事故で触れ合ったと言い訳できる。けれども舌を入れたディープキスは明確な好意という意味を持ってしまう。あの時のキアランとの口付けを思い出すと不快感を覚えないことにアレックスは驚いた。

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