上 下
58 / 154
14.決意

しおりを挟む
 
 ヴァンテルは、小さく息を吐いて私を見た。

 自分の中にあった感情が、ぐるぐると行き場を失くして渦を巻く。
 あまりにも多くの事実が押し寄せてきて、どう整理したらいいのかわからない。

 一目で恋に落ちたと言った。その言葉が、うまく意味を伴って、心の中まで落ちて来ない。

「……私を嫌っては、いない?」

 ぽつりと呟くと、ヴァンテルはゆっくりと頷いた。まだ気になるのか、赤くなった私の手をじっと見つめている。
 私は手を伸ばして、ヴァンテルの指に触れた。ピクリと震える手は、思ったよりもずっと冷たい。指を包むように自分の手を重ねれば、少しずつ、互いの体温が移っていく。

 希望と、不安と。お前の中にはいつも葛藤があったのか。
 私は何も気づかなかった。

「私は……、兄様がしたことも、お前が小宮殿に来なくなった理由も、何も知らなかった。ただ日々を過ごして生きていた。またいつかクリスに会いたいと、そればかり思いながら」

 そのクリスが来なくなった理由こそ、兄が原因だったとは。

 兄が留学から戻って嬉しかった。忙しい中、時間を作っては小宮殿に会いに来てくれた。寂しいと言えば抱きしめ、外に行きたいと言えば、ブラオンとの遠乗りに誘ってくれた。そんな兄が、垣間見せた顔を思い出す。


『本宮殿に行きたい。クリスが来ているかもしれないんだ。ほんの少し、姿を見るだけでいいから』

 そう言うと、兄は眉根を寄せて口許を歪めた。兄のそんな顔を見たのは初めてだった。

『アルは、その、クリスが……好きなのか?』
『好き? うん! 大好き!!』

 兄は黙り込んだ。
 逸らした瞳は氷のようで、その冷たさにぞっとしたのを覚えている。

『兄様?』

 不安になって呼べば、兄の表情はあっという間に温かいものに変わる。それでも私はなぜか、胸の動悸がおさまらなかった。兄を怖いと思ったのは、あれが初めてだったのだ。


 銀色の髪の少年が来なくなった小宮殿は、以前よりも色を失くしたように思えた。明るい光も咲き誇る花々も、吹き渡る風さえ変わらないのに。
 クリスがやってきた小道を、何度ものぞく。

「小道のわずかな音にすら、耳をそばだてていた。小さな森の動物だとわかれば、一瞬弾んだ心が落ち込むんだ。どこかで、お前が来てくれるのを待っていた」
「……殿下」

 ゆっくりと、自分の中で時が巻き戻されていく。ヴァンテルは、子どもだった私に語りかけるような、静かな口調で続ける。

「私は、貴方の廃嫡までに、あらゆる手を尽くしました」

 廃嫡、の言葉にびくりと体が震えた。

「もっと違う方法があるかもしれない。貴方の御体を守って、貴方を国王として立たせる方法がないかと探しました。その一方で、レーフェルト凍宮の修繕に全力を注ぎました」

「レーフェルトの修繕は、莫大な金がかかったと聞く。造営時にも勝るほどの」
「凍宮は元々修繕の必要があったのです。でも、貴方の為にと思った時、私はどこよりも素晴らしい宮殿にしたかった。全てに満足が行くような……」
「……凍宮の書庫には、一生かかっても読み切れないほどの本があった」
「ずっと、最初に本を喜んでくださったことが忘れられなかった。長い年月お会いできなかったので、貴方はどんな本がお好きなんだろうと色々なものを集めました」

 ヴァンテルが私を見る瞳は、懐かしい色を宿していた。遥か昔、この場所で二人で笑いながら語り合った時の、愛情に満ちた色。

 ──貴方が望むなら。

 何度そう言われて来ただろう。
 優しいクリスは、いつだって私の望みを叶えてくれようとした。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

もふつよ魔獣さん達といっぱい遊んで事件解決!! 〜ぼくのお家は魔獣園!!〜

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:6,716pt お気に入り:1,913

邪霊駆除承ります萬探偵事務所【シャドウバン】

ホラー / 連載中 24h.ポイント:2,598pt お気に入り:15

学園と夜の街での鬼ごっこ――標的は白の皇帝――

BL / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:371

女装魔法使いと嘘を探す旅

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:120pt お気に入り:8

陽炎と裂果

BL / 完結 24h.ポイント:85pt お気に入り:215

弱気な男爵令嬢は麗しの宰相様の凍った心を溶かしたい

恋愛 / 完結 24h.ポイント:177pt お気に入り:1,287

処理中です...