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18.資質

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 自分の頬に触れた手に気がついて、はっとした。すぐ目の前に碧色の瞳がある。トベルクの手を振り払って椅子に座り直した。落ち着いた物腰の宮中伯は、気にした様子もない。

「……しおれかけた薔薇には水をやりたくなるものです。そして、再び美しく咲いたなら、人の目には触れさせたくないと思う」
「何の例え話だ? 知りたいことがある。なぜ私を生かしている? 其方はこの命が欲しいと言ったはずだ」

「ええ、確かに。貴方のお命を頂戴しようと思っていました。でも、さえいただければ、十分だったことがわかったのですよ。貴方が消えたおかげで、次の王太子の即位の準備は進んでいます」

 トベルクは、にこやかに笑みを浮かべた。

「……ヴァンテルは? 筆頭はどうしている?」
「おや、大事なのはそこですか? まあ、心を通わせた方のその後は気になるものでしょう。もちろん貴方の行方を必死で捜しておいでですよ。私もどれだけ責め立てられたかわからない」

「……クリス」

 心が温かくなる。自分のことを捜してくれている⋯⋯。

「ですが、貴方が筆頭殿にお会いになることはない。ここに貴方がいることは誰も知らないのですから」
「……今、捜していると言った」
「あの日、貴方に会ったのは私だけです。でも、私が屋敷を去った後に、貴方は一人で庭に出ていなくなったのです。貴方の侍従が証言しています」

「レビンは隣の部屋で倒れていたはずだ! そんな馬鹿なことが!」

 トベルクは笑い出した。驚くほど晴れやかな笑顔だった。

「そんなに悲壮な顔をされては、すぐに答えを教えてあげたくなりますね。
 ……殿下、人の記憶は、案外簡単に変容します。いくつか虚偽の情報を与えて誘導していけばいい。
 茶にも色々ありましてね、飲んだ後の酩酊状態の頭に違うことを吹き込むのは簡単です。
 私たちは挨拶だけして帰った。侍従がうたた寝から起きた時には、幻の殿下は庭を散策して、それきり……。人の心と記憶は、何とも移ろいやすい」

 机の上の本が床に落ちた。
 トベルクが私に渡そうとする。うまく掴めない手を取られて引き寄せられる。

「……ですが、本能だけは厄介です。真直ぐに自分の主君を嗅ぎつけてくる。愛情などという感情よりも余程、恐ろしい気がしますね」

 耳元で囁くように言われた言葉は、不思議と心に響いた。
 本能、という言葉があれほど悲しく思えたのに。

「お休みなさい、殿下。また伺います」

 トベルクが、私を抱き寄せて頬に口づけた。厚みのある体を思いきり突きとばして、頬をごしごしと手でこする。

「……何のつもりで」
「もちろん、親愛の表現です」

 にこにこと笑う姿が扉の向こうに消えた途端に、寝台に転がった。

 ──ここから、出たい。クリスに会いたい。

 明かり取りの窓から見える空は、夕暮れからあっという間に宵闇に変わる。
 気が付けば、涙がこぼれている。

 ──トベルクなんかじゃなくて、クリスがいい。クリスに抱きしめて口づけてほしい。

 子どもみたいに叫びたくなって、手元にあった枕を思いきり壁に投げつけた。蜜で体が回復しても、元気になった分だけ心がつらい。

 本当に、私は少しも想像が及ばなかった。自分のことに精一杯で、寝台で泣きながら眠っていた頃。私を捜し続けたクリストフ・ヴァンテルが、どんな行動をとったかに。
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