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24.合図
②
しおりを挟む宿屋の三階にある応接室の一つで、私はヴァンテルと向かい合っていた。卓を挟み、絹張りの椅子に座って、ひたと見つめ合う。
少し離れた扉の前には、ホーデンと共に騎士がもう一人控えている。
部屋の中には、張りつめた空気があった。ヴァンテルの瞳の中には混乱と焦りが浮かんでいる。
「殿下、先ほどのお言葉は……」
「言葉通りだ。父上が崩御されたことは知っているだろう。宮中伯たちが打ち揃って、こんなところにいる場合ではない。葬儀の場に居合わせぬような非礼は許されぬ」
ヴァンテルがうつむき、眉を顰めて小声になる。
「……お叱りは重々覚悟の上で申し上げます」
膝の上で組んだ両手が強く握りしめられ、白く色が変わっている。
「あれは、偽りです」
……いつわり?
「今、何と言った? 父上が崩御されたと、確かにトベルクは……」
「トベルクの間者にわざと偽の知らせを流しました。ホーデンがお渡しした肩掛けの伝言を、殿下はご覧になられましたか?」
頭の中に、一つの文字が蘇る。
「……『闇夜に』」
「そうです。太陽が落ちる、すなわち国王が亡くなれば闇夜がやってくる。それが、宿屋に侵入する合図でした。トベルクは陛下崩御の知らせを受ければ必ずや動き出す。トベルクの騎士や兵たちの隙を狙って殿下をお助けする筋書きだったのです」
「……私は、全く言葉の意味を解くことができなかった」
「それでも、花と共に言付けをくださいました。おかげで私たちは時を違えることなく動くことが出来たのです」
頭の中が、ぐらぐらする。大きな安堵と共に体から一気に力が抜けていく。
「では、父上の御命は続いているということか」
「未だ予断を許さぬ状況ではありますが、フロイデンを見守っておいでです」
「……父上」
大きく息をついた。痩せ細った体に、優しく私を見て微笑む姿が瞼に浮かぶ。思い出は少なくとも、自分の中には父を慕う情がある。
椅子から立ち上がり、ヴァンテルは私の傍らに来て跪いた。口元に片手を当ててうつむく私を心配気に覗き込む。
「殿下、申し訳ありません。謀は密なるを以ってよしとするもの。不敬は承知の上とはいえ、御心を騒がせました」
「……不敬どころの話ではない。それに、気持ちなどずっと乱れたままだ」
私は、聞くべきかどうかずっと悩んでいたことを口にした。
「……クリス、教えてほしい」
自分でも驚くほど低い声だった。
「本当にトベルクの領民たちの食糧庫を焼いたのか?」
ヴァンテルの瞳に力が籠もる。
「……トベルクは何度尋ねても、殿下の行方を話しませんでした。方々に間者を放ち、ようやく殿下がトベルクの城の一つに閉じ込められていることがわかったのです。なんとか城の場所を、貴方の無事を確かめたかった」
「そのために火を放ったのか。城にまで?」
「城は幾つかに絞って賭けに出ました。どれも小火だったはずです。……全ての食糧庫を焼いたわけではありません。トベルクの領民たちを飢えさせるつもりはなかった。ただ、最も効果的な方法を使いたかったのです」
最も、効果的な方法。
ヴァンテルの言葉が、ひどく冷たく聞こえた。
何カ月もかかった日々の働きが、努力が。あっという間に灰になる。下働きの少年が毎日必死で育てた花が、踏みにじられて散ったように。その事実に、怒りがゆらりと湧きおこる。
「……お許しを。トベルクの領民たちには十分な支援を致します。食料も、春蒔き用の種麦もすぐに我が領地から運ばせます」
青く深い瞳。本物の湖よりも美しいその瞳が、不安に揺れている。
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