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二日目
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林道が二股に分かれているところに差し掛かると、キョウコは迷いなく右の道を選んだ。
「ヒトミが、ずっと上りになってるほうへ進め、って言ってたもんね」
「そうだな」
左のほうの道は細く、緩やかな下りになっていて、最近はほとんど人が歩いた形跡もない。
そっちへ進め、と言われていたら、さすがにちょっと躊躇しただろう。
真暗な林道をふたたび足早に進みながら、キョウコがまた口を開いた。
「おぼえてるかな? 高三の時、倫理の授業で『世界平和を実現するには』ってテーマで、ディスカッションしたことがあったでしょう?」
「ん、ああ……そんなこともあったかな」
正直にいうと、レンにはそんな授業があったことすら、まったく忘れていた。
「わたしは、人類のあらゆる格差を無くすことができれば、世界は必ず平和になるって主張したんだけど、君は、世界平和なんて、未来永劫絶対に実現できないって言ったわ。わたしが理由を聞いたら、君は、こう言ったの。人類は三度の飯より争いが好きだから、って。そもそも世界平和なんて本当は誰も望んでない、って」
「……そんなこと言ったかな」
「ええ、言ったわ」
キョウコは、懐かしそうに笑った。
「わたしが、ムキになって反論しようとした時、ユイが言ったの。『世界平和を実現する方法を考えた』って」
「どんな方法?」
「ユイが言うには、『世界平和募金』をつくればいいんだって。そして、世界中の人間が毎日、そこにお金を入れるよう義務付ければいいんだって。金額は、たった一円でもよくて、ただ毎日そこにお金を入れることが大事なんだって。それだけで、世界平和を実現できるって」
「どうして?」
「『世界平和募金』に一円でも入れた人は、きっとその日一日、誰かと争ったり、他人を傷つけたりしないだろうから、って」
「……なるほど」レンは、笑ってうなずいた。「いかにも、八神が考えそうなことだな。『世界平和募金』。でも、案外いいアイデアかも」
「でしょう?」キョウコは、少し誇らしげに言った。「なんでも小難しく考えちゃうわたしのような人間には、思いつかないアイデアよ。人間の良心ってものを素直に信じてる、本当に心の優しい人にしか思いつかないアイデア……」
レンは、横目で女の顔を見た。
「で、この話をオレに聞かせた意味は?」
「わたしが言いたいのは、だから、ユイは本当にいい子だってこと。処世術として、表面的に善人を演じているわけじゃない。あの子はいまも、本当にあたたかくて、きれいな心を持ってる。お母さんを亡くしたばかりで、たしかに少し落ち込んでるように見えるけど、でもそれだけ。ユイは、君の言ったような酷いことは絶対しないよ。わたしが保証する」
キョウコにはっきりそう断言されては、レンは何も言い返すことができなかった。
(俺だって、八神が高校の時から何も変わっていないと信じたい……)
(昨夜、アイツが砂浜でオレに迫ってきたのも、ただ人肌の温もりに触れて、独り身の寂しさを紛らわせたかっただけだと、そう信じたい……)
(でも、あの時のアイツの眼……あの大きな黒い瞳の奥に宿っていたのは……やはり、「狂気」とした呼べないモノだった……)
それからしばらく、丈の低い雑草の茂る林道を、沈んだ表情で歩き続けたレンは、やがてふと、あることに気がついた。
「……そういえば、真壁が言ってたチェックポイントって、ずいぶん遠いな。聞いてる感じだと、五分もしないで着くと思ったんだけど」
「そういえば、そうね……」
キョウコも、不思議そうにあたりを見回す。
「もしかして、道を間違えたかな」
「でも、間違えるような場所、なかったわよ」
「それもそうだな。じゃあ、もう少し進んでみるか……」
そうして、ふたりはまた歩きだしたが、この時、レンの胸中ではまた、この島に来てから何度も感じた不安、恐怖の影のようなものが、どろどろとわき上がっていた。
「ヒトミが、ずっと上りになってるほうへ進め、って言ってたもんね」
「そうだな」
左のほうの道は細く、緩やかな下りになっていて、最近はほとんど人が歩いた形跡もない。
そっちへ進め、と言われていたら、さすがにちょっと躊躇しただろう。
真暗な林道をふたたび足早に進みながら、キョウコがまた口を開いた。
「おぼえてるかな? 高三の時、倫理の授業で『世界平和を実現するには』ってテーマで、ディスカッションしたことがあったでしょう?」
「ん、ああ……そんなこともあったかな」
正直にいうと、レンにはそんな授業があったことすら、まったく忘れていた。
「わたしは、人類のあらゆる格差を無くすことができれば、世界は必ず平和になるって主張したんだけど、君は、世界平和なんて、未来永劫絶対に実現できないって言ったわ。わたしが理由を聞いたら、君は、こう言ったの。人類は三度の飯より争いが好きだから、って。そもそも世界平和なんて本当は誰も望んでない、って」
「……そんなこと言ったかな」
「ええ、言ったわ」
キョウコは、懐かしそうに笑った。
「わたしが、ムキになって反論しようとした時、ユイが言ったの。『世界平和を実現する方法を考えた』って」
「どんな方法?」
「ユイが言うには、『世界平和募金』をつくればいいんだって。そして、世界中の人間が毎日、そこにお金を入れるよう義務付ければいいんだって。金額は、たった一円でもよくて、ただ毎日そこにお金を入れることが大事なんだって。それだけで、世界平和を実現できるって」
「どうして?」
「『世界平和募金』に一円でも入れた人は、きっとその日一日、誰かと争ったり、他人を傷つけたりしないだろうから、って」
「……なるほど」レンは、笑ってうなずいた。「いかにも、八神が考えそうなことだな。『世界平和募金』。でも、案外いいアイデアかも」
「でしょう?」キョウコは、少し誇らしげに言った。「なんでも小難しく考えちゃうわたしのような人間には、思いつかないアイデアよ。人間の良心ってものを素直に信じてる、本当に心の優しい人にしか思いつかないアイデア……」
レンは、横目で女の顔を見た。
「で、この話をオレに聞かせた意味は?」
「わたしが言いたいのは、だから、ユイは本当にいい子だってこと。処世術として、表面的に善人を演じているわけじゃない。あの子はいまも、本当にあたたかくて、きれいな心を持ってる。お母さんを亡くしたばかりで、たしかに少し落ち込んでるように見えるけど、でもそれだけ。ユイは、君の言ったような酷いことは絶対しないよ。わたしが保証する」
キョウコにはっきりそう断言されては、レンは何も言い返すことができなかった。
(俺だって、八神が高校の時から何も変わっていないと信じたい……)
(昨夜、アイツが砂浜でオレに迫ってきたのも、ただ人肌の温もりに触れて、独り身の寂しさを紛らわせたかっただけだと、そう信じたい……)
(でも、あの時のアイツの眼……あの大きな黒い瞳の奥に宿っていたのは……やはり、「狂気」とした呼べないモノだった……)
それからしばらく、丈の低い雑草の茂る林道を、沈んだ表情で歩き続けたレンは、やがてふと、あることに気がついた。
「……そういえば、真壁が言ってたチェックポイントって、ずいぶん遠いな。聞いてる感じだと、五分もしないで着くと思ったんだけど」
「そういえば、そうね……」
キョウコも、不思議そうにあたりを見回す。
「もしかして、道を間違えたかな」
「でも、間違えるような場所、なかったわよ」
「それもそうだな。じゃあ、もう少し進んでみるか……」
そうして、ふたりはまた歩きだしたが、この時、レンの胸中ではまた、この島に来てから何度も感じた不安、恐怖の影のようなものが、どろどろとわき上がっていた。
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