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第17話 忘却の朝と残された微熱
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朝、目を覚ますと、世界はいつも通りの「日常」に戻っていた。
キッチンからトーストが焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
コーヒーメーカーがコポコポと音を立てている。
そして、ダイニングテーブルには、完璧に身支度を整えた白石玲奈が座っていた。
「あ、起きた? おはよう」
玲奈はスマホから目を離さず、さらりと挨拶をした。
昨夜の熱に浮かされた表情はどこにもない。
涼しげな目元、整った姿勢、そして冷ややかな声のトーン。
いつもの“氷の女王”だ。
「……おはよう。熱、下がったのか?」
「うん、おかげさまで。昨日は迷惑かけてごめんね」
彼女はコーヒーカップを口に運びながら、事も無げに言った。
あまりにもあっさりしている。
昨夜、俺の手首を掴んで「行かないで」と懇願したあの姿は、俺の妄想だったんじゃないかと疑いたくなるほどだ。
俺はおそるおそる、確信に触れてみることにした。
「なぁ、昨日の夜のこと、覚えてるか?」
「ん? 何かあったっけ?」
玲奈が小首を傾げる。
その表情に、嘘をついているような動揺は見当たらない。
「何か……うわ言とか言ってた?」
「……いや。別に」
俺は言葉を飲み込んだ。
「契約なんてどうでもいい」と、お前は言ったんだぞ。
そう喉まで出かかったが、言えなかった。
もし、本当に覚えていないのなら、蒸し返すのは野暮だ。
あるいは、覚えていてとぼけているなら――それは、あの言葉を取り消したいという意思表示かもしれない。
ズキリ、と胸が痛む。
勝手に期待して、勝手に裏切られた気分だ。
俺はブラックコーヒーを流し込み、苦味で思考を誤魔化した。
大学への通学路。
二人の間には、微妙な距離があった。
手も繋がない。会話もない。
ただ、並んで歩くだけ。
でも、俺は気づいていた。
玲奈の歩くペースが、いつもよりわずかに遅いことに。
そして、時折、俺の袖口を掴もうとして、躊躇って手を引っ込める気配があることに。
(……なんだよ、それ)
期待させるなよ。
勘違いするだろ。
大学の正門が見えてきたところで、予想外の人物が立ちはだかった。
「あーっ! 健くん! 白石さん!」
橘彩香だ。
今日も今日とて、無駄に元気だ。
彼女は俺たちの前に飛び出すと、犬のようにクンクンと鼻を鳴らした。
「……ん? あれぇ?」
彩香の目が、俺と玲奈を交互に見る。
そして、ニヤリと口角を上げた。
「二人とも、同じ匂いがする」
「っ!?」
俺と玲奈の体が同時に強張る。
シャンプーだ。
昨夜、結局俺は玲奈のシャンプーを借りて風呂に入ったし、玲奈も……いや、待て。これはまずい。
「同じ家から来たんだから、当然でしょ」
玲奈が冷静に切り返す。
声は震えていない。さすがだ。
「へえー、そっかー。シェアハウスだもんねー」
彩香は納得したように頷くが、その瞳は全く笑っていない。
探るような、値踏みするような視線。
「でもさ、なんか雰囲気変わったね」
「え?」
「前までは『仕方なく一緒にいます』って感じだったのに……今はなんか、『言葉にしなくても通じ合ってます』みたいな空気出てるよ?」
彩香の鋭い指摘。
心臓が大きな音を立てる。
「……気のせいよ。行きましょ、健」
玲奈が俺の腕を取った。
強引に引っ張るその力強さに、俺は昨夜の手首を掴む感触を思い出した。
すれ違いざま、彩香がボソッと呟いたのが聞こえた。
「……余裕ぶってられるのも、今のうちだからね」
振り返ると、彩香はもういつもの明るい笑顔で、他の友達に手を振っていた。
だが、その背中には、明らかな宣戦布告の気配が漂っていた。
講義室に向かう廊下。
玲奈は俺の腕を離さなかった。
周囲の目があるのに。
むしろ、見せつけるように。
「……おい、玲奈。みんな見てるぞ」
「いいのよ」
彼女は前を向いたまま、ぽつりと言った。
「契約でしょ? 仲良くしてなきゃ、怪しまれるわ」
その耳が、真っ赤に染まっているのを、俺は見逃さなかった。
――嘘つき。
お前、絶対に昨日のこと覚えてるだろ。
その確信は、俺の中にあった「微熱」を、再び燃え上がらせるには十分すぎた。
(続く)
キッチンからトーストが焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
コーヒーメーカーがコポコポと音を立てている。
そして、ダイニングテーブルには、完璧に身支度を整えた白石玲奈が座っていた。
「あ、起きた? おはよう」
玲奈はスマホから目を離さず、さらりと挨拶をした。
昨夜の熱に浮かされた表情はどこにもない。
涼しげな目元、整った姿勢、そして冷ややかな声のトーン。
いつもの“氷の女王”だ。
「……おはよう。熱、下がったのか?」
「うん、おかげさまで。昨日は迷惑かけてごめんね」
彼女はコーヒーカップを口に運びながら、事も無げに言った。
あまりにもあっさりしている。
昨夜、俺の手首を掴んで「行かないで」と懇願したあの姿は、俺の妄想だったんじゃないかと疑いたくなるほどだ。
俺はおそるおそる、確信に触れてみることにした。
「なぁ、昨日の夜のこと、覚えてるか?」
「ん? 何かあったっけ?」
玲奈が小首を傾げる。
その表情に、嘘をついているような動揺は見当たらない。
「何か……うわ言とか言ってた?」
「……いや。別に」
俺は言葉を飲み込んだ。
「契約なんてどうでもいい」と、お前は言ったんだぞ。
そう喉まで出かかったが、言えなかった。
もし、本当に覚えていないのなら、蒸し返すのは野暮だ。
あるいは、覚えていてとぼけているなら――それは、あの言葉を取り消したいという意思表示かもしれない。
ズキリ、と胸が痛む。
勝手に期待して、勝手に裏切られた気分だ。
俺はブラックコーヒーを流し込み、苦味で思考を誤魔化した。
大学への通学路。
二人の間には、微妙な距離があった。
手も繋がない。会話もない。
ただ、並んで歩くだけ。
でも、俺は気づいていた。
玲奈の歩くペースが、いつもよりわずかに遅いことに。
そして、時折、俺の袖口を掴もうとして、躊躇って手を引っ込める気配があることに。
(……なんだよ、それ)
期待させるなよ。
勘違いするだろ。
大学の正門が見えてきたところで、予想外の人物が立ちはだかった。
「あーっ! 健くん! 白石さん!」
橘彩香だ。
今日も今日とて、無駄に元気だ。
彼女は俺たちの前に飛び出すと、犬のようにクンクンと鼻を鳴らした。
「……ん? あれぇ?」
彩香の目が、俺と玲奈を交互に見る。
そして、ニヤリと口角を上げた。
「二人とも、同じ匂いがする」
「っ!?」
俺と玲奈の体が同時に強張る。
シャンプーだ。
昨夜、結局俺は玲奈のシャンプーを借りて風呂に入ったし、玲奈も……いや、待て。これはまずい。
「同じ家から来たんだから、当然でしょ」
玲奈が冷静に切り返す。
声は震えていない。さすがだ。
「へえー、そっかー。シェアハウスだもんねー」
彩香は納得したように頷くが、その瞳は全く笑っていない。
探るような、値踏みするような視線。
「でもさ、なんか雰囲気変わったね」
「え?」
「前までは『仕方なく一緒にいます』って感じだったのに……今はなんか、『言葉にしなくても通じ合ってます』みたいな空気出てるよ?」
彩香の鋭い指摘。
心臓が大きな音を立てる。
「……気のせいよ。行きましょ、健」
玲奈が俺の腕を取った。
強引に引っ張るその力強さに、俺は昨夜の手首を掴む感触を思い出した。
すれ違いざま、彩香がボソッと呟いたのが聞こえた。
「……余裕ぶってられるのも、今のうちだからね」
振り返ると、彩香はもういつもの明るい笑顔で、他の友達に手を振っていた。
だが、その背中には、明らかな宣戦布告の気配が漂っていた。
講義室に向かう廊下。
玲奈は俺の腕を離さなかった。
周囲の目があるのに。
むしろ、見せつけるように。
「……おい、玲奈。みんな見てるぞ」
「いいのよ」
彼女は前を向いたまま、ぽつりと言った。
「契約でしょ? 仲良くしてなきゃ、怪しまれるわ」
その耳が、真っ赤に染まっているのを、俺は見逃さなかった。
――嘘つき。
お前、絶対に昨日のこと覚えてるだろ。
その確信は、俺の中にあった「微熱」を、再び燃え上がらせるには十分すぎた。
(続く)
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