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第25話 夏休みと帰省の誘惑
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七月の終わり。
テスト期間が終わった大学のキャンパスは、茹だるような熱気と、どこか浮ついた開放感に包まれていた。
アスファルトが陽炎で揺らめいている。
蝉の声が遠くで響き、余計に暑さを助長する午後のことだ。
俺、藤堂健は、学食の窓際で炭酸水を飲んでいた。
グラスの表面についた水滴が、指を伝ってテーブルに落ちる。
その隣には、当然のように白石玲奈がいる。
「……暑い」
「そうだな」
「健、溶けそう」
「俺はアイスじゃないぞ」
玲奈はテーブルに突っ伏したまま、上目遣いで俺を見ている。
長い睫毛がけだるげに瞬く。
彼女の白い肌は、汗ひとつかいていないように見えるが、近づくと甘い香りが漂ってくる。シャンプーの匂いと、彼女自身の体温が混ざったような、独特の匂い。
あの「一生恋人契約」から一ヶ月。
俺たちの関係は、周囲が呆れるほど安定していた。
大学公認のバカップル。
誰もがそう呼ぶし、俺もおそらくそう思われていることを否定しない。
むしろ、そのレッテルが心地よかった。他人を寄せ付けないための、強力な結界のように機能しているからだ。
「ねえ、健」
「ん?」
「夏休み、どうするの?」
玲奈が指先で、俺の腕をツーとなぞる。
肘の内側、血管が浮き出ているあたりを、冷たい指先が這う。
その仕草だけで、背筋がゾクリとする。
最近の彼女は、スキンシップのハードルが下がっているというか、リミッターが外れている。
学食だろうが路上だろうが、隙あらば触れてくるのだ。まるで、俺の感触を常に確かめていないと不安になる幼児のように。
「特に予定はないけど……バイトかな。PC買い換えたいし」
「ダメ」
「即答かよ」
「せっかくの夏休みだよ? 大学生だよ? 恋人らしく、どこか行きたい」
玲奈が身体を起こし、身を乗り出してきた。
涼しげな目元が、今は熱を帯びている。
彼女の「行きたい」は、単なる願望ではない。決定事項の通達だ。
「……例えば?」
「実家」
「えっ」
予想外の言葉に、俺は動きを止めた。
炭酸の気泡がパチパチと弾ける音だけが聞こえる。
実家。
俺たちの地元は、ここから新幹線で二時間の地方都市だ。
山に囲まれた盆地で、夏は蒸し暑く、冬は底冷えする。
俺も玲奈も、その閉鎖的な空気が肌に馴染んでいる。
「帰省……か。まあ、盆には帰るつもりだったけど」
「じゃあ、一緒に帰ろ?」
「一緒にか」
「うん。……ダメ?」
玲奈が瞳を潤ませて首を傾げる。
破壊力抜群の「おねだり」だ。
完璧な計算の下に繰り出される表情だと分かっていても、俺の脳は「拒否」という選択肢を削除してしまう。
チョロいと言われればそれまでだが、彼女のこの顔を見て断れる男がいるなら連れてきてほしい。
「……分かったよ。一緒に帰ろう」
「やった」
玲奈はぱあっと笑顔になり、学食のベンチで俺の首に腕を回した。
柔らかな胸が押し付けられる感触。
周囲の男子学生から「爆発しろ」という怨嗟の視線が突き刺さるが、今の俺にはそれすら優越感のスパイスだ。
だが。
俺は気づいていなかった。
玲奈の笑顔の奥にある、ほんの少しの「影」に。
彼女の瞳の奥が一瞬だけ、暗く、深く淀んだことに。
「楽しみね、健」
彼女は俺の耳元で囁いた。
吐息が鼓膜を震わせる。
「あの待ち合わせ場所も、あの神社も、通学路も……全部、二人で回ろうね」
「ああ、懐かしいな。あそこの自販機、まだあるかな」
「うん。……全部、上書きしなきゃ」
「え?」
最後の一言が、よく聞こえなかった。
蝉の声にかき消されたのか、それとも彼女が意図的に音量を絞ったのか。
「何でもない。……ふふ、早く帰りたいな。私たちだけの場所に」
玲奈は俺の胸に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
その吐息は熱く、まるで何かを確かめるように重かった。
Tシャツ越しに伝わる彼女の体温は、夏の暑さよりもずっと高く、俺の心臓まで侵食してくるようだった。
そうして俺たちの夏休みは始まった。
それは、甘い蜜月であると同時に、俺が知らなかった「彼女の真実」に触れる旅でもあったのだ。
逃げ場のない故郷で、俺たちは本当の意味で「共犯者」になる。
その序章のベルが、今はまだ遠くで鳴っているだけだった。
テスト期間が終わった大学のキャンパスは、茹だるような熱気と、どこか浮ついた開放感に包まれていた。
アスファルトが陽炎で揺らめいている。
蝉の声が遠くで響き、余計に暑さを助長する午後のことだ。
俺、藤堂健は、学食の窓際で炭酸水を飲んでいた。
グラスの表面についた水滴が、指を伝ってテーブルに落ちる。
その隣には、当然のように白石玲奈がいる。
「……暑い」
「そうだな」
「健、溶けそう」
「俺はアイスじゃないぞ」
玲奈はテーブルに突っ伏したまま、上目遣いで俺を見ている。
長い睫毛がけだるげに瞬く。
彼女の白い肌は、汗ひとつかいていないように見えるが、近づくと甘い香りが漂ってくる。シャンプーの匂いと、彼女自身の体温が混ざったような、独特の匂い。
あの「一生恋人契約」から一ヶ月。
俺たちの関係は、周囲が呆れるほど安定していた。
大学公認のバカップル。
誰もがそう呼ぶし、俺もおそらくそう思われていることを否定しない。
むしろ、そのレッテルが心地よかった。他人を寄せ付けないための、強力な結界のように機能しているからだ。
「ねえ、健」
「ん?」
「夏休み、どうするの?」
玲奈が指先で、俺の腕をツーとなぞる。
肘の内側、血管が浮き出ているあたりを、冷たい指先が這う。
その仕草だけで、背筋がゾクリとする。
最近の彼女は、スキンシップのハードルが下がっているというか、リミッターが外れている。
学食だろうが路上だろうが、隙あらば触れてくるのだ。まるで、俺の感触を常に確かめていないと不安になる幼児のように。
「特に予定はないけど……バイトかな。PC買い換えたいし」
「ダメ」
「即答かよ」
「せっかくの夏休みだよ? 大学生だよ? 恋人らしく、どこか行きたい」
玲奈が身体を起こし、身を乗り出してきた。
涼しげな目元が、今は熱を帯びている。
彼女の「行きたい」は、単なる願望ではない。決定事項の通達だ。
「……例えば?」
「実家」
「えっ」
予想外の言葉に、俺は動きを止めた。
炭酸の気泡がパチパチと弾ける音だけが聞こえる。
実家。
俺たちの地元は、ここから新幹線で二時間の地方都市だ。
山に囲まれた盆地で、夏は蒸し暑く、冬は底冷えする。
俺も玲奈も、その閉鎖的な空気が肌に馴染んでいる。
「帰省……か。まあ、盆には帰るつもりだったけど」
「じゃあ、一緒に帰ろ?」
「一緒にか」
「うん。……ダメ?」
玲奈が瞳を潤ませて首を傾げる。
破壊力抜群の「おねだり」だ。
完璧な計算の下に繰り出される表情だと分かっていても、俺の脳は「拒否」という選択肢を削除してしまう。
チョロいと言われればそれまでだが、彼女のこの顔を見て断れる男がいるなら連れてきてほしい。
「……分かったよ。一緒に帰ろう」
「やった」
玲奈はぱあっと笑顔になり、学食のベンチで俺の首に腕を回した。
柔らかな胸が押し付けられる感触。
周囲の男子学生から「爆発しろ」という怨嗟の視線が突き刺さるが、今の俺にはそれすら優越感のスパイスだ。
だが。
俺は気づいていなかった。
玲奈の笑顔の奥にある、ほんの少しの「影」に。
彼女の瞳の奥が一瞬だけ、暗く、深く淀んだことに。
「楽しみね、健」
彼女は俺の耳元で囁いた。
吐息が鼓膜を震わせる。
「あの待ち合わせ場所も、あの神社も、通学路も……全部、二人で回ろうね」
「ああ、懐かしいな。あそこの自販機、まだあるかな」
「うん。……全部、上書きしなきゃ」
「え?」
最後の一言が、よく聞こえなかった。
蝉の声にかき消されたのか、それとも彼女が意図的に音量を絞ったのか。
「何でもない。……ふふ、早く帰りたいな。私たちだけの場所に」
玲奈は俺の胸に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
その吐息は熱く、まるで何かを確かめるように重かった。
Tシャツ越しに伝わる彼女の体温は、夏の暑さよりもずっと高く、俺の心臓まで侵食してくるようだった。
そうして俺たちの夏休みは始まった。
それは、甘い蜜月であると同時に、俺が知らなかった「彼女の真実」に触れる旅でもあったのだ。
逃げ場のない故郷で、俺たちは本当の意味で「共犯者」になる。
その序章のベルが、今はまだ遠くで鳴っているだけだった。
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