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第4話:大晦日の年越しそば
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12月31日。
午後9時。
私は田中の住むアパートの前に立っていた。
築30年は経っていそうな、外壁の塗装が剥がれかけた2階建てのアパート。
インターホンを押すと、ピンポーンという間延びした音が鳴った。
「おう、開いてるぞ」
中から田中の声。
ドアを開けると、玄関には靴が散乱していた。
革靴、スニーカー、サンダル。
男の一人暮らしの匂いがした。
汗と、古い畳と、あと微かに柔軟剤の匂いが混ざったような、独特の生活臭。
「……掃除したって言ったじゃん」
靴を脱ぐ場所を探しながら文句を言う。
「したよ。見える範囲は」
田中が奥から顔を出した。
スウェット姿だ。
髪の毛が少しボサボサで、無精髭が生えている。
「お邪魔します」
部屋に上がる。
6畳一間。
万年床の布団が部屋の隅に押しやられていて、真ん中に小さなこたつがある。
テーブルの上には、スーパーの寿司パックと、缶ビールと、あと何故かスルメイカが置いてある。
「……所帯染みてるわね」
「うるせー。座れよ」
こたつに入る。
温かい。
外が寒かったから、この温もりが骨身に染みる。
こたつの天板にはコップの輪染みがいくつもついていて、歴史を感じさせる。
「紅白、誰だっけ今」
田中がテレビのリモコンを操作する。
画面には、知らない若手グループが踊っている。
「分からん。最近の曲、全部同じに聞こえる」
「それな」
老害トークで盛り上がりながら、ビールを開ける。
『プシュッ』
乾杯。
不思議だ。
夫といる時は、テレビの音がうるさく感じるのに、田中といるとBGMみたいに心地いい。
気を使わなくていいからか。
どう思われてもいい相手だからか。
「そば、作るか」
11時半を回った頃、田中が立ち上がった。
キッチンというより、廊下にある流し台みたいなスペースで、田中が鍋にお湯を沸かす。
スーパーで売ってる3玉100円のチルド麺。
袋を破る音が聞こえる。
「ネギ切って」
「人使い荒いな」
文句を言いながらも、包丁を握る。
まな板が少し黒ずんでいるのが気になったけど、見なかったことにした。
トントントン。
ネギを切る音。
お湯が沸騰する音。
換気扇の回る音。
なんか、昔の同棲時代を思い出すような懐かしさがあった。
相手は田中だけど。
出来上がったそばを、どんぶりに盛る。
器が揃ってなくて、私のはヤマザキ春のパン祭りの白い皿だ。
深さがないからつゆがこぼれそう。
「いただきます」
ズルズルとすする。
麺が柔らかすぎる。
つゆが濃い。
でも、温かい。
「……うまいな」
田中が言った。
「そう? 茹で過ぎよ」
「一人で食うよりうまいってことだよ」
田中が照れくさそうに七味をかける。
その横顔を見て、胸の奥が少しキュッとなった。
この人も、寂しかったんだな。
離婚して、子供と離れて、広い世界でたった一人、この古びたアパートで生きてるんだ。
「俺さ、離婚してから女と縁がなくて」
不意に田中が切り出した。
「マッチングアプリとかやったけど、全然ダメで。サクラばっかで」
「……でしょうね。そのプロフィール写真じゃ」
「うるせー。……でもさ、思うんだよ。もう一生一人かもなって」
田中の声が少し沈んだ。
テレビでは「ゆく年くる年」が始まって、除夜の鐘が鳴っている。
「……私もよ」
つられて本音が漏れた。
「夫はいるけど、心がいない。娘はいずれ出て行く。結局、残るのは私一人」
「……お互い、しんどいな」
「しんどいけど、生きてかなきゃなんないのよね」
『3、2、1……おめでとう!!』
テレビの中で歓声が上がった。
年が明けた。
「あけおめ」
「おめ」
二人で顔を見合わせて、缶ビールを掲げる。
その時だった。
「……ブッ」
私が吹き出した。
「なんだよ」
田中が怪訝な顔をする。
「……歯」
「あ?」
「ネギ、ついてる」
前歯のど真ん中に、鮮やかな緑色の小ネギが張り付いていた。
さっきのしんみりした空気が台無しだ。
「マジか」
田中が慌てて指で取る。
「……取れた?」
「うん。でも、なんかもういいや」
「何が?」
「ロマンチックとか、雰囲気とか。やっぱ無理だわ、私らには」
お腹を抱えて笑った。
涙が出るほど笑った。
田中もつられて笑った。
「違いねえ」
こたつの上のスルメイカをかじりながら、私たちは新年を迎えた。
色気もムードもない。
あるのはネギの挟まった歯と、安っぽいそばの味と、そして「一人じゃない」という確かな安堵感だけだった。
これが45歳のリアルな年越しなら、まあ悪くないかもしれない。
そう思いながら、私はもう一口、伸びたそばをすすった。
(つづく)
午後9時。
私は田中の住むアパートの前に立っていた。
築30年は経っていそうな、外壁の塗装が剥がれかけた2階建てのアパート。
インターホンを押すと、ピンポーンという間延びした音が鳴った。
「おう、開いてるぞ」
中から田中の声。
ドアを開けると、玄関には靴が散乱していた。
革靴、スニーカー、サンダル。
男の一人暮らしの匂いがした。
汗と、古い畳と、あと微かに柔軟剤の匂いが混ざったような、独特の生活臭。
「……掃除したって言ったじゃん」
靴を脱ぐ場所を探しながら文句を言う。
「したよ。見える範囲は」
田中が奥から顔を出した。
スウェット姿だ。
髪の毛が少しボサボサで、無精髭が生えている。
「お邪魔します」
部屋に上がる。
6畳一間。
万年床の布団が部屋の隅に押しやられていて、真ん中に小さなこたつがある。
テーブルの上には、スーパーの寿司パックと、缶ビールと、あと何故かスルメイカが置いてある。
「……所帯染みてるわね」
「うるせー。座れよ」
こたつに入る。
温かい。
外が寒かったから、この温もりが骨身に染みる。
こたつの天板にはコップの輪染みがいくつもついていて、歴史を感じさせる。
「紅白、誰だっけ今」
田中がテレビのリモコンを操作する。
画面には、知らない若手グループが踊っている。
「分からん。最近の曲、全部同じに聞こえる」
「それな」
老害トークで盛り上がりながら、ビールを開ける。
『プシュッ』
乾杯。
不思議だ。
夫といる時は、テレビの音がうるさく感じるのに、田中といるとBGMみたいに心地いい。
気を使わなくていいからか。
どう思われてもいい相手だからか。
「そば、作るか」
11時半を回った頃、田中が立ち上がった。
キッチンというより、廊下にある流し台みたいなスペースで、田中が鍋にお湯を沸かす。
スーパーで売ってる3玉100円のチルド麺。
袋を破る音が聞こえる。
「ネギ切って」
「人使い荒いな」
文句を言いながらも、包丁を握る。
まな板が少し黒ずんでいるのが気になったけど、見なかったことにした。
トントントン。
ネギを切る音。
お湯が沸騰する音。
換気扇の回る音。
なんか、昔の同棲時代を思い出すような懐かしさがあった。
相手は田中だけど。
出来上がったそばを、どんぶりに盛る。
器が揃ってなくて、私のはヤマザキ春のパン祭りの白い皿だ。
深さがないからつゆがこぼれそう。
「いただきます」
ズルズルとすする。
麺が柔らかすぎる。
つゆが濃い。
でも、温かい。
「……うまいな」
田中が言った。
「そう? 茹で過ぎよ」
「一人で食うよりうまいってことだよ」
田中が照れくさそうに七味をかける。
その横顔を見て、胸の奥が少しキュッとなった。
この人も、寂しかったんだな。
離婚して、子供と離れて、広い世界でたった一人、この古びたアパートで生きてるんだ。
「俺さ、離婚してから女と縁がなくて」
不意に田中が切り出した。
「マッチングアプリとかやったけど、全然ダメで。サクラばっかで」
「……でしょうね。そのプロフィール写真じゃ」
「うるせー。……でもさ、思うんだよ。もう一生一人かもなって」
田中の声が少し沈んだ。
テレビでは「ゆく年くる年」が始まって、除夜の鐘が鳴っている。
「……私もよ」
つられて本音が漏れた。
「夫はいるけど、心がいない。娘はいずれ出て行く。結局、残るのは私一人」
「……お互い、しんどいな」
「しんどいけど、生きてかなきゃなんないのよね」
『3、2、1……おめでとう!!』
テレビの中で歓声が上がった。
年が明けた。
「あけおめ」
「おめ」
二人で顔を見合わせて、缶ビールを掲げる。
その時だった。
「……ブッ」
私が吹き出した。
「なんだよ」
田中が怪訝な顔をする。
「……歯」
「あ?」
「ネギ、ついてる」
前歯のど真ん中に、鮮やかな緑色の小ネギが張り付いていた。
さっきのしんみりした空気が台無しだ。
「マジか」
田中が慌てて指で取る。
「……取れた?」
「うん。でも、なんかもういいや」
「何が?」
「ロマンチックとか、雰囲気とか。やっぱ無理だわ、私らには」
お腹を抱えて笑った。
涙が出るほど笑った。
田中もつられて笑った。
「違いねえ」
こたつの上のスルメイカをかじりながら、私たちは新年を迎えた。
色気もムードもない。
あるのはネギの挟まった歯と、安っぽいそばの味と、そして「一人じゃない」という確かな安堵感だけだった。
これが45歳のリアルな年越しなら、まあ悪くないかもしれない。
そう思いながら、私はもう一口、伸びたそばをすすった。
(つづく)
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