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第2話:カフェの隣席で、君のスケッチを覗いた
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私、結衣には週に一度のささやかな贅沢がある。
大学から歩いて十分ほどの『喫茶 待宵(まつよい)』。その窓際の席でスケッチブックを広げる時間だ。
古びた木のテーブル。少し煤けた照明。窓から差し込む優しい午後の光。
この空間は私の創作にとってなくてはならない場所だった。
彼を初めて意識したのもその場所だった。
彼もまたこの店の常連らしかった。いつも私と同じ窓際の一つ隣の席に座る。真面目そうなスーツ姿。眼鏡越しに活字を追う横顔。
何度も何度も、彼に話しかけるきっかけを作ろうとした。
でも、そのたびに躊躇した。
彼の作り出す静かな空気が好きだったから。その空気を壊したくないから。
それに、もし話しかけたら、彼は迷惑に思うかもしれない。
そういう臆病さから、私はいつもスケッチに没頭するふりをしながら、彼のページをめくる音に耳を澄ませていた。
その日も私たちはいつものように隣同士の席に座っていた。
私が描いていたのはこの喫茶店の風景。
コーヒーカップから立ち上る湯気を天に昇る竜のように。窓から差し込む光を床で踊る宝石のように。
現実に少しだけ空想を混ぜ込む。それが私の描き方だった。
ふと、気配を感じた。
視線。確かに、誰かの視線が私に向けられている。
顔を上げると、彼がじっと私のスケッチブックを見つめていた。
心臓がドクンと大きく跳ねる。
彼は慌てたように視線を逸らす。本に戻ろうとする。
でも、その瞬間、二人の目が合った。
彼も気づいてしまったんだ。覗かれてたことに。
彼の頬が、ほんのり赤くなった。
「あ、す、すみません……」
彼が言った。
「見てただけで……」
「大丈夫です」
私はそう返した。
実は、見られてることを知りながら、わざと気づかないふりをしていたことを、彼は知らない。
少しだけ、ずるい気分がした。
「あの、いつも素敵な絵を描かれていますね」
彼の声は低くて震えていた。
その声に、私の胸がきゅっと締め付けられた。
「ありがとうございます」
「見てました……というか、隣から、ついつい」
「いえ。むしろ、誰かに見てもらえるのって、嬉しいです」
そこから、ぎこちない会話が始まった。
彼が会計士であること。毎日数字と向き合っていること。
私が美大の学生であること。この喫茶店の光の入り方が好きでよくスケッチに来ること。
会話の流れは自然だったが、時々、沈黙が生まれた。
相手の背景を知るのは、思ったより緊張するものだった。
「あの……毎日数字ばっかり見てて」
私が話を続けようと、ちょっと無神経な質問をしてしまった。
「頭おかしくなったりしないんですか?」
彼は一瞬、驚いた顔をした。
その後、クスッと笑った。
「えっと……まあ……たまに」
「えっ、本当ですか」
「嘘です。でも、気持ちはわかります。毎日同じことやってると、時々……現実感がなくなったりします」
「あ、そういうことですか」
会話の中で、彼の現実味が増していった。
完璧な人じゃなくて。疲れてて。たまに冗談を言ったりする。
そういう不完全さが、親近感を生んだ。
夕日が窓から差し込み、部屋全体がオレンジ色に染まっていく。
時計を見るともうこんな時間。
「あ……そろそろ」
私はスケッチブックを閉じ始めた。
でも、本当は帰りたくなかった。
この人との時間を、もっと続けたかった。
その時だった。
「あの!」
彼の声が、私を呼び止めた。
私が振り返ると、彼は伝票を握りしめたまま、困ったように眉を下げていた。
夕日に照らされた顔が赤いのは、きっと気のせいじゃない。
「その……また、お会いできますか」
ストレートな言葉。でも、その声は少し震えていて、彼の緊張が痛いほど伝わってくる。
「はい。私、だいたい水曜日のこの時間には、ここにいるので」
「水曜日……」
彼は真剣な顔でその曜日を反芻した。
まるで重要な契約書の条文でも読み込むみたいに。
会計士なんだな、と、どうでもいいことを思った。
「じゃあ、来週の水曜も、ここに来ます。必ず」
その必死さが、かえって可愛らしく思えた。
「はい。お待ちしています」
彼はありったけの勇気を振り絞ったように、続けた。
「あの、もし……よかったら……その絵の続きを、見せてもらえませんか」
彼は私のスケッチブックに視線を落とす。
「あなたの描く世界を。もう少し、見てみたいんです」
「あなたの世界に入りたい」なんていう抽象的な言葉じゃない。
でも、彼の不器用な言葉の奥に、「あなた自身をもっと知りたい」という、誠実で切実な願いが透けて見えた。
数字という白黒の世界で生きる彼が、私の描くカラフルな空想の世界に、手を伸ばしてくれている。
そのことが、どうしようもなく、嬉しかった。
私は、夕日に負けないくらい顔を赤らめながら、精一杯の笑顔で答えた。
「はい。……私の世界で、よければ」
彼の顔が、パッと明るくなった。
その笑顔が、どんな作品よりも美しかった。
大学から歩いて十分ほどの『喫茶 待宵(まつよい)』。その窓際の席でスケッチブックを広げる時間だ。
古びた木のテーブル。少し煤けた照明。窓から差し込む優しい午後の光。
この空間は私の創作にとってなくてはならない場所だった。
彼を初めて意識したのもその場所だった。
彼もまたこの店の常連らしかった。いつも私と同じ窓際の一つ隣の席に座る。真面目そうなスーツ姿。眼鏡越しに活字を追う横顔。
何度も何度も、彼に話しかけるきっかけを作ろうとした。
でも、そのたびに躊躇した。
彼の作り出す静かな空気が好きだったから。その空気を壊したくないから。
それに、もし話しかけたら、彼は迷惑に思うかもしれない。
そういう臆病さから、私はいつもスケッチに没頭するふりをしながら、彼のページをめくる音に耳を澄ませていた。
その日も私たちはいつものように隣同士の席に座っていた。
私が描いていたのはこの喫茶店の風景。
コーヒーカップから立ち上る湯気を天に昇る竜のように。窓から差し込む光を床で踊る宝石のように。
現実に少しだけ空想を混ぜ込む。それが私の描き方だった。
ふと、気配を感じた。
視線。確かに、誰かの視線が私に向けられている。
顔を上げると、彼がじっと私のスケッチブックを見つめていた。
心臓がドクンと大きく跳ねる。
彼は慌てたように視線を逸らす。本に戻ろうとする。
でも、その瞬間、二人の目が合った。
彼も気づいてしまったんだ。覗かれてたことに。
彼の頬が、ほんのり赤くなった。
「あ、す、すみません……」
彼が言った。
「見てただけで……」
「大丈夫です」
私はそう返した。
実は、見られてることを知りながら、わざと気づかないふりをしていたことを、彼は知らない。
少しだけ、ずるい気分がした。
「あの、いつも素敵な絵を描かれていますね」
彼の声は低くて震えていた。
その声に、私の胸がきゅっと締め付けられた。
「ありがとうございます」
「見てました……というか、隣から、ついつい」
「いえ。むしろ、誰かに見てもらえるのって、嬉しいです」
そこから、ぎこちない会話が始まった。
彼が会計士であること。毎日数字と向き合っていること。
私が美大の学生であること。この喫茶店の光の入り方が好きでよくスケッチに来ること。
会話の流れは自然だったが、時々、沈黙が生まれた。
相手の背景を知るのは、思ったより緊張するものだった。
「あの……毎日数字ばっかり見てて」
私が話を続けようと、ちょっと無神経な質問をしてしまった。
「頭おかしくなったりしないんですか?」
彼は一瞬、驚いた顔をした。
その後、クスッと笑った。
「えっと……まあ……たまに」
「えっ、本当ですか」
「嘘です。でも、気持ちはわかります。毎日同じことやってると、時々……現実感がなくなったりします」
「あ、そういうことですか」
会話の中で、彼の現実味が増していった。
完璧な人じゃなくて。疲れてて。たまに冗談を言ったりする。
そういう不完全さが、親近感を生んだ。
夕日が窓から差し込み、部屋全体がオレンジ色に染まっていく。
時計を見るともうこんな時間。
「あ……そろそろ」
私はスケッチブックを閉じ始めた。
でも、本当は帰りたくなかった。
この人との時間を、もっと続けたかった。
その時だった。
「あの!」
彼の声が、私を呼び止めた。
私が振り返ると、彼は伝票を握りしめたまま、困ったように眉を下げていた。
夕日に照らされた顔が赤いのは、きっと気のせいじゃない。
「その……また、お会いできますか」
ストレートな言葉。でも、その声は少し震えていて、彼の緊張が痛いほど伝わってくる。
「はい。私、だいたい水曜日のこの時間には、ここにいるので」
「水曜日……」
彼は真剣な顔でその曜日を反芻した。
まるで重要な契約書の条文でも読み込むみたいに。
会計士なんだな、と、どうでもいいことを思った。
「じゃあ、来週の水曜も、ここに来ます。必ず」
その必死さが、かえって可愛らしく思えた。
「はい。お待ちしています」
彼はありったけの勇気を振り絞ったように、続けた。
「あの、もし……よかったら……その絵の続きを、見せてもらえませんか」
彼は私のスケッチブックに視線を落とす。
「あなたの描く世界を。もう少し、見てみたいんです」
「あなたの世界に入りたい」なんていう抽象的な言葉じゃない。
でも、彼の不器用な言葉の奥に、「あなた自身をもっと知りたい」という、誠実で切実な願いが透けて見えた。
数字という白黒の世界で生きる彼が、私の描くカラフルな空想の世界に、手を伸ばしてくれている。
そのことが、どうしようもなく、嬉しかった。
私は、夕日に負けないくらい顔を赤らめながら、精一杯の笑顔で答えた。
「はい。……私の世界で、よければ」
彼の顔が、パッと明るくなった。
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