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第9話:映画館の暗闇で、君の手を握った
しおりを挟む映画館が、好きだった。
大学生の頃から、週に一度は通っていた。最新作よりも、古いフィルム映像のような作品。モノクロの恋愛映画。そういった映画の中に、自分を失いたかった。
理由は、現実がつらかったから。
容姿に自信がない。口下手。女性経験ほぼなし。友人からも「陽介は映画の中の世界にいるからな」と笑われていた。
映画館の暗闇は、私を肯定してくれる唯一の場所だった。
その日も、いつもの木曜夜。古い映画館で、モノクロの恋愛映画を観ていた。
「失礼します」
隣の席に、誰かが座った。
暗闇の中では、その人の顔がはっきり見えない。ただ、女性だということは分かった。髪の香りが、そう教えていた。
映画が始まった。
その映画は、1950年代のフランス映画だった。
若い男と女が、パリの街で出会い、愛し、別れる。その過程を、二時間かけて描いた作品。ただし、二人は最後まで「手を握る」ことはなかった。
その代わり、ラストシーン。二人は、ベンチに座り、何も話さず、互いに手を近づける。
その手と手の間には、1ミリの距離がある。
でも、その距離が、愛を最も強く表現していた。
そのシーンを見た時。
私の手が、思わず、隣の席の人に近づいていた。
アームレストの上。
その人の指先に、私の手の甲が、触れた。
(しまった。セクハラだ)
だが、その人は、手を引かなかった。
むしろ、指を、私の手に絡めてきた。
映画の中では、モノクロの二人が、手の距離を縮めていた。
そして、私たちも。
暗闇の中で、私たちの指は、徐々に絡まっていった。
手のひらが、相手の手のひらに触れた。
その温もりは、映画の中の純情な恋よりも、ずっと、現実的だった。
映画が、終わった。
エンドロール。
その間も、私たちは手を離さなかった。
スクリーンの文字が、白く映し出される。その光の中で、相手の顔が、ようやく見えた。
眼鏡をかけた、落ち着いた表情の女性。
年は、同年代か少し上か。
エンドロールが終わり、場内の照明が点灯し始めた。
「あ……」
その女性が、思わず、声を上げた。
「ごめんなさい。映画に没入して、つい……」
彼女は、手を引こうとした。
だが、私は、その手を握り返した。
「僕も……この暗闇で、君の手を握れてよかった」
彼女は、黙っていた。
場内の明かりが、徐々に増えていく。
その明かりの中で、彼女の顔が、次第に見えていった。
頬が、赤くなっている。
目が、僅かに潤んでいる。
「私も……」
か細い声。
「私も、この暗闇が好きで。毎週、来てました。そして、あなたも、毎週、この席に座ってるのを見てました」
その言葉に、私は驚いた。
つまり、彼女も、この映画館に通っていた。そして、私に気づいていた。
「だから……この暗闇で、いつか、あなたの手を握りたくて」
映画館の照明が、完全に点灯した。
明るい現実の中で、彼女の顔が、はっきり見えた。
眼鏡の奥の瞳は、温かさに満ちていた。
その後、私たちは、毎週、同じ座席で会った。
映画は、何でもいいことになった。恋愛映画でなくてもいい。ホラー映画でも、アクション映画でもいい。
ただ、その暗闇の中で、手を握ることが、目的になっていた。
一年後。
古い映画館で、新しい恋愛映画が上映された。
その映画は、1950年代のモノクロ映画のリマスター版だった。
私たちは、同じ座席で、その映画を観た。
ラストシーン。モノクロの二人が、手の距離を縮める。
その時、彼女は、私にそっと近づき、耳打ちした。
「この先も、ずっと、手を握っていてくれますか?」
私は、答えた。
「ずっと」
映画館の暗闇は、もう逃げ場ではなくなった。
それは、君との「約束の場所」に変わっていた。
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