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第20話:ジムのランニングで、君のペースに合わせた
しおりを挟むトレッドミルのデジタル表示が、無慈悲に消費カロリーを刻んでいく。
息が上がり、汗が顎を伝う。もう限界だ。そう思った時、隣のマシンで軽快な足音が聞こえた。
ちらりと視線を送ると、ポニーテールがリズミカルに揺れている。いつも同じ時間に見かける女性。彼女の走るフォームは、まるでアスリートのように無駄がなく、美しい。
それに引き換え、俺のフォームは、溺れている人間みたいだ。友人に笑われたことを思い出す。
彼女の世界には、イヤホンから流れる音楽と、マシンの駆動音しかないのだろう。俺の存在など気にも留めていないはずだ。
それが少しだけ、悔しい。
せめて、彼女と同じ時間だけでも走りきってやろう。そう意地になって、速度を上げるボタンに手を伸ばした。
数週間が経った。
毎週同じ曜日の同じ時間。隣のマシンが空いていると、胸がバクバクした。
ある日、彼女がマシンから降りた後、声をかけられた。
「いつも同じ時間ですね」
「あ……はい」
驚いた。気づいてくれていたんだ。
「私も。習慣になっちゃって」
彼女が笑う。その笑顔を見た時、息が止まりそうになった。
彼女は汗をかいた顔が健康的だ。キラキラとした瞳。柔らかい声。
「走るの好きですか?」
「あ、まあまあ。でも……」
言葉が出ない。彼女の方を見ていると、自分がどれほど情けないか思い知らされる。
「でも?」
「いや、続けるのって……難しいですよね」
彼女は少し首を傾げた。
「あ、そっか。一人だと飽きちゃうんですか?」
「……そうですね」
その時だった。彼女が提案してきたのは。
「じゃあ一緒に走りませんか? 同じペースで」
その一言で、人生が変わった。
それから毎週、俺たちは隣同士のマシンで走るようになった。同じスピード、同じ時間。
最初は彼女のペースに合わせるのが大変だった。彼女は速い。俺は足が重い。
だが慣れてくると、その苦しみが心地よくなった。彼女と一緒に走っているというそれだけで、辛い運動が楽しくなる。不思議だった。
「いい感じですね」
彼女が横を見ながら笑う。
走りながら会話はできないけど、時々目が合う。その瞬間、世界が止まる。
俺は彼女のために走っているんだ。そう気づいた。
数ヶ月が経ち、俺の体力も変わった。彼女のペースにしっかりついていける。
「すごい。速くなりましたね」
彼女が驚く。
その一言が、俺はこれ以上にない褒美だった。
「これは、彼女さんのおかげです」
「そんな。私は励ましてただけで」
「違います。彼女さんがいるから。だから頑張れるんです」
彼女は少し赤くなった。それが可愛かった。
それから俺たちはランニング後、プロテインバーで休憩するようになった。汗を拭きながら、他愛ない話をする。
彼女の笑顔を見るのが楽しみになった。ジムに行くのが苦じゃなくなった。むしろ、週のハイライトになった。
ある日、彼女がいつもより遅いペースで走っていた。
いつもの軽快さがない。顔も少し曇っている。
マシンから降りた時、彼女が言った。
「ごめんなさい。疲れてて。仕事が忙しくて」
その時、俺は迷わずボタンを操作した。速度を落とす。
彼女のペースに合わせるため。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「今日はゆっくり行きましょう」
彼女は驚いた顔をした。
「いいんですか?」
「もちろん。大切なのはペースじゃなくて、一緒に走ることですから」
彼女の目が潤んだ。
その瞬間、俺は気づいた。この人のためなら、ペースなんて関係ないんだ。速さも、記録も、何もかもが些末に思えた。
俺たちはゆっくり走った。いつもの半分の速度。
だが、それが心地よかった。彼女の横顔を時々見ながら。
走り終わった後、彼女が言った。
「ありがとう。優しいですね」
「当たり前ですよ」
「当たり前じゃないです。みんな自分のペースで走るから」
彼女が俯く。汗が額から落ちる。
「でも、あなたは私に合わせてくれた。……嬉しかった」
その言葉に、俺の心臓が激しく跳ねた。
「優子さん」
「え?」
俺は彼女の手を取った。
「僕も。ずっとあなたと走りたかったんです。同じペースで。違う時も。いつでも」
「え……?」
「ランニングだけじゃなくて。人生も」
「人生?」
「優子さんが疲れてる時はゆっくり走る。元気な時は一緒に速く走る。そういうふうに」
彼女の涙がこぼれた。
「ずっと隣で。ペースを合わせて。一緒に走りたい」
彼女は頷いた。言葉は出ず、ただ頷いた。
「私も……ずっとあなたと走りたかった」
その時、ジムのマシンの周りには、何人かが微かに微笑んで見ていた。
俺たちは抱き合った。汗まみれのまま。
きっと周りからは変に見えただろう。だが、構わなかった。
この瞬間、この感覚は、どんなマラソンの完走よりも心地よかった。
これからも一緒に走ろう。人生のマラソンを。
君のペースが僕のペース。
ずっと隣で。
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