【告白短編集】~どこにでもある日常の中に、最高の愛が隠れている~

月下花音

文字の大きさ
20 / 48

第20話:ジムのランニングで、君のペースに合わせた

しおりを挟む

トレッドミルのデジタル表示が、無慈悲に消費カロリーを刻んでいく。

息が上がり、汗が顎を伝う。もう限界だ。そう思った時、隣のマシンで軽快な足音が聞こえた。

ちらりと視線を送ると、ポニーテールがリズミカルに揺れている。いつも同じ時間に見かける女性。彼女の走るフォームは、まるでアスリートのように無駄がなく、美しい。

それに引き換え、俺のフォームは、溺れている人間みたいだ。友人に笑われたことを思い出す。

彼女の世界には、イヤホンから流れる音楽と、マシンの駆動音しかないのだろう。俺の存在など気にも留めていないはずだ。

それが少しだけ、悔しい。

せめて、彼女と同じ時間だけでも走りきってやろう。そう意地になって、速度を上げるボタンに手を伸ばした。

数週間が経った。

毎週同じ曜日の同じ時間。隣のマシンが空いていると、胸がバクバクした。

ある日、彼女がマシンから降りた後、声をかけられた。

「いつも同じ時間ですね」

「あ……はい」

驚いた。気づいてくれていたんだ。

「私も。習慣になっちゃって」

彼女が笑う。その笑顔を見た時、息が止まりそうになった。

彼女は汗をかいた顔が健康的だ。キラキラとした瞳。柔らかい声。

「走るの好きですか?」

「あ、まあまあ。でも……」

言葉が出ない。彼女の方を見ていると、自分がどれほど情けないか思い知らされる。

「でも?」

「いや、続けるのって……難しいですよね」

彼女は少し首を傾げた。

「あ、そっか。一人だと飽きちゃうんですか?」

「……そうですね」

その時だった。彼女が提案してきたのは。

「じゃあ一緒に走りませんか? 同じペースで」

その一言で、人生が変わった。

それから毎週、俺たちは隣同士のマシンで走るようになった。同じスピード、同じ時間。

最初は彼女のペースに合わせるのが大変だった。彼女は速い。俺は足が重い。

だが慣れてくると、その苦しみが心地よくなった。彼女と一緒に走っているというそれだけで、辛い運動が楽しくなる。不思議だった。

「いい感じですね」

彼女が横を見ながら笑う。

走りながら会話はできないけど、時々目が合う。その瞬間、世界が止まる。

俺は彼女のために走っているんだ。そう気づいた。

数ヶ月が経ち、俺の体力も変わった。彼女のペースにしっかりついていける。

「すごい。速くなりましたね」

彼女が驚く。

その一言が、俺はこれ以上にない褒美だった。

「これは、彼女さんのおかげです」

「そんな。私は励ましてただけで」

「違います。彼女さんがいるから。だから頑張れるんです」

彼女は少し赤くなった。それが可愛かった。

それから俺たちはランニング後、プロテインバーで休憩するようになった。汗を拭きながら、他愛ない話をする。

彼女の笑顔を見るのが楽しみになった。ジムに行くのが苦じゃなくなった。むしろ、週のハイライトになった。

ある日、彼女がいつもより遅いペースで走っていた。

いつもの軽快さがない。顔も少し曇っている。

マシンから降りた時、彼女が言った。

「ごめんなさい。疲れてて。仕事が忙しくて」

その時、俺は迷わずボタンを操作した。速度を落とす。

彼女のペースに合わせるため。

「大丈夫ですか?」

「え?」

「今日はゆっくり行きましょう」

彼女は驚いた顔をした。

「いいんですか?」

「もちろん。大切なのはペースじゃなくて、一緒に走ることですから」

彼女の目が潤んだ。

その瞬間、俺は気づいた。この人のためなら、ペースなんて関係ないんだ。速さも、記録も、何もかもが些末に思えた。

俺たちはゆっくり走った。いつもの半分の速度。

だが、それが心地よかった。彼女の横顔を時々見ながら。

走り終わった後、彼女が言った。

「ありがとう。優しいですね」

「当たり前ですよ」

「当たり前じゃないです。みんな自分のペースで走るから」

彼女が俯く。汗が額から落ちる。

「でも、あなたは私に合わせてくれた。……嬉しかった」

その言葉に、俺の心臓が激しく跳ねた。

「優子さん」

「え?」

俺は彼女の手を取った。

「僕も。ずっとあなたと走りたかったんです。同じペースで。違う時も。いつでも」

「え……?」

「ランニングだけじゃなくて。人生も」

「人生?」

「優子さんが疲れてる時はゆっくり走る。元気な時は一緒に速く走る。そういうふうに」

彼女の涙がこぼれた。

「ずっと隣で。ペースを合わせて。一緒に走りたい」

彼女は頷いた。言葉は出ず、ただ頷いた。

「私も……ずっとあなたと走りたかった」

その時、ジムのマシンの周りには、何人かが微かに微笑んで見ていた。

俺たちは抱き合った。汗まみれのまま。

きっと周りからは変に見えただろう。だが、構わなかった。

この瞬間、この感覚は、どんなマラソンの完走よりも心地よかった。

これからも一緒に走ろう。人生のマラソンを。

君のペースが僕のペース。

ずっと隣で。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

盗み聞き

凛子
恋愛
あ、そういうこと。

危険な残業

詩織
恋愛
いつも残業の多い奈津美。そこにある人が現れいつもの残業でなくなる

一夏の性体験

風のように
恋愛
性に興味を持ち始めた頃に訪れた憧れの年上の女性との一夜の経験

心のすきまに【社会人恋愛短編集】

山田森湖
恋愛
仕事に追われる毎日、でも心のすきまに、あの人の存在が忍び込む――。 偶然の出会い、初めての感情、すれ違いのもどかしさ。 大人の社会人恋愛を描いた短編集です。

処理中です...