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第21話:遠距離の電話で、君の声を待った
しおりを挟む大学の同期で付き合い始めたのが、秋だった。
彼女の香織は、四月から大阪への転勤が決まっていた。
知ったのは、付き合って三ヶ月後。クリスマスの夜だった。彼女が勇気を出して、手を握りながら告げた。
「ごめん。三ヶ月も付き合ってから言う」
「転勤、決まってるのか」
「四月から。営業所の立て替えで、二年間」
その言葉を聞いた瞬間、世界が止まった。二年。この距離を二年間。
「別れた方がいいのか?」と聞いた。自分を守るためだった。
彼女は首を振った。
「別れたくない。でも、君の気持ちを無視することはできない。だから、決めるのは君だ」
彼女の表情は揺らいでいなかった。初めて気づいた。彼女も、覚悟して、この言葉を待っていたんだ。
「香織。俺は……」
「君の気持ち、聞かせてくれるまで、俺は待つ」
その瞬間、僕は決めた。
「付き合う。離れても、ずっと付き合う」
転勤まで残り三ヶ月。
二人で毎晩を過ごした。
居酒屋の角のテーブル。公園のベンチ。渋谷の夜景が見えるビル。
その場所で、彼女の手を握り、顔を見て、声を聞いた。「今この時間を逃したら、二度と戻らない」そんな必死さで。
彼女も同じだったのか、いつもより体を寄せてきた。
「ずっと一緒にいたい」
香織が、何度も呟いた。
僕も、その言葉を何度も聞き返した。
転勤初日。
朝、空港に彼女を見送った。
「八時に、電話する」
彼女が約束した。
「待ってる」
僕は言った。
その日の朝から、僕の時間は、「八時」という目印によって分割されるようになった。
転勤から一週間。
初日の電話。彼女の声は、涙で震えていた。
「大阪、着いた。でも……」
「でも?」
「君がいない」
その言葉で、僕も泣いた。
電話を切った後、何もできなかった。
朝までスマートフォンを握りしめていた。
転勤から一ヶ月。
毎日、八時に電話がかかってくる。
その時間だけが、生きている実感だった。
朝、起きて。会社に行って。帰ってくる。全ては「八時の電話」のための時間だった。
彼女の声を聞く三十分間以外に、命を感じられなかった。
「疲れた?」
「疲れた」
「明日も頑張ろう」
「君の声があれば、頑張れる」
毎晩の同じやりとり。だが、それが、僕の心を保つ、唯一の術だった。
ある晩。
いつもの時間に、電話がかかってこなかった。
九時。十時。十一時。
画面を見つめ続けた。
心臓が、ドクドクと高鳴っていた。
(仕事が長引いたのか。別れを切り出すための勇気を、ためているのか)
翌朝。メールが来た。
「ごめん。昨夜は仕事で、そのまま寝てしまった」
「大丈夫。気にしないで」と返信した。
だが、その一晩の不安は、消えなかった。
彼女の声がなければ、生きている実感がない。
それほどまでに、僕は彼女に依存していたんだ。
転勤から二ヶ月。
「電話、できない日が出てくると思う」
彼女がある晩、言った。
「新プロジェクトに配属されて。残業が増えるんだ」
「そっか」
「ごめん。でも、君のことは毎日考える」
「俺も」
「だから、電話がかからない日があっても、怒らないでくれ。待ってくれ」
「分かった。待つ」
その後、彼女の電話は、週に三日ほどになった。
月曜。水曜。金曜。
不規則になった。
その不規則さが、より一層、彼女を恋しくさせた。
もしかして今日は来ない。そう思うたびに、八時が来ると、彼女の声が聞こえた。
転勤から三ヶ月。
クリスマスイブ。
彼女から、六時の電話があった。
「今日は、ホテルで一人で過ごしてる」
「何か、やる?」
「ケーキを食べるから、電話してくれない?」
「いいよ」
八時。
予定より遅れて、彼女から電話がかかってきた。
「ごめん、遅くなった」
「気にしないで。ケーキ、食べてる?」
「食べてる。一口、君にあげたい」
画面越しでも、彼女の笑顔が伝わってきた。
電話を続けた。一時間。二時間。
朝まで。
彼女の声を聞きながら、僕も朝日が出るのを待った。
転勤から六ヶ月。
何度も、別れることを考えた。
この苦しさから逃げ出したかった。彼女のいない毎日を生きることは、こんなに辛いのか。
ある晩。
八時になっても、電話がなかった。
九時。
電話がなかった。
「香織、大丈夫か」と、メールを送った。
返信は、夜中の二時だった。
「ごめん。仕事でずっと……。今、終わった。疲れた」
彼女の文字列が、震えているように見えた。
その時、初めて気づいた。
彼女も、同じだけ、苦しんでいるんだ。
むしろ、大阪で、一人で、この距離を支えているのは、彼女だ。
「香織。もし、辛かったら、言ってくれ」
「辛い。すごく」
その正直な返信を見て、僕は決めた。
「でも、君がいるから、頑張れる」
「俺も。香織がいるから、生きてられる」
その夜、二人で泣いた。
転勤から一年。
彼女から提案が来た。
「月に一度、会いに来ない?」
「本当に?」
「本当。新幹線で、三時間。月に一度なら、できると思う」
その月から、毎月一度、彼女に会いに大阪へ向かった。
新幹線の中で、心臓が高鳴った。
ホテルの一室で、二人は一時間、何も言わず、抱き合った。
だが、その時間の方が、辛かった。
別れの時間が来るのが、怖かった。
駅で彼女と別れるたびに、僕は歩くことができなくなった。
帰りの新幹線の中で、毎回、泣いた。
転勤から一年半。
「まだ、頑張れる?」
彼女が聞いた。
「頑張れる。君がいるなら」
「でも、辛いでしょ。月に一度の別れ」
「辛い。でも、それ以上に、君に会える喜びの方が、大きい」
「そっか」
彼女の声は、弱かった。
「香織。何か、あるのか」
「ううん。何もない。ただ……」
「ただ?」
「やっぱり、毎日、一緒にいたい」
「俺も。だから、もう少し」
「もう少し」
その言葉を、何度も反復した。
転勤から三年。
ある晩の電話で、彼女が言った。
「転勤、東京に戻されることになった」
僕は、その言葉の意味が理解できなかった。
「東京に?本当か?」
「本当。四月から。営業所の立て替えが完了したから」
その瞬間、三年間耐えてきた全ての苦しさが、一度に流れ出した。
彼女も泣いていた。
電話越しでも、彼女の涙音が聞こえた。
「香織」
「何?」
「三年間、よく頑張ったな」
「君だって」
「これからは、一緒だ」
「ずっと」
「ずっと」
四月。彼女は東京に戻ってきた。
一緒のアパートを借りた。
朝、起きると、彼女がそこにいる。
帰宅すると、彼女がそこにいる。
この当たり前が、どれだけの奇跡だったか。
ある夜。
寝る前に、彼女が言った。
「ずっと、あの電話の時間を待ってた」
「八時?」
「そう。あの三十分だけが、生きてる実感だった」
僕も、全く同じだった。
「香織。あの距離は、今、どう感じる?」
「遠い。一生、遠い。だから……」
「だから?」
「これからは、君のそばにいたい。距離を、ゼロにしたい」
「ああ。もう二度と、遠くなんかいかせない」
彼女は笑った。
「越える必要もないね。もうここにいるから」
その朝。
僕は彼女の隣で、初めて、心から眠りについた。
遠距離の電話は、もういらない。
君の呼吸が、その代わりだから。
一年間、毎日、君を待った。
その待つ時間の全ては、この瞬間のためだったんだ。
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