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第32話:朝食のパンを、君と選んだ
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同棲を始めて三ヶ月が過ぎた。
僕たちの朝は、いつからか、駅前の小さなパン屋『こむぎの穂』の、香ばしい匂いから始まるようになっていた。
最初は、それぞれが寝ぼけ眼のまま、ばらばらに家を出ていた。それが、どうしてこうなったんだろう。きっかけなんて、もう思い出せない。ただ気づけば、葉月の少し低い、優しい声に「拓也、パン、行くよ」と急かされるのが、僕たちの朝の合図になっていた。
「今日は、何にする?」
焼きたてのパンが並ぶショーケースの前で、葉月が楽しそうに僕の顔を覗き込む。
「うーん……昨日はクロワッサンだったからなあ」
「じゃあ、今日はチョココロネだ」
「なんでそうなるんだよ」
「だって、拓也の顔に『チョココロネ食べたい』って書いてある」
そんなわけがあるか、と笑いながらも、結局僕は、彼女が選んだチョココロネをトレイに乗せる。葉月は、まるで自分のことのように満足げに頷いた。
店主の佐々木さんは、もうすっかり僕たちの顔なじみだ。
「はい、毎度。お二人さん、今日も仲いいねえ」
「まあ、朝食はここのパンって決めてるんで」
レジ越しにそんな会話を交わす。佐々木さんの皺の刻まれた笑顔が、僕たちの日常の風景の一部になっていた。
季節が、秋から冬へと移り変わる。
ショーケースに並ぶパンも、かぼちゃや栗を使ったものから、シュトーレンのような冬のパンへと姿を変えていく。僕たちの朝の習慣だけは、何も変わらなかった。
ある霜の降りた、特別に寒い朝だった。
白い息を吐きながらパンを選ぶ葉月が、ぽつりと呟いた。
「……この時間が、好きなんだ」
「ん? パン選ぶ時間?」
「うん。拓也と、こうやって、ああでもないこうでもないって言いながら、パンを選ぶ時間」
彼女は、焼きたてのパンの湯気が立ち上るのを、愛おしそうに見つめていた。
「なんだか……すごく忙しい毎日の中で、この時間だけは、ちゃんと二人で、ゆっくり生きてるなって気がして。だから、毎朝、楽しみなんだよね」
その言葉は、僕の胸の奥に、じんわりと温かく沁み込んだ。そうだ、俺も同じだ。この何でもない時間が、一日を始めるための、かけがえのない儀式になっていたんだ。
その時から、僕の心に、一つの計画が芽生え始めた。
佐々木さんに計画を打ち明けた時、彼は最初、目を丸くしていたが、やがて「任せとけ!」と、自分のことのように胸を叩いてくれた。
そして、運命の朝が来た。
「今日は、クロワッサンの気分だなあ」
何も知らない葉月が、いつものように一番人気のクロワッサンをトレイに乗せる。僕の心臓は、これまでにないくらい、大きく、速く、脈打っていた。
席について、コーヒーを一口。
葉月が、クロワッサンをちぎり、ぱくりと一口頬張った。
サクサクという軽快な音が、やけに大きく聞こえる。
次の瞬間、彼女の動きが、ぴたりと止まった。
「……ん?」
怪訝な顔で、もう一度、口の中を探っている。その表情が、みるみるうちに驚きへと変わっていった。
「……なに、これ」
彼女の唇から、小さな銀色のリングが、ころりとテーブルの上に転がり落ちた。
僕は、そのタイミングを逃さなかった。
彼女の前に、静かに膝をつく。
「葉月」
「……え、たくや、さん……?」
「毎朝、君とパンを選ぶこの時間。俺も、世界で一番好きな時間だ」
葉月の目が、大きく見開かれる。その瞳に、驚きと、喜びと、そして涙が、ゆっくりと満ちていくのが見えた。
「だから、お願いだ。これからも毎朝、俺と一緒に、パンを選んでくれませんか」
僕は、テーブルの上のリングを手に取り、彼女の前に差し出した。
「結婚、してください」
葉月の頬を、大粒の涙が伝った。
店内にいた他のお客さんたちが、何事かとこちらを見ている。佐々木さんが、カウンターの奥で、泣きながら親指を立てていた。
「……はい」
小さな、でも、世界で一番確かな声。
僕は、彼女の震える左手の薬指に、そっとリングをはめた。
その瞬間、店内に、温かい拍手が響き渡った。
結婚して、三年が経った。
そして今日、僕たちの朝に、新しいメンバーが加わった。
「おはようございます!」
葉月が、生後三ヶ月の娘、ひかりを抱いて、パン屋のドアを開ける。
「おお! 小さなお客さんだねえ!」
佐々木さんが、カウンターから満面の笑みで迎えてくれた。
「この子も、ここのパン、好きになってくれるといいなあ」
葉月が、ひかりの小さな頬を撫でながら言う。
僕は、そんな二人の姿を、そしてショーケースに並んだ焼きたてのパンを、改めて見つめた。
人生は、きっと、この毎朝のパンみたいなものだ。
特別じゃない。華やかでもない。
でも、そのありふれた日常の繰り返しの中に、僕たちが生きる上で、本当に必要な温かさと、幸せと、そして愛が、全部詰まっている。
ひかりの小さな手を握りながら、僕は、この最高に幸せな日常が、ずっとずっと続いていくことを、心から願った。
僕たちの朝は、いつからか、駅前の小さなパン屋『こむぎの穂』の、香ばしい匂いから始まるようになっていた。
最初は、それぞれが寝ぼけ眼のまま、ばらばらに家を出ていた。それが、どうしてこうなったんだろう。きっかけなんて、もう思い出せない。ただ気づけば、葉月の少し低い、優しい声に「拓也、パン、行くよ」と急かされるのが、僕たちの朝の合図になっていた。
「今日は、何にする?」
焼きたてのパンが並ぶショーケースの前で、葉月が楽しそうに僕の顔を覗き込む。
「うーん……昨日はクロワッサンだったからなあ」
「じゃあ、今日はチョココロネだ」
「なんでそうなるんだよ」
「だって、拓也の顔に『チョココロネ食べたい』って書いてある」
そんなわけがあるか、と笑いながらも、結局僕は、彼女が選んだチョココロネをトレイに乗せる。葉月は、まるで自分のことのように満足げに頷いた。
店主の佐々木さんは、もうすっかり僕たちの顔なじみだ。
「はい、毎度。お二人さん、今日も仲いいねえ」
「まあ、朝食はここのパンって決めてるんで」
レジ越しにそんな会話を交わす。佐々木さんの皺の刻まれた笑顔が、僕たちの日常の風景の一部になっていた。
季節が、秋から冬へと移り変わる。
ショーケースに並ぶパンも、かぼちゃや栗を使ったものから、シュトーレンのような冬のパンへと姿を変えていく。僕たちの朝の習慣だけは、何も変わらなかった。
ある霜の降りた、特別に寒い朝だった。
白い息を吐きながらパンを選ぶ葉月が、ぽつりと呟いた。
「……この時間が、好きなんだ」
「ん? パン選ぶ時間?」
「うん。拓也と、こうやって、ああでもないこうでもないって言いながら、パンを選ぶ時間」
彼女は、焼きたてのパンの湯気が立ち上るのを、愛おしそうに見つめていた。
「なんだか……すごく忙しい毎日の中で、この時間だけは、ちゃんと二人で、ゆっくり生きてるなって気がして。だから、毎朝、楽しみなんだよね」
その言葉は、僕の胸の奥に、じんわりと温かく沁み込んだ。そうだ、俺も同じだ。この何でもない時間が、一日を始めるための、かけがえのない儀式になっていたんだ。
その時から、僕の心に、一つの計画が芽生え始めた。
佐々木さんに計画を打ち明けた時、彼は最初、目を丸くしていたが、やがて「任せとけ!」と、自分のことのように胸を叩いてくれた。
そして、運命の朝が来た。
「今日は、クロワッサンの気分だなあ」
何も知らない葉月が、いつものように一番人気のクロワッサンをトレイに乗せる。僕の心臓は、これまでにないくらい、大きく、速く、脈打っていた。
席について、コーヒーを一口。
葉月が、クロワッサンをちぎり、ぱくりと一口頬張った。
サクサクという軽快な音が、やけに大きく聞こえる。
次の瞬間、彼女の動きが、ぴたりと止まった。
「……ん?」
怪訝な顔で、もう一度、口の中を探っている。その表情が、みるみるうちに驚きへと変わっていった。
「……なに、これ」
彼女の唇から、小さな銀色のリングが、ころりとテーブルの上に転がり落ちた。
僕は、そのタイミングを逃さなかった。
彼女の前に、静かに膝をつく。
「葉月」
「……え、たくや、さん……?」
「毎朝、君とパンを選ぶこの時間。俺も、世界で一番好きな時間だ」
葉月の目が、大きく見開かれる。その瞳に、驚きと、喜びと、そして涙が、ゆっくりと満ちていくのが見えた。
「だから、お願いだ。これからも毎朝、俺と一緒に、パンを選んでくれませんか」
僕は、テーブルの上のリングを手に取り、彼女の前に差し出した。
「結婚、してください」
葉月の頬を、大粒の涙が伝った。
店内にいた他のお客さんたちが、何事かとこちらを見ている。佐々木さんが、カウンターの奥で、泣きながら親指を立てていた。
「……はい」
小さな、でも、世界で一番確かな声。
僕は、彼女の震える左手の薬指に、そっとリングをはめた。
その瞬間、店内に、温かい拍手が響き渡った。
結婚して、三年が経った。
そして今日、僕たちの朝に、新しいメンバーが加わった。
「おはようございます!」
葉月が、生後三ヶ月の娘、ひかりを抱いて、パン屋のドアを開ける。
「おお! 小さなお客さんだねえ!」
佐々木さんが、カウンターから満面の笑みで迎えてくれた。
「この子も、ここのパン、好きになってくれるといいなあ」
葉月が、ひかりの小さな頬を撫でながら言う。
僕は、そんな二人の姿を、そしてショーケースに並んだ焼きたてのパンを、改めて見つめた。
人生は、きっと、この毎朝のパンみたいなものだ。
特別じゃない。華やかでもない。
でも、そのありふれた日常の繰り返しの中に、僕たちが生きる上で、本当に必要な温かさと、幸せと、そして愛が、全部詰まっている。
ひかりの小さな手を握りながら、僕は、この最高に幸せな日常が、ずっとずっと続いていくことを、心から願った。
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