【告白短編集】~どこにでもある日常の中に、最高の愛が隠れている~

月下花音

文字の大きさ
32 / 48

第32話:朝食のパンを、君と選んだ

しおりを挟む
同棲を始めて三ヶ月が過ぎた。
僕たちの朝は、いつからか、駅前の小さなパン屋『こむぎの穂』の、香ばしい匂いから始まるようになっていた。

最初は、それぞれが寝ぼけ眼のまま、ばらばらに家を出ていた。それが、どうしてこうなったんだろう。きっかけなんて、もう思い出せない。ただ気づけば、葉月の少し低い、優しい声に「拓也、パン、行くよ」と急かされるのが、僕たちの朝の合図になっていた。

「今日は、何にする?」
焼きたてのパンが並ぶショーケースの前で、葉月が楽しそうに僕の顔を覗き込む。
「うーん……昨日はクロワッサンだったからなあ」
「じゃあ、今日はチョココロネだ」
「なんでそうなるんだよ」
「だって、拓也の顔に『チョココロネ食べたい』って書いてある」
そんなわけがあるか、と笑いながらも、結局僕は、彼女が選んだチョココロネをトレイに乗せる。葉月は、まるで自分のことのように満足げに頷いた。

店主の佐々木さんは、もうすっかり僕たちの顔なじみだ。
「はい、毎度。お二人さん、今日も仲いいねえ」
「まあ、朝食はここのパンって決めてるんで」
レジ越しにそんな会話を交わす。佐々木さんの皺の刻まれた笑顔が、僕たちの日常の風景の一部になっていた。

季節が、秋から冬へと移り変わる。
ショーケースに並ぶパンも、かぼちゃや栗を使ったものから、シュトーレンのような冬のパンへと姿を変えていく。僕たちの朝の習慣だけは、何も変わらなかった。

ある霜の降りた、特別に寒い朝だった。
白い息を吐きながらパンを選ぶ葉月が、ぽつりと呟いた。

「……この時間が、好きなんだ」
「ん? パン選ぶ時間?」
「うん。拓也と、こうやって、ああでもないこうでもないって言いながら、パンを選ぶ時間」
彼女は、焼きたてのパンの湯気が立ち上るのを、愛おしそうに見つめていた。
「なんだか……すごく忙しい毎日の中で、この時間だけは、ちゃんと二人で、ゆっくり生きてるなって気がして。だから、毎朝、楽しみなんだよね」

その言葉は、僕の胸の奥に、じんわりと温かく沁み込んだ。そうだ、俺も同じだ。この何でもない時間が、一日を始めるための、かけがえのない儀式になっていたんだ。

その時から、僕の心に、一つの計画が芽生え始めた。

佐々木さんに計画を打ち明けた時、彼は最初、目を丸くしていたが、やがて「任せとけ!」と、自分のことのように胸を叩いてくれた。

そして、運命の朝が来た。

「今日は、クロワッサンの気分だなあ」
何も知らない葉月が、いつものように一番人気のクロワッサンをトレイに乗せる。僕の心臓は、これまでにないくらい、大きく、速く、脈打っていた。

席について、コーヒーを一口。
葉月が、クロワッサンをちぎり、ぱくりと一口頬張った。

サクサクという軽快な音が、やけに大きく聞こえる。
次の瞬間、彼女の動きが、ぴたりと止まった。

「……ん?」

怪訝な顔で、もう一度、口の中を探っている。その表情が、みるみるうちに驚きへと変わっていった。

「……なに、これ」

彼女の唇から、小さな銀色のリングが、ころりとテーブルの上に転がり落ちた。

僕は、そのタイミングを逃さなかった。
彼女の前に、静かに膝をつく。

「葉月」
「……え、たくや、さん……?」
「毎朝、君とパンを選ぶこの時間。俺も、世界で一番好きな時間だ」

葉月の目が、大きく見開かれる。その瞳に、驚きと、喜びと、そして涙が、ゆっくりと満ちていくのが見えた。

「だから、お願いだ。これからも毎朝、俺と一緒に、パンを選んでくれませんか」
僕は、テーブルの上のリングを手に取り、彼女の前に差し出した。
「結婚、してください」

葉月の頬を、大粒の涙が伝った。
店内にいた他のお客さんたちが、何事かとこちらを見ている。佐々木さんが、カウンターの奥で、泣きながら親指を立てていた。

「……はい」

小さな、でも、世界で一番確かな声。
僕は、彼女の震える左手の薬指に、そっとリングをはめた。

その瞬間、店内に、温かい拍手が響き渡った。



結婚して、三年が経った。
そして今日、僕たちの朝に、新しいメンバーが加わった。

「おはようございます!」
葉月が、生後三ヶ月の娘、ひかりを抱いて、パン屋のドアを開ける。

「おお! 小さなお客さんだねえ!」
佐々木さんが、カウンターから満面の笑みで迎えてくれた。

「この子も、ここのパン、好きになってくれるといいなあ」
葉月が、ひかりの小さな頬を撫でながら言う。

僕は、そんな二人の姿を、そしてショーケースに並んだ焼きたてのパンを、改めて見つめた。

人生は、きっと、この毎朝のパンみたいなものだ。
特別じゃない。華やかでもない。
でも、そのありふれた日常の繰り返しの中に、僕たちが生きる上で、本当に必要な温かさと、幸せと、そして愛が、全部詰まっている。

ひかりの小さな手を握りながら、僕は、この最高に幸せな日常が、ずっとずっと続いていくことを、心から願った。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

盗み聞き

凛子
恋愛
あ、そういうこと。

危険な残業

詩織
恋愛
いつも残業の多い奈津美。そこにある人が現れいつもの残業でなくなる

一夏の性体験

風のように
恋愛
性に興味を持ち始めた頃に訪れた憧れの年上の女性との一夜の経験

心のすきまに【社会人恋愛短編集】

山田森湖
恋愛
仕事に追われる毎日、でも心のすきまに、あの人の存在が忍び込む――。 偶然の出会い、初めての感情、すれ違いのもどかしさ。 大人の社会人恋愛を描いた短編集です。

処理中です...