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第33話:雨の日の傘で、君の温もりを知った
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梅雨の季節だった。
登山サークルのミーティングが終わり、建物の外に出た瞬間、アスファルトを叩く激しい雨音に足を止めた。駅前の軒下で立ち尽くす僕の肩に、不意に、影が差した。
「傘、どうぞ」
振り向くと、同じサークルの美咲が、一本のビニール傘を静かに差し掛けていた。
彼女とは、これまでほとんど話したことがない。整った顔立ちの、どちらかと言えば無口な女性。ただそれだけの印象だった。
「いいの?」
「はい。私も、駅までなので」
その淡々とした口調は、親切というより、事実報告に近い響きを持っていた。
一本の傘の下、僕たちは身を寄せて歩き始めた。肩が触れそうな距離。降りしきる雨音だけが、僕たちの間の沈黙を埋めている。その時、僕は気づいた。傘を支える彼女の右肩が、雨でじっとりと濡れている。僕を濡らさないように、傘を、ほんの少しだけ僕の方に傾けているのだ。その、言葉にならない優しさに、心臓が小さく音を立てた。
翌週のサークルも、雨だった。
その次の週も、また、その次も。
まるで示し合わせたかのように、毎週金曜の夜には雨が降った。そして僕たちは、当たり前のように、一本の傘で一緒に帰るようになった。
いつしか僕は、雨の日が待ち遠しくなっている自分に気づいていた。
この、傘の中の小さな世界が、僕にとってかけがえのないものになっていたからだ。
相変わらず会話は少ない。だが、その沈黙は、心地よい音楽のように僕たちの間に流れていた。
雨に濡れた彼女の髪から、ふわりと香る、甘いシャンプーの匂い。
傘の柄を握る、白く細い指先。
時折、街灯の光に照らされる、静かな横顔。
僕は、その全てを、記憶に焼き付けるように見つめていた。そして確信していた。
この沈黙の中にこそ、僕が知りたい彼女の全てが詰まっているのだと。
ある金曜の帰り道。
いつものように傘を差し掛けてくれた美咲が、ふと、立ち止まった。
そして、ポケットから、真新しい折りたたみ傘を取り出した。
「これからは、一人で帰ります」
その言葉に、僕の世界から、音が消えた。
「……え、なんで?」
「いつも、あなたに迷惑かけてるんじゃないかって。……それに、前の彼氏からもらった傘がまだ家にあって、それを使うのも、なんだか……」
前の、彼氏。
その単語が、冷たい雨粒のように、僕の心に染み込んだ。
そうだ。彼女にも、僕の知らない過去がある。この傘の下で、僕ではない誰かと、同じように肩を寄せ合った時間があったのかもしれない。
その事実に胸が痛み、そして、それ以上に、どうしようもない感情が、腹の底から突き上げてきた。
「迷惑じゃない」
気づけば、僕は、彼女の手から、新しい傘を奪い取るように取っていた。
「迷惑なんかじゃない。俺は、毎週、この雨の日を楽しみにしてるんだ」
言葉が、堰を切ったように溢れ出す。
「君と、この傘の中にいるのが好きだ。君の髪の匂いが、君の指先が、君の横顔が、……全部、好きだ」
美咲は、驚きに目を見開いたまま、僕を真っ直ぐに見つめていた。その頬を、雨粒なのか、涙なのか分からない雫が、静かに伝っていく。
「……本当、ですか?」
「本当だ」
彼女の手から、力が抜けた。僕はその手を、傘の柄ごと、強く、強く握りしめた。
「……じゃあ、これからも……あなたの傘の中に、いても、いいですか?」
その声は、雨音に溶けてしまいそうなほど、か細く、震えていた。
それから、僕たちは恋人になった。
サークルの仲間たちの前で、何かを宣言したわけじゃない。ただ、雨が降らない晴れの日も、僕たちは、当たり前のように並んで帰るようになった。それだけで、十分だった。
ある日曜日、美咲が「部屋の片付けをするから」と言って、一つの古い傘をゴミ袋に入れた。
「それ、もしかして」
「うん。前の彼氏からもらったやつ。もう、いらないから」
彼女は、そう言って、僕の手をぎゅっと握った。
「あなたの傘の中に、ずっといたいから」
その、静かだが、決意に満ちた選択が、どれほど大きな意味を持つのか。僕には、痛いほど分かっていた。
やがて季節は巡り、僕たちの関係も深まっていった。
そして、二年後の梅雨。あの日と同じ、金曜日の夜。
プロポーズは、あの駅前の軒下で、と決めていた。
僕は、あの日からずっと使い続けてきた、少しだけ古びたビニール傘を、静かに広げた。
「美咲」
「ん?」
「ここで、初めて君と傘をさしたこと、覚えてるか?」
「……うん。覚えてるよ」
「あの時、君は、俺が濡れないように、傘を傾けてくれた。自分の肩が濡れてるのも構わずに」
彼女の目に、雨粒とは違う、温かい光が浮かぶ。
「あの優しさに、俺は惚れたんだ。そして、この傘の中で、君のことを、どんどん好きになった」
僕は、彼女の前に膝をついた。
「だから、美咲。これからも、一生、この傘の中で、俺と一緒に生きてください。結婚しよう」
返事の代わりに、彼女は、僕を傘の中に強く引き寄せ、その唇を、そっと重ねた。
雨音が、僕たち二人だけの世界を、優しく、優しく、満たしていた。
登山サークルのミーティングが終わり、建物の外に出た瞬間、アスファルトを叩く激しい雨音に足を止めた。駅前の軒下で立ち尽くす僕の肩に、不意に、影が差した。
「傘、どうぞ」
振り向くと、同じサークルの美咲が、一本のビニール傘を静かに差し掛けていた。
彼女とは、これまでほとんど話したことがない。整った顔立ちの、どちらかと言えば無口な女性。ただそれだけの印象だった。
「いいの?」
「はい。私も、駅までなので」
その淡々とした口調は、親切というより、事実報告に近い響きを持っていた。
一本の傘の下、僕たちは身を寄せて歩き始めた。肩が触れそうな距離。降りしきる雨音だけが、僕たちの間の沈黙を埋めている。その時、僕は気づいた。傘を支える彼女の右肩が、雨でじっとりと濡れている。僕を濡らさないように、傘を、ほんの少しだけ僕の方に傾けているのだ。その、言葉にならない優しさに、心臓が小さく音を立てた。
翌週のサークルも、雨だった。
その次の週も、また、その次も。
まるで示し合わせたかのように、毎週金曜の夜には雨が降った。そして僕たちは、当たり前のように、一本の傘で一緒に帰るようになった。
いつしか僕は、雨の日が待ち遠しくなっている自分に気づいていた。
この、傘の中の小さな世界が、僕にとってかけがえのないものになっていたからだ。
相変わらず会話は少ない。だが、その沈黙は、心地よい音楽のように僕たちの間に流れていた。
雨に濡れた彼女の髪から、ふわりと香る、甘いシャンプーの匂い。
傘の柄を握る、白く細い指先。
時折、街灯の光に照らされる、静かな横顔。
僕は、その全てを、記憶に焼き付けるように見つめていた。そして確信していた。
この沈黙の中にこそ、僕が知りたい彼女の全てが詰まっているのだと。
ある金曜の帰り道。
いつものように傘を差し掛けてくれた美咲が、ふと、立ち止まった。
そして、ポケットから、真新しい折りたたみ傘を取り出した。
「これからは、一人で帰ります」
その言葉に、僕の世界から、音が消えた。
「……え、なんで?」
「いつも、あなたに迷惑かけてるんじゃないかって。……それに、前の彼氏からもらった傘がまだ家にあって、それを使うのも、なんだか……」
前の、彼氏。
その単語が、冷たい雨粒のように、僕の心に染み込んだ。
そうだ。彼女にも、僕の知らない過去がある。この傘の下で、僕ではない誰かと、同じように肩を寄せ合った時間があったのかもしれない。
その事実に胸が痛み、そして、それ以上に、どうしようもない感情が、腹の底から突き上げてきた。
「迷惑じゃない」
気づけば、僕は、彼女の手から、新しい傘を奪い取るように取っていた。
「迷惑なんかじゃない。俺は、毎週、この雨の日を楽しみにしてるんだ」
言葉が、堰を切ったように溢れ出す。
「君と、この傘の中にいるのが好きだ。君の髪の匂いが、君の指先が、君の横顔が、……全部、好きだ」
美咲は、驚きに目を見開いたまま、僕を真っ直ぐに見つめていた。その頬を、雨粒なのか、涙なのか分からない雫が、静かに伝っていく。
「……本当、ですか?」
「本当だ」
彼女の手から、力が抜けた。僕はその手を、傘の柄ごと、強く、強く握りしめた。
「……じゃあ、これからも……あなたの傘の中に、いても、いいですか?」
その声は、雨音に溶けてしまいそうなほど、か細く、震えていた。
それから、僕たちは恋人になった。
サークルの仲間たちの前で、何かを宣言したわけじゃない。ただ、雨が降らない晴れの日も、僕たちは、当たり前のように並んで帰るようになった。それだけで、十分だった。
ある日曜日、美咲が「部屋の片付けをするから」と言って、一つの古い傘をゴミ袋に入れた。
「それ、もしかして」
「うん。前の彼氏からもらったやつ。もう、いらないから」
彼女は、そう言って、僕の手をぎゅっと握った。
「あなたの傘の中に、ずっといたいから」
その、静かだが、決意に満ちた選択が、どれほど大きな意味を持つのか。僕には、痛いほど分かっていた。
やがて季節は巡り、僕たちの関係も深まっていった。
そして、二年後の梅雨。あの日と同じ、金曜日の夜。
プロポーズは、あの駅前の軒下で、と決めていた。
僕は、あの日からずっと使い続けてきた、少しだけ古びたビニール傘を、静かに広げた。
「美咲」
「ん?」
「ここで、初めて君と傘をさしたこと、覚えてるか?」
「……うん。覚えてるよ」
「あの時、君は、俺が濡れないように、傘を傾けてくれた。自分の肩が濡れてるのも構わずに」
彼女の目に、雨粒とは違う、温かい光が浮かぶ。
「あの優しさに、俺は惚れたんだ。そして、この傘の中で、君のことを、どんどん好きになった」
僕は、彼女の前に膝をついた。
「だから、美咲。これからも、一生、この傘の中で、俺と一緒に生きてください。結婚しよう」
返事の代わりに、彼女は、僕を傘の中に強く引き寄せ、その唇を、そっと重ねた。
雨音が、僕たち二人だけの世界を、優しく、優しく、満たしていた。
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