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第34話:君の母親に、初めて会った
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彼女・咲季と付き合って、二年が経っていた。
最初のデートは彼女の部屋だった。その後、映画館、カフェ、川沿いの公園。いつの間にか、彼女の家が僕の「帰る場所」になっていた。毎週のように訪れ、彼女の部屋で映画を見たり、読書をしたり、時には何もしないまま時間が流れることもあった。
だが、二年間、彼女の母親には一度も会っていなかった。
「そろそろ。母に、会いませんか?」
ある日曜日の朝、咲季が静かに言った。彼女は、リビングの窓から朝日が差し込むソファに座り、両手でコーヒーカップを包んでいた。
「本当に?」
「はい。あなたが、ずっと家に来てくれてるのに。母に会わないのは...」
咲季の言葉に、僕の心臓は高鳴った。このセリフが意味していること。彼女が、僕をどう見ているのか。それが、ここに凝結していた。
会う前の夜。
僕は、眠れなかった。
何を話そう。何を着よう。咲季の母親は、どんな人だろう。一体、彼女について何を知っているのだろう。僕たちの関係を、認めてくれるのか。
不安と期待が、何度も僕の胸を往来した。
朝になっても、その感覚は消えなかった。
約束の時間は、日曜日の昼一時。
咲季の実家は、都心から電車で四十分ほど行った、閑静な住宅地にあった。
木造の一軒家。白いフェンスで囲まれた庭には、色とりどりの花が咲いていた。古い家だったが、丁寧に手入れされている感じがした。庭の土も、きちんと整えられていた。
玄関のドアが、開いた。
咲季にそっくりな女性が、そこに立っていた。だが、顔立ちは似ていても、目の中には、人生の重みが刻み込まれていた。咲季の母親・美波だった。
「はじめまして。咲季がお世話になってます」
僕は、一礼した。
「こちらこそ。いつもありがとうございます」
美波は、柔らかく笑った。その笑顔は、咲季のそれと重なった。
リビングは、思いのほか広かった。
窓からは、庭の緑が見える。古い革製のソファが置かれ、壁には家族の写真がいくつも飾られていた。小さな咲季、学生時代の咲季、高校の卒業式。写真から伝わってくるのは、ただの「時間」ではなく、「愛情の蓄積」だった。
美波は、丁寧にお茶とお菓子を出してくれた。
「咲季が。昨年から、いつもあなたの話をするんですよ」
「え?」
「『こういう人と』『こんなことをして』『笑った』...そんなふうに。毎回違う話を持ってくるんです。昔は、そういうことなかったので」
美波の視線は、咲季に向けられた。
咲季は、顔を真っ赤にして、椅子に身を沈めた。
「母さん...」
「何もね。娘がね。こんなに生き生きとした表情になったのは、あなたのおかげかもしれません」
その言葉に、僕は何も言えなかった。ただ、咲季を見ることしかできなかった。
読んだぞ。
……そうか。これが、お前が描く「家族」の物語か。
素晴らしいじゃないか。
「恋人」という閉じた関係から一歩踏み出し、「家族」という、より大きく、複雑で、そして温かい世界へと物語を広げた。その挑戦、見事だ。
特に、咲季の母親である美波というキャラクター。彼女を通して、「愛とは、見守り続けることである」という、一つの真実を描ききった。彼女のセリフ、行動、その全てに、娘への深い愛情が滲み出ていて、読者は胸を打たれるだろう。
だがな。
……いいか、新人。お前はもう、ただ「良い話」を書くだけの作家じゃないはずだ。
この原稿は、確かに美しい。感動的だ。だが、どこか「綺麗」すぎる。
人間の感情には、もっと複雑で、矛盾した側面があるはずだ。
この物語を、ただの「心温まる美談」で終わらせるのか、それとも、読者の心に深く突き刺さる、「忘れられない家族のドラマ」にまで昇華させるのか。
その分水嶺が、今、ここにある。
いいだろう。
この美しい物語に、あえて「毒」を盛ってやる。
その毒が、どう物語に深みとリアリティを与えるか、その目で確かめろ。
食卓に並んだのは、聞かされていた通り、咲季の好物ばかりだった。
中でも、湯気を立てる小松菜の卵とじは、彼女が「世界で一番好き」だと豪語していた一品だ。
「さあ、拓也さん、どうぞ。お口に合うか分からないけれど」
美波さんは、にこやかにそう言うが、その目の奥は、笑っていない。まるで、鑑定士が宝石を吟味するような、鋭い光が宿っている。
「いただきます」
緊張で、箸を持つ手が微かに震えた。
卵とじを一口。優しい出汁の味が、口の中に広がる。美味い。だが、その味を素直に楽しむ余裕はなかった。美波さんの視線が、値踏みするように、俺の一挙手一投足を観察しているのが分かる。
「咲季は、昔からこの卵とじが好きなのよ。でも、作り方は、絶対に教えてあげないの」
「え、そうなんですか?」
「ええ。これは、この家の味だから。いつか、この子がお嫁に行った時、たまに里帰りして、この味を食べに帰ってきてほしいでしょう? 母親っていうのは、そういう狡いことを考えるものなのよ」
その言葉は、一見、母親の愛情のようにも聞こえる。
だが、その裏には、明確な棘があった。
「あなたに、この子を、この家の味を、託す覚悟はありますか?」
そう、問われているのだ。
俺は、一度箸を置き、美波さんをまっすぐに見つめ返した。
「……すごく、美味しいです。俺は、こんなに美味しい卵とじは作れません」
「……」
「だから、これからも、咲季と一緒に、この味を食べに、ここに帰ってきてもいいですか」
俺の言葉に、美-波さんの目の光が、ほんの少しだけ、和らいだ気がした。
隣で、咲季が、テーブルの下で俺の手を、きゅっと握りしめていた。
食事の後、美波は古いアルバムを持ってきた。
「咲季の子どもの時の写真です」
小さな咲季が、そこにいた。写真の中の彼女は、いつも何かを指差していた。何かに驚いたり、何かを質問したり。その表情には、世界に対する飽くなき好奇心が溢れていた。
「この子は、いつも『なぜ?』と聞いていたんです。世界のことも、人のことも。色々なことに質問してきました」
美波の指は、写真の中の小さな咲季を示していた。
「だけど、大人になるにつれて...その『なぜ?』が減っていってしまった。大人になると、質問も笑顔も、どうしても減ってしまう」
美波は、目の前の咲季を見つめた。
「ところが、あなたが現れてから、この子が、また『なぜ?』を始めたんです。『なぜあの人は、こんなに優しいのか』『なぜ一緒にいると、心が落ち着くのか』そんなふうに」
美波の目に、涙が光った。
「だから、ありがとうございます。娘をね。大事にしてくれて。そして、彼女のなかの『子ども』を、もう一度、目覚めさせてくれて」
その言葉が、何を意味しているのか、僕は理解できた。
美波が台所に戻った後、咲季と二人きりになった。
「君の母親、素敵だね」
「え?」
「子どもの時から、お前のことをずっと見ていたんだ。同じ料理を作って。同じ味を保って。お前の笑顔が減ったことにも気づいて」
咲季は、僕を見つめた。そして、柔らかく笑った。
「今も、いっぱい聞きます」
「何を?」
「あなたのこと。何で、こんなに好きなんだろうって」
その言葉に、僕は彼女を抱きしめた。
リビングから、美波のコップを置く音が聞こえた。だが、彼女は戻ってこなかった。そっと、僕たちに時間を与えてくれていたのだ。
帰る時。
美波は、新しいアルバムをくれた。
「これは、今年の咲季の写真です」
最近の咲季。その笑顔は、子どもの時の写真に近づいていた。カフェでのショット、映画館での横顔、川沿いで風に吹かれる髪。全てが、彼女の内面的な喜びを物語っていた。
玄関で、美波が僕たちを見送ってくれた。
「末永くお幸せに」
その言葉が、僕の中で何かを決めた。
三ヶ月後。
同じ玄関で、僕は咲季の母親に、プロポーズの許可を求めた。
昼下がりの光が、リビングに差し込んでいた。咲季は隣の部屋にいた。母親とのこの時間は、男たちの儀式だった。
「娘さんを、ずっと大事にします」
僕がそう言った時、美波の目から涙がこぼれた。
「本当ですか」
「本当です」
美波は、半分涙で、半分笑顔で言った。
「また、この家に。孫を連れて、きてくださいね」
その後、毎月のように、咲季と僕は実家に帰るようになった。
美波は、季節ごとに違う料理を用意してくれた。春は筍ご飯。夏は冷やし中華。秋は栗ご飯。冬はすき焼き。それぞれが、咲季が好きなものばかりだった。
リビングのソファに座る時間が、僕の人生の中で、最も安定した時間になっていった。
結婚してから、三年後。
初めて、美波は孫を抱いた。
小さな命。新しい命。その小さな手が、美波の指を握った時、彼女の顔は、本当に別人のようになった。
別人のように、輝いていた。
「おばあちゃんが、教えてあげるんだよ」
美波は、孫に言った。
「『なぜ?』って聞くこと。その大切さを。世界はね、『なぜ?』で満ちているんだよ」
咲季は、その光景を見て、泣いていた。僕も、その横で、目がうるうるになっていた。
人生は、母親の愛から始まり。
愛する人との出会いで、新しく生まれ変わり。
そして、新しい命へと、愛が繋がっていく。
その連鎖の中に、僕たちは確かに存在していた。
食事の後、美波は古いアルバムを持ってきた。
「咲季の子どもの時の写真です」
小さな咲季が、そこにいた。写真の中の彼女は、いつも何かを指差していた。何かに驚いたり、何かを質問したり。その表情には、世界に対する飽くなき好奇心が溢れていた。
「この子は、いつも『なぜ?』と聞いていたんです。世界のことも、人のことも。色々なことに質問してきました」
美波の指は、写真の中の小さな咲季を示していた。
「だけど、大人になるにつれて...その『なぜ?』が減っていってしまった。大人になると、質問も笑顔も、どうしても減ってしまう」
美波は、目の前の咲季を見つめた。
「ところが、あなたが現れてから、この子が、また『なぜ?』を始めたんです。『なぜあの人は、こんなに優しいのか』『なぜ一緒にいると、心が落ち着くのか』そんなふうに」
美波の目に、涙が光った。
「だから、ありがとうございます。娘をね。大事にしてくれて。そして、彼女のなかの『子ども』を、もう一度、目覚めさせてくれて」
その言葉が、何を意味しているのか、僕は理解できた。
美波が台所に戻った後、咲季と二人きりになった。
「君の母親、素敵だね」
「え?」
「子どもの時から、お前のことをずっと見ていたんだ。同じ料理を作って。同じ味を保って。お前の笑顔が減ったことにも気づいて」
咲季は、僕を見つめた。そして、柔らかく笑った。
「今も、いっぱい聞きます」
「何を?」
「あなたのこと。何で、こんなに好きなんだろうって」
その言葉に、僕は彼女を抱きしめた。
リビングから、美波のコップを置く音が聞こえた。だが、彼女は戻ってこなかった。そっと、僕たちに時間を与えてくれていたのだ。
帰る時。
美波は、新しいアルバムをくれた。
「これは、今年の咲季の写真です」
最近の咲季。その笑顔は、子どもの時の写真に近づいていた。カフェでのショット、映画館での横顔、川沿いで風に吹かれる髪。全てが、彼女の内面的な喜びを物語っていた。
玄関で、美波が僕たちを見送ってくれた。
「末永くお幸せに」
その言葉が、僕の中で何かを決めた。
三ヶ月後。
同じ玄関で、僕は咲季の母親に、プロポーズの許可を求めた。
昼下がりの光が、リビングに差し込んでいた。咲季は隣の部屋にいた。母親とのこの時間は、男たちの儀式だった。
「娘さんを、ずっと大事にします」
僕がそう言った時、美波の目から涙がこぼれた。
「本当ですか」
「本当です」
美波は、半分涙で、半分笑顔で言った。
「また、この家に。孫を連れて、きてくださいね」
その後、毎月のように、咲季と僕は実家に帰るようになった。
美波は、季節ごとに違う料理を用意してくれた。春は筍ご飯。夏は冷やし中華。秋は栗ご飯。冬はすき焼き。それぞれが、咲季が好きなものばかりだった。
リビングのソファに座る時間が、僕の人生の中で、最も安定した時間になっていった。
結婚してから、三年後。
初めて、美波は孫を抱いた。
小さな命。新しい命。その小さな手が、美波の指を握った時、彼女の顔は、本当に別人のようになった。
別人のように、輝いていた。
「おばあちゃんが、教えてあげるんだよ」
美波は、孫に言った。
「『なぜ?』って聞くこと。その大切さを。世界はね、『なぜ?』で満ちているんだよ」
咲季は、その光景を見て、泣いていた。僕も、その横で、目がうるうるになっていた。
人生は、母親の愛から始まり。
愛する人との出会いで、新しく生まれ変わり。
そして、新しい命へと、愛が繋がっていく。
その連鎖の中に、僕たちは確かに存在していた。
最初のデートは彼女の部屋だった。その後、映画館、カフェ、川沿いの公園。いつの間にか、彼女の家が僕の「帰る場所」になっていた。毎週のように訪れ、彼女の部屋で映画を見たり、読書をしたり、時には何もしないまま時間が流れることもあった。
だが、二年間、彼女の母親には一度も会っていなかった。
「そろそろ。母に、会いませんか?」
ある日曜日の朝、咲季が静かに言った。彼女は、リビングの窓から朝日が差し込むソファに座り、両手でコーヒーカップを包んでいた。
「本当に?」
「はい。あなたが、ずっと家に来てくれてるのに。母に会わないのは...」
咲季の言葉に、僕の心臓は高鳴った。このセリフが意味していること。彼女が、僕をどう見ているのか。それが、ここに凝結していた。
会う前の夜。
僕は、眠れなかった。
何を話そう。何を着よう。咲季の母親は、どんな人だろう。一体、彼女について何を知っているのだろう。僕たちの関係を、認めてくれるのか。
不安と期待が、何度も僕の胸を往来した。
朝になっても、その感覚は消えなかった。
約束の時間は、日曜日の昼一時。
咲季の実家は、都心から電車で四十分ほど行った、閑静な住宅地にあった。
木造の一軒家。白いフェンスで囲まれた庭には、色とりどりの花が咲いていた。古い家だったが、丁寧に手入れされている感じがした。庭の土も、きちんと整えられていた。
玄関のドアが、開いた。
咲季にそっくりな女性が、そこに立っていた。だが、顔立ちは似ていても、目の中には、人生の重みが刻み込まれていた。咲季の母親・美波だった。
「はじめまして。咲季がお世話になってます」
僕は、一礼した。
「こちらこそ。いつもありがとうございます」
美波は、柔らかく笑った。その笑顔は、咲季のそれと重なった。
リビングは、思いのほか広かった。
窓からは、庭の緑が見える。古い革製のソファが置かれ、壁には家族の写真がいくつも飾られていた。小さな咲季、学生時代の咲季、高校の卒業式。写真から伝わってくるのは、ただの「時間」ではなく、「愛情の蓄積」だった。
美波は、丁寧にお茶とお菓子を出してくれた。
「咲季が。昨年から、いつもあなたの話をするんですよ」
「え?」
「『こういう人と』『こんなことをして』『笑った』...そんなふうに。毎回違う話を持ってくるんです。昔は、そういうことなかったので」
美波の視線は、咲季に向けられた。
咲季は、顔を真っ赤にして、椅子に身を沈めた。
「母さん...」
「何もね。娘がね。こんなに生き生きとした表情になったのは、あなたのおかげかもしれません」
その言葉に、僕は何も言えなかった。ただ、咲季を見ることしかできなかった。
読んだぞ。
……そうか。これが、お前が描く「家族」の物語か。
素晴らしいじゃないか。
「恋人」という閉じた関係から一歩踏み出し、「家族」という、より大きく、複雑で、そして温かい世界へと物語を広げた。その挑戦、見事だ。
特に、咲季の母親である美波というキャラクター。彼女を通して、「愛とは、見守り続けることである」という、一つの真実を描ききった。彼女のセリフ、行動、その全てに、娘への深い愛情が滲み出ていて、読者は胸を打たれるだろう。
だがな。
……いいか、新人。お前はもう、ただ「良い話」を書くだけの作家じゃないはずだ。
この原稿は、確かに美しい。感動的だ。だが、どこか「綺麗」すぎる。
人間の感情には、もっと複雑で、矛盾した側面があるはずだ。
この物語を、ただの「心温まる美談」で終わらせるのか、それとも、読者の心に深く突き刺さる、「忘れられない家族のドラマ」にまで昇華させるのか。
その分水嶺が、今、ここにある。
いいだろう。
この美しい物語に、あえて「毒」を盛ってやる。
その毒が、どう物語に深みとリアリティを与えるか、その目で確かめろ。
食卓に並んだのは、聞かされていた通り、咲季の好物ばかりだった。
中でも、湯気を立てる小松菜の卵とじは、彼女が「世界で一番好き」だと豪語していた一品だ。
「さあ、拓也さん、どうぞ。お口に合うか分からないけれど」
美波さんは、にこやかにそう言うが、その目の奥は、笑っていない。まるで、鑑定士が宝石を吟味するような、鋭い光が宿っている。
「いただきます」
緊張で、箸を持つ手が微かに震えた。
卵とじを一口。優しい出汁の味が、口の中に広がる。美味い。だが、その味を素直に楽しむ余裕はなかった。美波さんの視線が、値踏みするように、俺の一挙手一投足を観察しているのが分かる。
「咲季は、昔からこの卵とじが好きなのよ。でも、作り方は、絶対に教えてあげないの」
「え、そうなんですか?」
「ええ。これは、この家の味だから。いつか、この子がお嫁に行った時、たまに里帰りして、この味を食べに帰ってきてほしいでしょう? 母親っていうのは、そういう狡いことを考えるものなのよ」
その言葉は、一見、母親の愛情のようにも聞こえる。
だが、その裏には、明確な棘があった。
「あなたに、この子を、この家の味を、託す覚悟はありますか?」
そう、問われているのだ。
俺は、一度箸を置き、美波さんをまっすぐに見つめ返した。
「……すごく、美味しいです。俺は、こんなに美味しい卵とじは作れません」
「……」
「だから、これからも、咲季と一緒に、この味を食べに、ここに帰ってきてもいいですか」
俺の言葉に、美-波さんの目の光が、ほんの少しだけ、和らいだ気がした。
隣で、咲季が、テーブルの下で俺の手を、きゅっと握りしめていた。
食事の後、美波は古いアルバムを持ってきた。
「咲季の子どもの時の写真です」
小さな咲季が、そこにいた。写真の中の彼女は、いつも何かを指差していた。何かに驚いたり、何かを質問したり。その表情には、世界に対する飽くなき好奇心が溢れていた。
「この子は、いつも『なぜ?』と聞いていたんです。世界のことも、人のことも。色々なことに質問してきました」
美波の指は、写真の中の小さな咲季を示していた。
「だけど、大人になるにつれて...その『なぜ?』が減っていってしまった。大人になると、質問も笑顔も、どうしても減ってしまう」
美波は、目の前の咲季を見つめた。
「ところが、あなたが現れてから、この子が、また『なぜ?』を始めたんです。『なぜあの人は、こんなに優しいのか』『なぜ一緒にいると、心が落ち着くのか』そんなふうに」
美波の目に、涙が光った。
「だから、ありがとうございます。娘をね。大事にしてくれて。そして、彼女のなかの『子ども』を、もう一度、目覚めさせてくれて」
その言葉が、何を意味しているのか、僕は理解できた。
美波が台所に戻った後、咲季と二人きりになった。
「君の母親、素敵だね」
「え?」
「子どもの時から、お前のことをずっと見ていたんだ。同じ料理を作って。同じ味を保って。お前の笑顔が減ったことにも気づいて」
咲季は、僕を見つめた。そして、柔らかく笑った。
「今も、いっぱい聞きます」
「何を?」
「あなたのこと。何で、こんなに好きなんだろうって」
その言葉に、僕は彼女を抱きしめた。
リビングから、美波のコップを置く音が聞こえた。だが、彼女は戻ってこなかった。そっと、僕たちに時間を与えてくれていたのだ。
帰る時。
美波は、新しいアルバムをくれた。
「これは、今年の咲季の写真です」
最近の咲季。その笑顔は、子どもの時の写真に近づいていた。カフェでのショット、映画館での横顔、川沿いで風に吹かれる髪。全てが、彼女の内面的な喜びを物語っていた。
玄関で、美波が僕たちを見送ってくれた。
「末永くお幸せに」
その言葉が、僕の中で何かを決めた。
三ヶ月後。
同じ玄関で、僕は咲季の母親に、プロポーズの許可を求めた。
昼下がりの光が、リビングに差し込んでいた。咲季は隣の部屋にいた。母親とのこの時間は、男たちの儀式だった。
「娘さんを、ずっと大事にします」
僕がそう言った時、美波の目から涙がこぼれた。
「本当ですか」
「本当です」
美波は、半分涙で、半分笑顔で言った。
「また、この家に。孫を連れて、きてくださいね」
その後、毎月のように、咲季と僕は実家に帰るようになった。
美波は、季節ごとに違う料理を用意してくれた。春は筍ご飯。夏は冷やし中華。秋は栗ご飯。冬はすき焼き。それぞれが、咲季が好きなものばかりだった。
リビングのソファに座る時間が、僕の人生の中で、最も安定した時間になっていった。
結婚してから、三年後。
初めて、美波は孫を抱いた。
小さな命。新しい命。その小さな手が、美波の指を握った時、彼女の顔は、本当に別人のようになった。
別人のように、輝いていた。
「おばあちゃんが、教えてあげるんだよ」
美波は、孫に言った。
「『なぜ?』って聞くこと。その大切さを。世界はね、『なぜ?』で満ちているんだよ」
咲季は、その光景を見て、泣いていた。僕も、その横で、目がうるうるになっていた。
人生は、母親の愛から始まり。
愛する人との出会いで、新しく生まれ変わり。
そして、新しい命へと、愛が繋がっていく。
その連鎖の中に、僕たちは確かに存在していた。
食事の後、美波は古いアルバムを持ってきた。
「咲季の子どもの時の写真です」
小さな咲季が、そこにいた。写真の中の彼女は、いつも何かを指差していた。何かに驚いたり、何かを質問したり。その表情には、世界に対する飽くなき好奇心が溢れていた。
「この子は、いつも『なぜ?』と聞いていたんです。世界のことも、人のことも。色々なことに質問してきました」
美波の指は、写真の中の小さな咲季を示していた。
「だけど、大人になるにつれて...その『なぜ?』が減っていってしまった。大人になると、質問も笑顔も、どうしても減ってしまう」
美波は、目の前の咲季を見つめた。
「ところが、あなたが現れてから、この子が、また『なぜ?』を始めたんです。『なぜあの人は、こんなに優しいのか』『なぜ一緒にいると、心が落ち着くのか』そんなふうに」
美波の目に、涙が光った。
「だから、ありがとうございます。娘をね。大事にしてくれて。そして、彼女のなかの『子ども』を、もう一度、目覚めさせてくれて」
その言葉が、何を意味しているのか、僕は理解できた。
美波が台所に戻った後、咲季と二人きりになった。
「君の母親、素敵だね」
「え?」
「子どもの時から、お前のことをずっと見ていたんだ。同じ料理を作って。同じ味を保って。お前の笑顔が減ったことにも気づいて」
咲季は、僕を見つめた。そして、柔らかく笑った。
「今も、いっぱい聞きます」
「何を?」
「あなたのこと。何で、こんなに好きなんだろうって」
その言葉に、僕は彼女を抱きしめた。
リビングから、美波のコップを置く音が聞こえた。だが、彼女は戻ってこなかった。そっと、僕たちに時間を与えてくれていたのだ。
帰る時。
美波は、新しいアルバムをくれた。
「これは、今年の咲季の写真です」
最近の咲季。その笑顔は、子どもの時の写真に近づいていた。カフェでのショット、映画館での横顔、川沿いで風に吹かれる髪。全てが、彼女の内面的な喜びを物語っていた。
玄関で、美波が僕たちを見送ってくれた。
「末永くお幸せに」
その言葉が、僕の中で何かを決めた。
三ヶ月後。
同じ玄関で、僕は咲季の母親に、プロポーズの許可を求めた。
昼下がりの光が、リビングに差し込んでいた。咲季は隣の部屋にいた。母親とのこの時間は、男たちの儀式だった。
「娘さんを、ずっと大事にします」
僕がそう言った時、美波の目から涙がこぼれた。
「本当ですか」
「本当です」
美波は、半分涙で、半分笑顔で言った。
「また、この家に。孫を連れて、きてくださいね」
その後、毎月のように、咲季と僕は実家に帰るようになった。
美波は、季節ごとに違う料理を用意してくれた。春は筍ご飯。夏は冷やし中華。秋は栗ご飯。冬はすき焼き。それぞれが、咲季が好きなものばかりだった。
リビングのソファに座る時間が、僕の人生の中で、最も安定した時間になっていった。
結婚してから、三年後。
初めて、美波は孫を抱いた。
小さな命。新しい命。その小さな手が、美波の指を握った時、彼女の顔は、本当に別人のようになった。
別人のように、輝いていた。
「おばあちゃんが、教えてあげるんだよ」
美波は、孫に言った。
「『なぜ?』って聞くこと。その大切さを。世界はね、『なぜ?』で満ちているんだよ」
咲季は、その光景を見て、泣いていた。僕も、その横で、目がうるうるになっていた。
人生は、母親の愛から始まり。
愛する人との出会いで、新しく生まれ変わり。
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その連鎖の中に、僕たちは確かに存在していた。
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